ホプキンズ(読み)ほぷきんず(英語表記)Lightnin' Hopkins

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホプキンズ」の意味・わかりやすい解説

ホプキンズ(Lightnin' Hopkins)
ほぷきんず
Lightnin' Hopkins
(1912―1982)

アメリカのカントリー・ブルース・シンガー、ギタリスト。滋味豊かなダーティ・ブルース(洗練されていない、しばしば猥褻(わいせつ)な内容をもつブルース)に定評がある。テキサス州センタービルの生まれ。本名サム・ホプキンズSam Hopkins。父のエイブ・ホプキンズAbe Hopkins、兄弟のジョン・ヘンリー・ホプキンズJohn Henry Hopkinsとジョエル・ホプキンズJoel Hopkins(1904―1975)もブルース奏者である。1920年、ブラインド・レモン・ジェファソンに出会い、その後リード・ボーイ(盲人の先導役)を務める。1920年代終わりごろまでには、従兄弟(いとこ)でテキサス・ブルースの確立者ともいわれ、絶頂期にあったテキサス・アレグザンダーTexas Alexander(1900―1954)と活動をともにしながら、ブルースマンの人生を理解していった。1930年代なかごろにはヒューストン郡監獄農場に送られていたようであるが、この時期のことは後も詳しくは話そうとしなかった。だが、鎖でつながれたための足のかかとの傷あとがその生活を物語っていた。

 ミュージシャンとして登場してくるのは第二次世界大戦後のカントリー・ブルース復興期で、1946年に西海岸のアラジン・レコードに、ピアニストのサンダー・スミスWilson“Thunder”Smithとともにサンダー&ライトニンとして「ケイティ・メイ」ほかを録音した(『ザ・コンプリート・アラジン・レコーディングズ』The Complete Aladdin Recordings(1991)収録)。ブルースの深いニュアンスや詩情をたたえた歌詞によるボーカル、それと渾然(こんぜん)一体となった、当意即妙で表情豊かなギターが印象的であり、ブルースという音楽をまさに体現しているかのような人物の出現であった。ユーモラスな「ショート・ヘアード・ウーマン」(『ゴールド・スター・セッションズ Vol. 1』The Complete Gold Star Sessions, Vol. 1(1990)収録)といったヒットも出し、1950年代前半までゴールド・スター、シティン・イン・ウィズ、ジャックスといったレーベルに数多くの傑作を残している。アコースティック・ギターからエレクトリック・ギター、さらにピックアップをつけた生ギターも好んで用いたが、ホプキンズのブルース表現の機微はむしろエレクトリック楽器を通してこそ最大に発現されるものであった。1950年代前半のデッカ、マーキュリー、ヘラルドといったレーベルへの作品はとくに「ダーティ・ライトニン」の魅力が最大限に発揮されたものとなった。

 ロックン・ロール全盛時代となる1950年代中盤にはホプキンズのブルースはすでに時代遅れとみなされ、ヒューストンのゲットーで近所の住人相手に歌う毎日であったが、1959年ブルースの世界を世に知らしめたプロデューサー、ブルース研究家サミュエル・チャーターズSamuel Charters(1929―2015)の著書『ザ・カントリー・ブルース』The Country Bluesで紹介されフォーク・ブルース・マーケットで認められるようになり、バーブやキャンディドといったフォーク系または非商業系レーベルにアルバム単位の録音をし、当代最高のブルースマンとしての扱いを受けるに至った。同時期に黒人プロデューサー、ボビー・ロビンソンBobby Robinson(1917―2011)のためにも吹き込み、ホプキンズのテーマ曲になるライトニン・ブギ・ウギ・ナンバーの真骨頂「モウジョ・ハンド」を含む最高傑作の同名アルバムを発表している。前金さえ渡されればアルバム1枚分程度の録音はいとも簡単に行っていたため録音数も多いが、一定レベルの音楽水準はつねに保っていた。よき理解者であったクリス・ストラックウィッツChris Strachwitz(1931―2023)主宰のアーフーリー・レーベルへの録音アルバム『テキサス・ブルースマン』(1969)などは、シングル盤では表現できなかった世の中への愚痴や抗議、長いカントリー・ダンス・ナンバーも十分表現できるものであった。ホプキンズにとってブルースを歌い、表現することが自然な形で生活の一部になっていたことも、音楽の質の高さにつながっていた。1960年代の終わりには、当時南部のブルース・マーケットで大いに気を吐いていたルイジアナのジュウェル・レコードと契約、ソウル・ミュージック全盛の時代になってもなお、ジュークボックスからその「野卑」な歌声を響かせていた。1978年(昭和53)には来日、ヒューストンでみせるのとなんら変わりのないステージをいつものように超然と繰り広げ、ブルース・ファンの感動をよびおこした。ヒューストンでのその生活とブルースをドキュメントしたビデオ『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』(1969)は、ブルースマンの何たるかを収めたたぐいまれな映像である。1982年がんにより70歳で死去。

[日暮泰文]

『Samuel ChartersThe Country Blues(1975, Da Capo Press, New York)』


ホプキンズ(Sir Frederick Gowland Hopkins)
ほぷきんず
Sir Frederick Gowland Hopkins
(1861―1947)

イギリスの生化学者。サセックスのイーストボーンに生まれる。鉱山学校や病院などで分析化学を学んだが、1898年にケンブリッジ大学に入り生化学を研究し、1914年同大学生化学教授。1925年ナイトの称号を受け、1930~1935年は王立協会の総裁を務めた。血清タンパクの結晶化の研究から始まり、タンパク中のアミノ酸のトリプトファンを1901年に発見した。またカエルの筋肉の乳酸生成について研究し、のちのマイヤーホーフの解糖系の究明の端緒の一つとなった。トリプトファンの発見は、四大栄養素以外に自然食品に含まれている微量の成長促進物質の研究に発展し、ビタミン学の先駆的研究になった。この研究でC・エイクマン(抗神経炎ビタミンを発見)とともに1929年ノーベル医学生理学賞を受賞した。

[宇佐美正一郎]


ホプキンズ(Gerard Manley Hopkins)
ほぷきんず
Gerard Manley Hopkins
(1844―1889)

イギリスの詩人。エセックスのストラトフォード生まれ。オックスフォード大学在学中にオックスフォード運動の洗礼を受け、1866年カトリックに改宗。2年後にイエズス会に入る。それまでにすでにキーツ風の作品でみずみずしい詩才を表していたが、信仰生活のため筆を絶った。7年後、宗派の指導者の勧めで、カトリック尼僧たちの殉難を悼んだ長詩『ドイッチランド号の難破』(1875)を書き、特異な詩風を確立。その韻律形式はスプラング・リズムとよばれ、通常四つまでの弱音節に伴われた強勢が単位となって、リズムをつくっていく。古代英詩の基本的性格に先祖返りした作詩法であるが、口語英語の基本性格にも近い。その後も彼は白熱した信仰的献身の恍惚(こうこつ)と苦悩に、そしてその献身を通して把握される自然の事物の特性(彼はこれをインスケープinscapeとよぶ)に、身震いするほどの詩的表現を与え続けた。作品は死後、生前の友人R・S・ブリッジズの手に残ったが、あまりにも斬新(ざんしん)な詩風のため刊行は遅らされた。1918年、ようやく英詩の風土に新しい精神がみなぎり始めた時点で『ホプキンズ詩集』として発表され、ダンおよび形而上(けいじじょう)派詩の復活と相まって、20世紀英詩の風土を決定した。

[川崎寿彦]

『安田章一郎著『G・M・ホプキンズ研究』(1983・清水弘文堂)』『安田章一郎編『ホプキンズのこころ』(1979・山口書店)』


ホプキンズ(Harry Lloyd Hopkins)
ほぷきんず
Harry Lloyd Hopkins
(1890―1946)

アメリカの政治家。8月17日ミズーリ州スーシティ生まれ。グリンネル大学卒業。児童福祉委員会や貧困状態改善協会など社会福祉事業で活躍。F・D・ルーズベルト政権の下で連邦緊急救済局、民間事業局、雇用促進局の長官を歴任、ニューディールの失業救済政策を担当した。のち商務長官を経て、第二次世界大戦期にルーズベルトの側近として対外政策面で活動、武器貸与政策を推進し、また当時のソ連との協力関係を重視した。1946年1月29日没。

[新川健三郎]

『シャーウッド著、村上光彦訳『ルーズヴェルトとホプキンズ』(1957・みすず書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ホプキンズ」の意味・わかりやすい解説

ホプキンズ
Gerard Manley Hopkins
生没年:1844-89

イギリスの詩人。オックスフォード大学在学中,W.ペーターの唯美主義とM.アーノルドの人文主義にともにひかれながらも,強い宗教的情熱ゆえに,E.B.ピュージーの〈高教会運動〉を経てJ.H.ニューマンの影響のもとカトリックに改宗するに至った。1868年にはイエズス会に加わり,信仰への献身のため,10代のころから書き続けていた詩のすべてを焼き捨てた(実は少数の詩編は免れた)。75年にテムズ河口で起きた海難で5人の修道女が溺死したが,これをきっかけに傑作《ドイッチュラント号の難破》(1876執筆)を書き上げて以来,詩作を再開,ダブリン大学の古典語教授として没するまでに,数十編の詩を書き残した。友人R.ブリッジズの編纂による詩集の死後出版(1918)は,おそらく19世紀後半の最も重要な詩人の発見をもたらした事件であった。古英詩の詩法に似た韻律法である〈スプラング・リズムsprung rhythm〉,対位法や造語を駆使した特異な語法,〈インスケープinscape〉と彼が名づけた凝縮されたイメージの創造など,ホプキンズの詩は20世紀詩人の模倣を誘うほどの詩的実験に満ちている。だが,それらの詩法は,彼においては,被造物世界の美的経験と,神の栄光と神秘への宗教的参入を合致させようとする内的苦闘と不可分であった。〈マグソタカ〉〈フェリックス・ランダル〉〈春と秋〉など難解な傑作を含む詩集は,彼を17世紀のG.ハーバートに匹敵する偉大な宗教詩人たらしめている。1930年代に公刊された書簡集と日記も,すぐれた精神の軌跡を示す記録である。
執筆者:


ホプキンズ
Frederick Gowland Hopkins
生没年:1861-1947

イギリスの生化学者。イーストボーンの生れ。正規の科学教育は受けず,ガイ病院の検査部門(1888)で生体物質の分析や検出反応を研究。ケンブリッジ大学に招かれ(1898),微量栄養素(ビタミン,1906),筋肉収縮の生化学(1907),グルタチオンの発見(1927)などの業績をあげた。同大学に新設された生化学講座の教授となったのは1910年。29年,ビタミンの発見でC.エイクマンとともにノーベル医学・生理学賞を受賞した。ホピーの名で親しまれ,門下からはJ.ニーダム,E.ボールドウィン,H.A.クレブスなどが輩出した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホプキンズ」の意味・わかりやすい解説

ホプキンズ
Hopkins, Sir Anthony

[生]1937.12.31. ポートトールボット
イギリス,ウェールズ出身の舞台・映画俳優。フルネーム Philip Anthony Hopkins。強烈な個性で知られ,特に狂気を帯びた人物の演技は圧巻。子供の頃はピアニストに憧れていたが,18歳のとき YMCAの演劇クラブに参加して芝居を始めた。奨学金を得てカーディフの演劇学校に入学し,卒業後はアーツ・カウンシルの舞台監督および俳優として巡業に参加した。王立砲兵隊で 2年間兵役についたのち,俳優業に復帰し,1960年にはプロデビューを果たした。翌 1961年,演技を磨くためロイヤル演劇アカデミーに入学し,2年後に次席で卒業。リンゼー・アンダーソン演出の舞台『ジュリアス・シーザー』Julius Caesar(1964)でロンドンでのデビューを果たす。1965年ナショナル・シアターに入団し,ローレンス・オリビエの代役に抜擢。映画版『冬のライオン』The Lion in Winter(1968)でリチャード王子という大役を射止めた。その後も多くの歴史上の人物に命を吹き込む名演を披露し,惜しみない賛辞が贈られた。しかし最も有名な役は,映画『羊たちの沈黙』The Silence of the Lambs(1991)で演じたハンニバル・レクターだろう。この頭脳明晰な恐ろしい連続殺人鬼の役により,アカデミー賞主演男優賞を受賞した。1993年ナイトの称号を授与された。

ホプキンズ
Hopkins, Sir Frederick Gowland

[生]1861.6.20. イーストボーン
[没]1947.5.16. ケンブリッジ
イギリスの生化学者。ビタミンの発見で知られる。病院勤務ののち,1898年よりケンブリッジ大学で研究を行い,同大学教授 (1914~43) 。 1901年にアミノ酸の一種トリプトファンを発見。ある種の動物はトリプトファンなど数種のアミノ酸を体内で合成することができず,食餌を通じて体外より摂取しなければならないことを明らかにした。それらは今日必須アミノ酸として知られている。 06~07年にかけて,ハツカネズミ飼育の際,蛋白質や脂質などより成る人工飼料以外に少量の牛乳が必要なことを発見。動物の生存や成長にとって不可欠であり,しかも微量で効果を現す物質が牛乳に含まれていると考えた。のちにこの物質はビタミンと命名される。このほか,07年 W.フレッチャーとの共同研究で,筋肉が収縮するときに乳酸が生成することを突止め,筋収縮の生化学的研究に基礎をおいた。また,22年にはグルタチオンを発見し,それが酵素の働きに必要な物質であることも解明した。 25年ナイトの称号を贈られ,29年 C.アイクマンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

ホプキンズ
Hopkins, Gerard Manley

[生]1844.7.28. エセックス,ストラトフォード
[没]1889.6.8. ダブリン
イギリスの詩人。オックスフォード大学卒業。 1866年カトリックに改宗,77年司祭に叙任。ダブリンのユニバーシティ・カレッジ古典語教授。幼少から繊細な美意識と敬虔な宗教心とをもち,オックスフォードにおける J.H.ニューマン,アーノルド,ペーターらの影響や,修道士としての修練などが相まって,特異な聖職者詩人となった。神の愛の逆説を説く『ドイッチュラント号の難破』 The Wreck of the Deutschlandは,独特の語法と彼のいわゆるスプラング・リズムを駆使した代表作。その詩は生前には発表されず,1918年に友人ブリッジズの編集した『詩集』が出て,現代詩に大きな影響を与えた。

ホプキンズ
Hopkins, Mark

[生]1802.2.4. マサチューセッツ,ストックブリッジ
[没]1887.6.17. ウィリアムズタウン
アメリカの教育家,道徳哲学者。 1830~87年ウィリアムズ・カレッジで教鞭をとり,その間 36~72年学長。彼の哲学観は 18世紀のピューリタニズムと 19世紀の進歩主義の融合したもので,ローエル技術学院で「富の福音」について説教し,利得の重要性を説くとともに,キリスト教的立場に立って用いていかねばならないことを強調した。アメリカ教育史上の地位は,その弟子であった第 20代大統領 J.ガーフィールドの言とされる「理想の大学とは丸太の片方の端にホプキンズが,他方の端に学生が立つもの」という警句が示している。この警句は自己教育,教授と学生との親密な関係,道徳教育と知的訓練を重視するアメリカのリベラル・アーツ・カレッジの理想像を暗示するものである。

ホプキンズ
Hopkins, Stephen

[生]1707.3.7. ロードアイランド,プロビデンス
[没]1785.7.13. ロードアイランド,プロビデンス
アメリカ独立革命期の政治家。独立宣言署名者の一人。ロードアイランド植民地議会議員,民事訴訟裁判所判事を経て同植民地総督 (1755~56,58~61,63~67) 。大陸会議代表 (74~76) で,連合規約起草委員。新聞『プロビデンス・ガゼット』 Providence Gazette,パンフレット『植民地の諸権利の検討』 The Rights of the Colonies Examined (65) などを発行し,植民地人の権利のために戦った。

ホプキンズ
Hopkins, Harry Lloyd

[生]1890.8.17. アイオワ,スーシティ
[没]1946.1.29. ニューヨーク
アメリカの政治家。 1912年グリネル大学卒業後,ニューヨークで社会事業に従事。 31年恐慌が深刻化するなかでニューヨーク州臨時緊急救済局局長として活躍。 33年には新設の連邦緊急救済局長官となり,失業対策に尽力するなど F.ルーズベルトのニューディール政策に協力。 38~40年商務長官,のち大統領補佐官となり,ルーズベルトの特使として I.スターリン,W.チャーチルら連合国首脳との重要交渉にあたった。ルーズベルトの死後も,45年のポツダム会議の準備にあたった。

ホプキンズ
Hopkins, Esek

[生]1718.4.26. ロードアイランド,シチュエート
[没]1802.2.26. ロードアイランド,プロビデンス
アメリカの軍人。アメリカ独立戦争のとき,ロードアイランド民兵軍の准将となり,1775年大陸会議の命令で独立軍海軍最高司令官となったが,チェサピークのイギリス艦隊を攻撃せよという大陸会議の命令に違反して,バハマで作戦を展開したため解任され (1777) ,翌年海軍からも免職された。その後ロードアイランドの政界に重要な地位を占めた。

ホプキンズ
Hopkins, Samuel

[生]1721.9.17. ウォーターベリ
[没]1803.12.20. ニューポート
アメリカの会衆派の神学者,牧師,奴隷解放論者。エール大学に学び,グレートバリングトン (1743~69) ,ニューポート (70~1803) で会衆派牧師をつとめる。カルバン主義の立場に立ち,J.エドワーズの影響を受けてホプキンズ説と呼ばれる神学思想を主張した。主著"The System of Doctrines Contained in Divine Revelation" (1793) 。

ホプキンズ
Hopkins, Johns

[生]1795.5.19. メリーランド,アンアランデル
[没]1873.12.24. メリーランド,ボルティモア
アメリカ,ボルティモアの実業家。ジョンズ・ホプキンズ大学とジョンズ・ホプキンズ病院の創立者。問屋,手形ブローカー,倉庫業者として富を築き,ボルティモア・オハイオ鉄道の最大の株主,ボルティモア商人銀行の頭取などをつとめた。遺言により 700万ドルに上る財産を2分し大学と病院の設立基金として寄付した。

ホプキンズ
Hopkins, Charles

[生]1664頃
[没]1700頃
イギリスの劇作家,詩人。ケンブリッジ大学卒業。ドライデン,コングリーブらに目をかけられた。彼らを模倣した流暢な筆致の悲劇3編と書簡体の詩,オウィディウスの翻訳などがある。

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百科事典マイペディア 「ホプキンズ」の意味・わかりやすい解説

ホプキンズ

英国の生化学者。ケンブリッジ大学生化学教室初代教授。尿酸の定量法を創始し,トリプトファン,グルタチオンなどのアミノ酸の分離に成功。またマウスの食餌の研究で四大栄養素だけでは正常に発育できないことを確かめ,今日のビタミン研究の基礎をつくった。1929年ノーベル生理医学賞。セント・ジェルジクレブスなど多くのすぐれた弟子を育てたことでも有名。

ホプキンズ

英国の詩人。イエズス会士として敬虔(けいけん)な信仰と激しい感受性にみちた宗教詩を書いた。作品は死後1918年出版され,古英語の韻律に学んだ独特な韻律(スプラング・リズムsprung rhythm)と造語法は現代詩に大きな影響を与えた。《ドイッチュラント号の難破》(1876年)《神の荘厳》(1877年)《鷹》(1877年)など。
→関連項目ブリッジズ

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世界大百科事典(旧版)内のホプキンズの言及

【ビタミン】より

…このような現象は他の鳥類にもみられるところから〈鳥類白米病〉と呼ばれたが,彼は原因は白米中の毒素によるものと考えたが,弟子のグリーンスG.Grijnsは,米ぬかに未知の必須栄養素を含んでいるためと主張,1906年にエイクマンはこれを認め,白米がこの必須栄養素を欠くためだと推定した。 同じころ,イギリスのF.G.ホプキンズもラットの飼育実験で,純粋な糖質,脂肪,タンパク質および塩類からなる飼料だけではその成長に不十分であり,全乳を添加すると完全になることを見いだし,全乳中に微量の〈副栄養素〉が含まれると発表した(1906)。 こうしたなかで,はじめて詳しい化学実験をしたのは鈴木梅太郎であった。…

【ブリッジズ】より

…初期の詩《愛の成長》(1876),《エロスとプシュケー》(1885)のほか,《短詩集》(1890)もある。《ミルトンの韻律》(1893)や《キーツ論》(1895)などの評論は韻律的技法への高度の関心の産物であるが,彼の最大の業績はまったく無名であった友人G.M.ホプキンズの詩集を編集刊行(1918)したことであろう。これによってホプキンズは現代詩に大きな影響を与えることになったが,皮肉にもブリッジズ自身は友人の革新性を十分に理解していなかったと思われる。…

※「ホプキンズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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