フランス語で表現活動をしたベルギーの詩人。フランスでは一般にはベラーレンと呼ばれている。はじめ法律を修めて弁護士となったが,学生時代から既に《ラ・ジュンヌ・ベルジック(若きベルギー)》誌の有力な一員として文学への関心を深めていた。決定的に文学者として登場した頃の詩風はむしろ自然主義的描写の色が濃く,フランドルの田園風景を通して人間の強い本能の力を歌ったが,1887年ころを境に詩風が一変し,《夕暮》(1888),《壊滅》(1888),《黒い炬火(たいまつ)》(1890)の三部作詩集では死の恐怖とかなたへの憧れにみちた陰鬱な風景と瞑想とが展開される。この〈象徴派参加〉時代の彼がベルレーヌ風の〈詩句の柔軟化〉に努めていることは明らかで,やがて自由詩にも手を染めるのだが,わがものとなし得た自由詩という道具が彼に幻覚を激しく吐き出させる,むしろ解毒剤の役割を果たして,象徴主義の〈人工的〉密室から彼がわが身を解放する契機となった。1892年社会主義に加担することを明言した彼は,自由詩の流動性を今度は社会的義憤を激烈に表現する武器となすべく断固として雄弁になる。詩集《幻覚の野》(1893),《触手ある都会》(1895)などを矢つぎばやに発表して文明による自然破壊の現実を糾弾するかたわら,新しい生のあり方を《騒がしき力》(1902),《天上の炎》(1918。1914以前の創作)などによって歌い上げて,J.ロマンらユナニミストたちや《NRF(エヌエルエフ)》誌のグループをはじめ全ヨーロッパのより若い世代に文学的出発点を提供した。1916年,交通事故のため死去。ベルハーレン(エミイル・ルハアレン)の日本への紹介は,上田敏による《鷺の歌》訳出(1904年1月《明星》誌上に〈象徴詩〉と特記して発表)に始まり,高村光太郎によっても翻訳された。
執筆者:松室 三郎
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フランス語で書くベルギーの国民的詩人。アンベルス近郊のサン・タマンの羅紗(らしゃ)織業者の家庭に生まれる。ヘントの中学でローデンバックを知り、文学に開眼する。ルーバン・カトリック大学卒業後、一時弁護士になるが、在学中から文学活動を続け、1881年『若きベルギー』誌創刊に参画。83年処女詩集『フランドルの女たち』、86年『修道士たち』を上梓(じょうし)。その後87年から91年にかけて心身の危機を経験、三部作『夕暮れ』(1887)、『壊滅』(1888)、『黒い炬火(たいまつ)』(1890)はその時期の作品。『わが道の面影』(1891)を経て回復に向かい、都市文明と社会主義に関心を強め、『幻覚の野』(1893)、『幻の村』(1895)、『触手ある都会』(1895)を著す。また、この間『若きベルギー』誌と決別(1887)。95年からパリに定住、『生の様々な顔』(1899)、『騒がしき力』(1902)、『五彩の輝き』(1906)から死後出版の『天上の炎』(1918)に至る作品群で自然と生命の力を歌った。また、一方では、妻マルトMartheへの愛を糧(かて)に『明るい時』(1896)、『午後の時』(1905)、『夕べの時』(1911)を残した。1916年11月26日、ルーアンで鉄道事故死。
[遠山博雄]
『高村光太郎訳『ヴェルハァラン詩集』(1953・東京創元社)』▽『渡辺一民訳『触手ある都会・騒がしき力』(『世界名詩集大成3』所収・1962・平凡社)』
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