翻訳|Bengal
インド亜大陸北東部の地方名。ガンガー(ガンジス)川とブラフマプトラ川両水系の下流平野と河口部一帯をいう。インドの西ベンガル州(面積8万8752km2。人口8018万,2001)とバングラデシュ共和国(面積14万7570km2。人口1億2925万,2001)からなる。住民はインド・ヨーロッパ語系諸族に属するベンガル人が人口の90%以上を占める。南西端のチョタ・ナーグプル高原東端部と南東端のチッタゴン丘陵とを除くと,全域がほぼ低平な沖積平野に覆われる。同平野は大小の河川が乱流と流路変更を繰り返しながら形成してきたもので,ガンガー川本流もかつては南西部のバギラティ川とその下流のフグリ川を流れていたが,15世紀に現在のパドマ川およびメグナ川に東遷した。このガンガー川の新旧両流路によって囲まれた三角形の地帯が,形成過程にあるガンガー・ブラフマプトラ三角州で世界最大の規模をもつ。それを馬蹄形に取り巻いて古い沖積面が広がり,その内部にラテライト化した沖積台地を抱いている。最北端のヒマラヤ山脈南麓は東西に延びる狭長なタライとなり,標高約400mで山地に移行する。三角州は南に向かうほど形成時期が新しくなり,最南端はスンダルバンの大海岸湿地林帯となっている。その東のパドマ川周辺一帯が,増水期の氾濫により現在最も活発にデルタ形成が進みつつある活動期三角州である。世界最大の生産量を誇るジュートは新しい土壌供給が可能な所を最良の栽培地とするため,活動期三角州地帯とブラフマプトラ川本流沿いをその主産地とする。気候は雨季と乾季の別が明瞭な亜熱帯性気候で,年降水量1500~2000mm,降水量は東に向かうほど多くなり,南東端や北端部では2500mmを超える。年降水量の約70%は6月初め~10月初めの南西モンスーン期に降る。10~11月にはベンガル湾北部に発生したサイクロンと呼ばれる熱帯性低気圧が来襲し,大雨と強風また高潮によって大きな被害を生ずることがある。
ベーダ時代にはバンガーVangāと呼ばれ,現地名はそれに由来するとされる。前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで諸王朝の属領であったが,8世紀中期に独自の政治勢力としてパーラ朝が成立した。同朝はベンガルを根拠地とする北東インド最後の仏教王朝であったが,12世紀にはヒンドゥー王朝のセーナ朝にとって代わられた。13世紀以降はムスリム諸王権によって支配され,これを契機にイスラムの浸透がみられた。1576年にはムガル帝国領に編入され,皇帝から任命されたナワーブ(太守)によって統治された。18世紀初め以降同帝国の衰退とともに,ナワーブが実質的な支配者となった。ムガル帝国下のベンガルはインド最大の綿・絹製品の産地で,またガンガー川の水運利用による内陸からのインジゴ(藍),アヘン,硝石の集散地であった。これら諸産品を求めて,すでに1530年代に来航していたポルトガルに代わって,17世紀中期以降オランダ,イギリス,フランスなどがベンガルに進出してきた。イギリス東インド会社は1651年にフグリにベンガル最初の商館を設け,1702年には現在のコルカタ(旧カルカッタ)の地にウィリアム要塞を建設してベンガルでの拠点とした。57年のプラッシーの戦での勝利は,ベンガルにおけるイギリスの覇権を確立させた。
1803年にはオリッサ,26年にはアッサムが英領化され,ベンガル管区に編入された。33年にはベンガル総督をインド総督と改称し,カルカッタはインド政庁の所在地となった。1905-11年には人口の増加と行政の複雑化とを理由にベンガルは東西に分割されたが,激しい反対運動が巻き起こり独立運動に拍車をかけることになった。12年には分割の廃止と主都のカルカッタからデリーヘの遷都が発表された。43年にはサイクロンと飢饉により約200万人が死亡するという被害があった。加えて47年のインド・パキスタン分離独立はベンガルに大きな打撃を与え,皮肉にも東・西ベンガルの分割が国境線を伴って実現されることになった。1941年の国勢調査によると,西ベンガルではヒンドゥー教徒が,また東ベンガルではイスラム教徒が人口のそれぞれ70%を占めていた。東ベンガルはパキスタンの東ベンガル州(1956年以降東パキスタン州)を形成した。分離独立により多数の難民の発生に加えて,ジュートの産地と加工地とが東西に分かれるなど,ベンガルの経済的・文化的統一性が分断された。71年には東パキスタン州はバングラデシュとして独立した。
執筆者:応地 利明
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インド亜大陸北東部の地方名。インドの西ベンガル州とバングラデシュからなる。インドではコルカタ(カルカッタ)、バングラデシュではダッカが中心的な都市である。土地の人はベンゴールと発音し、「バングラデシュ」はベンガル人の住む土地を意味する。ガンジス川下流デルタ一帯の豊かな土地で、「黄金のベンガル」とよばれることもある。米、ジュートの生産が多く、住民は、インド・ヨーロッパ語系に属するベンガル人が人口の90%以上を占める。
[北川建次]
この地方は、インド・アーリア人の定住地の東端をなし、住民にはモンゴロイド、ドラビダなど非アーリア系要素が色濃く残っている。6世紀前半のグプタ帝国の崩壊後、8世紀中ごろに仏教を支持するパーラ朝が統一を達成した。12世紀中ごろ、南インドから侵入したセーナ朝がこれを倒し、正統ヒンドゥー教を復活させ、カースト制度を確立した。13世紀初頭、アフガン系イスラム教勢力がベンガルを征服し、ついで16世紀後半~18世紀後半までムガル帝国によりイスラム教徒支配が続いた。16世紀後半から、この地に産する生糸、絹布、綿布などを求めてポルトガル、オランダ、フランス、イギリスの各国が商館を設立した。1765年イギリス東インド会社がベンガルの実質的な領有権を獲得し、この地の豊かな税収はその後のイギリスのインド征服の重要な財源となった。こののち、1947年の分離独立まで、インドの植民地的経済搾取の最大の拠点であった。
[谷口晋吉]
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バングラデシュとインドの西ベンガル州を合わせた地域にほぼ相当する。主な言語はベンガル語。ガンジス川,ブラフマプトラ川,メグナ川の3大水系が形成する複合デルタの上に位置し,中心都市はコルカタ(カルカッタ)とダカ(ダッカ)である。人口の54%がムスリム,43%がヒンドゥーで(1931年),前者は東部に多く,後者は西部に多く住む。グプタ朝の時代までにバラモン教が主要な宗教となったが,一方では仏教も盛んであった。13世紀,イスラーム勢力にセーナ朝が滅ぼされて以降イスラーム化が進行した。ムガル時代にはインドで最も豊かな地域の一つとされ,植民地支配期には,インドの西欧化・近代化の先頭を切る地域となった。1947年のインド・パキスタン分離独立で東西に分割され,活力を失った。
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