ヘッセ(読み)へっせ(英語表記)Hermann Hesse

デジタル大辞泉 「ヘッセ」の意味・読み・例文・類語

ヘッセ(Hermann Hesse)

[1877~1962]ドイツの詩人・小説家。1923年、スイスに帰化。第一次大戦中より絶対平和主義を唱え、のち、人間の内面性を追究しつつ、東洋思想にもひかれた。1946年ノーベル文学賞受賞。小説「ペーター‐カーメンチント」「車輪の下」「デミアン」「荒野の狼」「ガラス玉演戯」。

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精選版 日本国語大辞典 「ヘッセ」の意味・読み・例文・類語

ヘッセ

  1. ( Hermann Hesse ヘルマン━ ) ドイツの小説家、詩人。一九二三年以降スイスに永住。現代文明への批判を深め、心の深奥の探究と東洋的神秘への憧憬が結びついた小説を書いた。代表作「車輪の下」「デミアン」「ガラス玉演戯」など。一九四六年ノーベル文学賞受賞。(一八七七‐一九六二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘッセ」の意味・わかりやすい解説

ヘッセ(Hermann Hesse)
へっせ
Hermann Hesse
(1877―1962)

ドイツの小説家、詩人。

[藤井啓行]

環境・青春時代

ドイツ南西部シュワルツワルトの森に囲まれ、ナーゴルト川に沿う小さな古い町カルフに7月2日生まれる。この町の流れに架かる石の橋、その上の小さな礼拝堂、昔の石畳が残る広場、これらすべてが、ヘッセの作品のなかに繰り返し描かれている。14歳のとき、父の意思でマウルブロンの神学校に入学。しかし、すでに将来作家になろうと志していた少年には、規則ずくめの生活の強制が耐えきれず、7か月後にはついに自由を求めて脱走し、のちに、その体験をもとに『車輪の下』(1906)を書いた。続いて入った高等中学校(ギムナジウム)も長続きせず、結局、学校生活は打ち切って、さまざまな職業を経験したのち、18歳でチュービンゲンの書店に定職を得た。ここで落ち着きをみいだして仕事に励むとともに、孤独な余暇には、もっとも多くの時間を読書と創作に向けた。書店員としての定職の場は、その後スイスのバーゼルに移る。

[藤井啓行]

作家的成功

1904年『ペーター・カーメンチント』(邦訳『郷愁』『青春彷徨(ほうこう)』)の成功で作家生活に入った彼は、ピアニストのマリーア・ベルヌリと結婚し、ボーデン湖畔の農漁村ガイエンホーフェンに住居を定めた。ここでの8年間の生活のなかから、『車輪の下』、音楽家の諦念(ていねん)を描く『ゲルトルート』(1910。邦訳『春の嵐(あらし)』)や、多くの短編集が生まれた。だが、夫人との間にしだいに不和が高じ、結局は効果がなかったが、なんとか危機の打開を図ろうとして1911年にアジア旅行を試みた。敬虔(けいけん)なプロテスタントであった両親の家系は、いずれもインド伝道に深いかかわりをもち、その家庭には東洋的雰囲気が濃厚で、ヘッセも幼いころからアジアへの関心が強かったのである。この旅行から帰ってのち、翌1912年にはスイスの首都ベルンの郊外に移り住み、芸術家夫妻の結婚生活の破局を扱う『ロスハルデ』(1914。邦訳『湖畔のアトリエ』)や、放浪者を主人公に、しみじみとした情緒にあふれる『クヌルプ』(1915。邦訳『漂泊の魂』)などを発表した。

[藤井啓行]

マスコミの総攻撃

1914年の第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともに、物心両面で極度の危機に直面しながら、ベルンのドイツ領事館に自ら申し出て、ドイツ人捕虜の慰問のため、文庫の発行や新聞の編集などの奉仕事業に、戦時中の全期間を通じて没頭した。他方、開戦直後、ドイツで学者や芸術家たちまでが好戦的な論陣を張っているのに心を痛め、警告の一文を『新チューリヒ新聞』に発表したため、ドイツの文壇やジャーナリズムから総反撃を受けた。その際、例外的に彼を弁護した少数者のなかにフランスのロマン・ロランもいて、ヘッセの「真にゲーテ的な態度」を賞賛してくれたことは、心の大きな慰めとなった。

[藤井啓行]

内面への道――東洋思想への接近

戦時中の過労、父の死、三男の重病、妻の精神病の悪化などのためヘッセはひどいノイローゼになり、1916年からたびたびユング派の精神病医の治療を受けた。それが精神分析学に親しむ機会を与え、その体験から『デミアン』(1919)が生まれた。これを転機にして彼の作風には変化がみられ、内面への道を目ざす求道者的な性格が顕著になって、西洋文明への、東洋思想(その重点は、インドからしだいに中国、ことに老荘思想に移行)による救済が、大きな特徴をなした。この時期の最初の一頂点が、東西の世界観・宗教観を自己の体験のなかに融(と)かし込んだ『シッダルタ』(1922)である。大戦終結の翌年1919年から南スイスのルガノ湖畔のモンタニョーラに定住していたヘッセは、1923年にはスイス国籍を得、また同年、以前から別居中の妻と離婚した。その後ふたたび心身ともに重大な危機に陥り、この苦悩のもとに発表したのが『荒野(こうや)のおおかみ』(1927)で、主人公ハリー・ハラーの精神の分裂をナチス興隆の時代との関連のなかで描き、ヘッセ自身の内面の苦悩の強烈な告白となっている。しかしこれに続く『ナルチスとゴルトムント』(1930。邦訳『知と愛』)では、精神と官能との美しい調和への試みを展開し、1931年に結婚をして死ぬまで生活をともにしたニノン夫人との安定した晩年の生活をうかがわせる。ナチス時代には、「好ましくない作家」として、ドイツ国内での著書の出版は不可能となったので、大作『ガラス玉演戯』(1943)はスイスで出版した。第二次世界大戦終結後、1946年のノーベル文学賞ほか数々の賞を贈られ、1962年8月9日にモンタニョーラの自宅で静かに亡くなった。その墓は、自宅から少し下の、サン・アボンディオ寺院の墓地にある。

[藤井啓行]

作品の特徴

初め「新ロマン派」の作家として迎えられたヘッセの作品は、実は、現代において「真の人生はどのように生きるべきか?」という問題にこたえるために書き綴(つづ)られたもので、人間の個性の尊重に最大の重点が置かれている。現在ヘッセは、ドイツ、日本、アメリカをはじめ広く世界で読まれているが、彼を知るのには、多数のエッセイや書簡類も重要である。資料館としては、マールバハのシラー民族博物館やベルンの州立博物館などが著名。

[藤井啓行]

『高橋健二訳『ヘッセ全集』全10巻(1982~1983・新潮社)』『高橋健二著『ヘルマン・ヘッセ――危機の詩人』(1974・新潮社)』『B・ツェラー著、井原恵治訳『ヘッセ』(1981・理想社)』『滝沢寿一・井手賁夫・小島公一郎編『ヘルマン・ヘッセをめぐって――その深層心理と人間像』(1982・三修社)』


ヘッセ(Ludwig Otto Hesse)
へっせ
Ludwig Otto Hesse
(1811―1874)

ドイツの数学者。カッセルの生まれ。ケーニヒスベルク大学(現、イマヌエル・カント・バルト連邦大学)、ハイデルベルク大学ミュンヘン工科大学の教授を歴任。直交軸の設定された平面上で、原点から一直線へ下ろした垂線がx軸となす角をθ、この垂線の長さをpとすれば、この直線の方程式
  xcosθ+ysinθ=p
と書かれ、これは直線の方程式のヘッセの標準形とよばれる。

矢野健太郎

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改訂新版 世界大百科事典 「ヘッセ」の意味・わかりやすい解説

ヘッセ
Hermann Hesse
生没年:1877-1962

ドイツの詩人,小説家。南ドイツのシュワーベンの町カルフでプロテスタント聖職者の家庭に生まれる。少年期を過ごした美しい故郷はヘッセにとって終生魂の故郷ともなったが,この地の敬虔主義の厳格な雰囲気は,13歳で詩人になることを決意したヘッセの苦しい葛藤の因ともなった。両親は,母方の祖父ヘルマン・グンデルトのインドでの布教活動を手伝っており,ヘッセの東洋志向の契機をなした。4歳から9歳までバーゼルで過ごす。14歳のときマウルブロン神学校に入学したが,ここの規律と詰込み教育に耐えられず退学。以後,書店員見習,機械工見習などさまざまな職場を転々とするかたわら文学修業に努め,22歳で詩集《ロマン的な歌》《真夜中後の一時間》(1899),24歳で《ヘルマン・ラウシャー》(1901),25歳で《詩集》(1902)を出し,念願の詩人としての道を歩み始める。彼の出世作は《ペーター・カーメンツィント》(1904,邦訳名《青春彷徨》《郷愁》)で,魂のロマン的な憧憬とみずみずしい自然感情が自然主義文学に飽きてきた当時の読者に迎えられた。作家として独立し結婚(1904),新居をボーデン湖畔の小村ガイエンホーフェンに構えて創作に専念し,《車輪の下》(1906),《ゲルトルート》(1910,邦訳名《春の嵐》)刊行。34歳のときアジアへの旅に出,帰国後スイスのベルンに移住。1914年,《ロスハルデ》刊行。同年第1次大戦が起こり,戦争を公然と非難したため,ドイツより裏切り者と攻撃される。ヘッセの平和主義的態度をたたえたロマン・ロランと交友が始まる。このころ家庭的不幸が加わり内外の苦難のためノイローゼに陥って,精神分析の治療を受け,C.G.ユングとも接触した。この経験をもとに《デーミアン》(1919)を書く。この作品以後,従来の抒情性よりも意識的に精神の世界を探求する知的な面を強めていく。18年,南スイスのモンタニョーラにひとり移り住む。真我に到達しようとする求道の書《シッダールタ》(1922)執筆。27年,浅薄な現代文明と画一化された社会を批判すると同時に自己の内面を仮借なく解剖した実験的な小説《荒野の狼》刊行。30年,《ナルツィスとゴルトムント》刊行。ナチスのファシズムが強まっていくなかで,11年間をかけて,時代批判に基づく象徴的理念的世界を描いた未来小説《ガラス玉遊戯》(1943)を書き続けた。終戦直後,ゲーテ賞,ノーベル文学賞受賞。62年8月9日,モンタニョーラで亡くなった。

 日本では昭和10年代以来,そのリリシズム,憧憬や漂泊の思い,東洋的観想などが日本人の資性に応ずるところがあってか一般にはよく読まれ,求める魂の彷徨を通して自己形成を図っていく内面追求の作品が日本の青年にも共感を呼んでいる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘッセ」の意味・わかりやすい解説

ヘッセ
Hesse, Hermann

[生]1877.7.2. カルブ
[没]1962.8.9. モンタニョーラ
ドイツの詩人,小説家。牧師の息子に生れ,神学校に学んだが脱走。機械工を経てテュービンゲンの書店に勤め,詩作に励んだ。レーナウやノバーリスを思わせる詩風であったが,1900年スイスのバーゼルに移ってから小説を書きはじめた。 04年『ペーター・カーメンチント』 Peter Camenzindで成功を収め,ボーデン湖畔に住み,『車輪の下』 Unterm Rad (1906) を書く。インド旅行ののち,12年ベルンに移住。 19年以後ルガーノ湖畔のモンタニョーラに定住し,23年スイス国籍を得た。主著に『デミアン』 Demian (19) ,『荒野の狼』 Der Steppenwolf (27) ,未来小説『ガラス玉演戯』 Das Glasperlenspiel (43) など。 46年ノーベル文学賞受賞。

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百科事典マイペディア 「ヘッセ」の意味・わかりやすい解説

ヘッセ

ドイツの詩人,小説家。牧師の子で,父母も祖父母もインドで布教に従事。神学校を中退,《詩集》(1902年)などで注目される。感傷的な青春小説《ペーター・カーメンツィント》(1904年,邦訳名《郷愁》)で名を成し,《車輪の下》などの自伝的作品を書く。1911年インドなどを旅行。第1次大戦中公然と戦争を非難,ロマン・ロランと親交を結ぶ。1923年以降スイス国籍。《デーミアン》(1919年)から《シッダールタ》(1922年),《荒野の狼》(1927年)にいたる諸作で,精神と自然の対立に悩む自己の内面をきびしく追求。官能と精神の融合を描く《ナルツィスとゴルトムント》(1930年)の後,10年をかけた大作《ガラス玉演戯》(1943年)で精神のユートピアを描いて円熟調和の境地を示した。1946年ノーベル文学賞。日本でも昭和10年代以降一般によく読まれている。
→関連項目マウルブロン修道院

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367日誕生日大事典 「ヘッセ」の解説

ヘッセ

生年月日:1811年4月22日
ドイツの数学者
1874年没

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旺文社世界史事典 三訂版 「ヘッセ」の解説

ヘッセ

ヘルマン=ヘッセ

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世界大百科事典(旧版)内のヘッセの言及

【デーミアン】より

ヘッセ作の小説。1919年刊。…

※「ヘッセ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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