翻訳|Pelagius
イギリス(おそらくアイルランドでなくブリテン)生れの修道士。いわゆるペラギウス主義Pelagianismの創唱者。ローマに行き司祭に叙任されず平信徒として聖書を講義していたが,洗礼以外の恩恵をみとめず,自由意志による救済をとなえたことで異端とされた(399および418)。410年西ゴート族によるローマ陥落後北アフリカのカルタゴに行き,アウグスティヌスとはげしく論じ合った。その論争はペラギウスがパレスティナに去ったのちも弟子のカエレスティウスCaelestius,アエクラヌムのユリアヌスJulianusとアウグスティヌスの間でつづけられ,アウグスティヌス側の莫大な論争書が残っている(《霊と文字》《自然と恩恵》《ユリアヌス反駁》など)。
ペラギウス派はストア学派の賢者の理想をかかげ,ひとは律法を完全に守ることでこの目的に至りうると主張した。そのさい,〈天地が滅び行くまでは律法の一点一画もすたれない〉(《マタイによる福音書》5:18)としるした〈山上の垂訓〉を重視し,また〈最後の審判〉を強調したが,これは律法と福音,旧約と新約を分離し対立させるマニ教の教説に反対するものであった。しかも自力による救いの努力を〈信仰のみ〉と称したこともあったので(《ガラテヤ人への手紙講解》),論争は輻湊をきわめた。ペラギウスの弟子たちはさらに原罪,預定(選び),幼児洗礼を否定したが,彼らの死後この極端な主張をやわらげる形での半ペラギウス主義Semipelagianismが生じ,それはネストリウスに影響したほか中世のカトリック教会にも長く尾を引いた。宗教改革者とジャンセニストは,ペラギウス主義と半ペラギウス主義とを協働説あるいは救済の二重化とみなしてきびしくしりぞけた。
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの修道士、神学者。384年ごろローマで厳しい修道生活を送り、ケレスティウスCelestiusをはじめ多くの人に影響を与えた。アラリックのローマ占領(410)の直前カルタゴ(アフリカ)で司祭の地位を求めたが拒絶され、エフェソス(パレスチナ)で司祭になった。原罪を否定し、人間の自由意志を強調する彼の教説は、アウグスティヌスやヒエロニムスの批判にあい、激しい論争を展開した。418年追放決定以来、姿を消した。『パウロ書簡注解』などいくつかの著作が残っている。
彼によれば、人間は善をも悪をもなすことができる自由意志をもっているが、恩恵は、本来意志が独力でなしうることを、いっそう容易にできるよう助けるもの、とした。アウグスティヌスは「罪に移り行くのには自由意志決定で十分である」が、「義に立ち返るには、恩恵と援助とあわれみが必要である」(『自然と恩恵』23章25)として反対し、416年カルタゴ会議でペラギウスは異端として退けられた。
[加藤 武 2017年12月12日]
『金子晴勇他訳『アウグスティヌス著作集9・10 ペラギウス派駁論集1・2』(1979、1985・教文館)』
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…キリスト教の最初の数世紀間に,人間は恩寵なしにも善を意志し,実行しうるのか,またみずからの自由意志によって恩寵への準備をととのえることができるかが問題となった。ペラギウスは原罪を否定し,人間は自力で神法を遵守しうるほどの完全な自律的自由を有すると主張して恩寵の必要性を軽視した。また半ペラギウス主義は,人間は自由意志によってみずからを恩寵を受けるにふさわしい状態に置きうると説く。…
…神学においては,罪の赦しは無償か有償か,全面的か部分的か,代理的か自力的かが論じられた。ペラギウスの自力的道徳主義はアウグスティヌスによって退けられたが,教会は正統と異端の争いをかかえ,全体としてみて現世的・道徳主義的な罪の理解にとどまらざるをえなかったといえる。これはニーチェがキリスト教の矮小化とみて批判の俎上(そじよう)にのせたことでもある。…
※「ペラギウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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