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ホーエンシュタウフェン朝 ホーエンシュタウフェンちょうHohenstaufen; Hohenstaufen Dynasty

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ホーエンシュタウフェン朝
ホーエンシュタウフェンちょう
Hohenstaufen; Hohenstaufen Dynasty

シュタウフェン朝とも呼ばれる。 1138~1208,15~54年ドイツ国王 (皇帝) の位を占めた中世ドイツの王朝。その始祖はフリードリヒ・フォン・ビューレン (?~1014) で,その子フリードリヒ1世 (50頃~1105) がシュワーベンのホーエンシュタウフェンを本城として以来家名をホーエンシュタウフェンと称した。フリードリヒは皇帝ハインリヒ4世を援助して女婿となり,1096年シュワーベン公に任じられ,その長男フリードリヒ2世 (独眼公) がシュワーベン公を継ぎ,次男コンラートが叔父のハインリヒ5世によって東フランケン公に任じられ,兄弟協力して皇帝のために南西ドイツを固めた。ハインリヒ5世は嫡子がなく,前記独眼公を血統権によって王位継承者に指名したが,1125年マインツ大司教の反撃を受け,ザクセン大公ロタールが国王に選挙された。国王ロタール2世 (3世) ウェルフェン家のバイエルン大公ハインリヒ傲慢公を女婿としたが,ハインリヒはザクセン大公にも封じられて,ここにウェルフェン家は帝国最強の貴族となった。ウェルフェン家の強大化を恐れた教会は,ロタール死後のハインリヒによる血統権発動を退け,38年前記東フランケン公コンラートを国王に選出してコンラート3世と称し,ホーエンシュタウフェン家は初めて王位を占めた。しかしウェルフェン家との宿命的な闘争は続き,次王フリードリヒ1世 (赤髯王) はウェルフェン家のハインリヒ獅子公を倒し,続くハインリヒ6世もシチリア王位を得てイタリア経営に着手したが夭折し,彼の末弟フィリップ・フォン・シュワーベンが国王となったが,対立国王のオットー・フォン・ブラウンシュワイクに敗れて,ここにホーエンシュタウフェン家の王位は中断した。 1212年教皇の援護のもとにハインリヒ6世の子フリードリヒ2世が即位し,同王統を復活しえたが,教皇権との対立が激化し,45年には教皇インノケンチウス4世がその廃位を宣言。次王コンラート4世も対立国王ハインリヒ・ラスペやウィルヘルム・フォン・ホラントに脅かされ,その子コンラディンもイタリア遠征で 68年敗死し男系が絶えたのでホーエンシュタウフェン家は消滅した。

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百科事典マイペディアの解説

ホーエンシュタウフェン朝【ホーエンシュタウフェンちょう】

シュタウフェン朝

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ホーエンシュタウフェン朝
ほーえんしゅたうふぇんちょう
Hohenstaufenドイツ語

ドイツのシュワーベンの豪族ホーエンシュタウフェン家の興した王朝で、単にシュタウフェン朝ともいう。神聖ローマ帝国第3代目の王朝。
 ホーエンシュタウフェン家の家門は、ビュレン伯フリードリヒに始まる。その子フリードリヒ1世は聖職叙任権闘争に際し、終始皇帝ハインリヒ4世を支持、1079年シュワーベン公に任ぜられ、皇女アグネスと結婚した。子供のフリードリヒ2世、コンラートの兄弟もまた皇帝ハインリヒ5世を助け、ザリエル王朝断絶後は、その遺領とドイツ王位継承権を相続した。1125年の国王選挙では、フリードリヒ2世はロタール3世に敗れたが、その後、フリードリヒの弟コンラート(3世)は、逆にロタールの後継者ウェルフ家のハインリヒ(傲慢(ごうまん)公)を退けてドイツ国王に選ばれ、ホーエンシュタウフェン王朝を開いた(1138)。
 コンラートの死後、フリードリヒ2世の子フリードリヒ1世(バルバロッサ)が王位を継いで(1152)、皇帝戴冠(たいかん)(1155)後、聖職叙任権闘争中崩壊に瀕(ひん)した皇帝のイタリア支配を回復すべく、精力的にイタリア政策を展開すると同時に、ドイツ国内では、諸侯に対抗するため帝国直轄領の拡大に努めた。そして、最大の対抗者ウェルフ家のハインリヒ(獅子(しし)公)を失脚させるのに成功、王朝の基礎を確立した。その子ハインリヒ6世は、シチリアの王女コンスタンツェと結婚し、シチリア国王の死後、同王国をも相続(1194)、最大の版図をつくりあげた。だが、夭折(ようせつ)したため、彼の意図した神聖ローマ帝国とシチリア王国とを合体させた世襲帝国建設の夢は挫折(ざせつ)した。遺児フリードリヒ(2世)が幼かったので、ウェルフ家のオットー4世がドイツ国王に選ばれ、ホーエンシュタウフェン派はシュワーべン公フィリップを対立国王にたてて争ったが、フィリップは暗殺の非運にみまわれた。
 1212年、フリードリヒ2世は、教皇とホーエンシュタウフェン派に推されてドイツ国王に即位。フランスと結んでオットー4世を破り、王朝を再興したが、ドイツの統治を息子たちに任せ、シチリア王国を中心とするイタリア経営に没頭したため、ドイツ諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされた。イタリアにおいても、教皇とロンバルディア諸都市の反抗に悩まされ続け、治世末期には、ハインリヒ・ラスペ、ついでウィルヘルム・フォン・ホーランドが対立ドイツ国王にたてられるありさまとなった。フリードリヒ2世の死後、コンラート4世がドイツの王位を継いだ(1250)が、彼がイタリア遠征中死亡するに及んで、ドイツは大空位時代に突入し、その子コンラディンがシチリアの遺領の回復を試み、捕らえられて処刑された結果、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。[平城照介]

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世界大百科事典内のホーエンシュタウフェン朝の言及

【シュタウフェン朝】より

…中世中期ドイツの貴族家門。ホーエンシュタウフェン朝Hohenstaufenとも呼ばれる。11世紀末いらい13世紀中葉の一門断絶にいたるまでシェワーベン大公。…

※「ホーエンシュタウフェン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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