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ベトナム共産党 ベトナムきょうさんとう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ベトナム共産党
ベトナムきょうさんとう

ベトナムの政党。1930年2月3日ホー・チ・ミンの指導でホンコンにおいて創設,同年 10月の第1回中央委員会総会でインドシナ共産党と改称。初代書記長はチャン・フー。1941年5月,民族統一戦線のベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織し,対フランス独立闘争を戦った(→インドシナ戦争)。1951年,第2回党大会でベトナム労働党と改称。主席にホー・チ・ミンを,書記長にチュオン・チンを選出した。1956年中央委員会総会でチュオン・チンを解任。1959年5月13日,第15回中央委員会総会でベトナム共和国(南ベトナム)での武装蜂起を決定。1961年党南部委員会を再発足させ,南ベトナム解放に全力を注いだ。このため党政治局員ファン・フンを党南部委員会の総責任者兼南ベトナム解放民族戦線政治委員に任命した。1974年末に党政治局会議で南ベトナム解放のための大攻勢を決定し,総動員体制をとった。翌 1975年4月30日に南ベトナムの首都サイゴン(→ホーチミン市)を攻略,解放した(→ベトナム戦争)。1976年7月ベトナム社会主義共和国が発足,同年 12月にハノイで開かれた第4回党大会で党名を創立当初の名称,ベトナム共産党に改称した。1986年12月の第6回党大会でチュオン・チン国家評議会議長が経済路線の硬直を自己批判し,ドイ・モイ路線が採択され,さらに革命第一世代の引退も決定された。グエン・バン・リンが書記長に就任後,共産党政権はドイ・モイ路線を進め,経済復興・発展に取り組んだ。

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百科事典マイペディアの解説

ベトナム共産党【ベトナムきょうさんとう】

ベトナムの政党。1930年ホー・チ・ミンらが中心となって創立したインドシナ共産党の後身。1945年ベトナム民主共和国(北ベトナム)成立後,抗仏闘争(インドシナ戦争)をより広範な基盤の上に展開するため解散,1951年新たにベトナム労働党として再発足。
→関連項目人民革命党チュオン・チンファム・バン・ドン

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世界大百科事典 第2版の解説

ベトナムきょうさんとう【ベトナム共産党】

1930年2月3日,香港(九竜)でホー・チ・ミン(当時はグエン・アイ・クオック)主宰の下にインドシナの共産主義組織各派を糾合して成立した政党。以来ベトナム革命を指導する政党として今日にいたり,92年4月に採択されたベトナム社会主義共和国憲法でも第4条に,〈国家を指導し社会を指導する勢力〉と規定されている。 党設立当時の名称は中国式の呼び方でベトナム共産党Viet Nam Cong San Dangであったが,1930年10月コミンテルンの指示を受け,インドシナ共産党と改称した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ベトナム共産党
べとなむきょうさんとう
Dang Cong San Viet Nam

ベトナム社会主義共和国の政党。1930年2月3日、香港(ホンコン)(九竜(きゅうりゅう/チウロン))でホー・チ・ミン(当時はグエン・アイ・クォック)主宰のもとにインドシナの共産主義組織各派を糾合して成立した。以来ベトナム革命を指導する政党として今日に至る。1992年に採択された同国の現行憲法第4条には、「国家を指導し社会を指導する勢力」と規定されている。
 党設立当時の名称は中国式のよび方で、ベトナム共産党Viet Nam Cong San Dangであったが、1930年10月コミンテルン(第三インターナショナル)の指示を受け、インドシナ共産党と改称した。1945年の八月革命後、同党主導で樹立した新政権の危機回避のため一時的に偽装解散をしたが、1951年2月の第2回全国代表大会(開催地トゥイエンクアン)でベトナム労働党と改称するとともに、公然と活動を再開した。
 1960年9月の第3回全国代表大会(ハノイ)では、1954年のジュネーブ協定締結後、事実上南北に分断されたベトナムの統一を最大の目標に掲げ、以後、北部の社会主義建設とともに南部の解放闘争を積極的に支援することを決定した。1969年9月、ホー・チ・ミンが死去するまでは彼が党の最高指導者であったが、その死後はレ・ズアン書記長、チュオン・チン、ファン・バン・ドンらを中心とする集団指導体制が確立した。1975年4月30日、北ベトナム軍と南部解放戦線が総攻撃をかけて南部解放に成功し、1976年12月の第4回全国代表大会(ハノイ)で、ベトナム式のよび方によるベトナム共産党Dang Cong San Viet Namと改称した。1979年に起きた、ポル・ポト支配下の民主カンボジアおよび中華人民共和国との戦争後は、とくにソ連共産党と友好関係にあったが、1980年代後半におけるソ連、東欧諸国の共産主義政権の動揺と崩壊のなかで従来の社会主義建設路線を大幅に修正することになった。
 1986年12月の第6回全国代表大会で政治の民主化、経済の改革・開放を柱とする「ドイモイ(刷新)」路線を採択し、1988年には「向ソ一辺倒」の外交路線を全方位外交路線へ転じた。1991年の第7回全国代表大会ではベトナム革命の長期的指針となる「党綱領」を採択し、ドイモイ路線を定着させた。以後、ドイモイ路線のもとでベトナム革命を指導している。
 2006年4月の第10回全国代表大会(ハノイ)ではノン・ドゥク・マイン書記長をはじめ、レ・ホン・アイン、グエン・タン・ズン、グエン・ミン・チエット、チュオン・タン・サンなど政治局員に14名、書記局員に8名、中央委員に181名(候補委員21名を含む)が選出された。
 党員数は1951年当時76万人であったが、2006年4月時点で310万人と増大している。組織系統は中央(全国)級、地方級、基礎級の3級に分かれ、それぞれの級が代表大会を開催するとともに、これによって選出された各級委員会をもつ。党の最高指導機関は全国代表大会で、通常5年に1度開催される。党の日刊機関紙は「ニャンザン(人民)」、月刊政治理論雑誌は「タップチ・コンサン(共産雑誌)」である。[五島文雄]
『古田元夫著『ベトナム人共産主義者の民族政策史――革命の中のエスニシティ』(1991・大月書店) ▽タイン・ティン著、中川明子訳『ベトナム革命の内幕』(1997・めこん) ▽栗原浩英著『コミンテルン・システムとインドシナ共産党』(2005・東京大学出版会)』

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世界大百科事典内のベトナム共産党の言及

【ニャンザン】より

…ベトナム共産党の日刊機関紙。1946年,ベトナム共産党の前身であるインドシナ共産党(1951年にベトナム労働党,76年現名)の機関紙として創刊された。…

【ベトナム】より

… 第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。この社会変容を背景に,1925年ホー・チ・ミンによってベトナム青年革命同志会が生まれ,これを母体に30年ベトナム共産党が成立し,またグエン・タイ・ホクのベトナム国民党が生まれた。共産党は30‐31年のゲティン・ソビエトの壊滅によって一時打撃を受けたが,チャン・バン・ザオが南部の組織を再建し,タ・トゥ・タウらトロツキスト派と統一戦線を組んでサイゴン市会選挙などに進出した。…

【ベトミン】より

…ベトナム独立同盟会の略称。インドシナ共産党(現,ベトナム共産党)第8回中央委員会(1941年5月)の決議に基づき,1941年5月19日,フランスおよび日本に対する民族解放の戦いに各階層,党派,大衆団体に属する人民を広範に結集させるために設立された統一戦線組織。ベトミンに参加する大衆団体には,国を救うことを重要な目的とする意味で,例えばベトナム労働者救国会,ベトナム農民救国会,ベトナム婦人救国会などのように,その団体名に救国会の3文字がつけられた。…

※「ベトナム共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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