ボリショイ・バレエ団(読み)ぼりしょいばれえだん(その他表記)Балетная Труппа Большого Театра/Baletnaya Truppa Bol'shogo Teatra

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボリショイ・バレエ団」の意味・わかりやすい解説

ボリショイ・バレエ団
ぼりしょいばれえだん
Балетная Труппа Большого Театра/Baletnaya Truppa Bol'shogo Teatra

モスクワボリショイ劇場本拠を置くロシアバレエ団。正式名称ロシア国立ボリショイ劇場バレエ団。1773年にモスクワの孤児院の児童のためにバレエの教習が始められ、そのクラスを母体にした一座1776年設立されたことに始まる。これが1780年にペトロフスキー劇場付属のバレエ団となり、1825年同劇場を改築したボリショイ劇場の開場とともにその付属のバレエ団となった。19世紀初頭からディドロCharles-Louis Didelot(1767―1837)、C・ブラシス、M・プチパらの外国人教師を招くとともに、振付けを依頼し、19世紀末には西欧以上の発展を遂げることになった。プチパは『ジゼル』などのフランスのバレエをロシアに持ち込むとともに、『ドン・キホーテ』『白鳥の湖』などを振り付けた。振付師ゴルスキーAleksandr Alexeyavich Gorsky(1871―1924)、ゲリツェルE・V・Geltzer(1876―1962)、モルドキンMikhail Mordkin(1880―1944)、チホミーロフVasily Dmitrievich Tikhomirov(1876―1956)らのダンサーが活躍した。ロシア革命(1917)以前はペテルブルグの帝室マリンスキー劇場に一歩後れをとっていたが、革命でモスクワに首都が移って以降、旧ソ連バレエ界の二大潮流となった。革命後は、メッセレルAsaf Messerer(1903―1992)、モイセーエフ、セミョーノワMarina Semyonova(1908―2010)、ゲルトElizaveta Gerdt(1891―1975)、レペシンスカヤウラーノワプリセツカヤらのダンサー、ワイノーネンVasili Vainonen(1901―1964)、ザハロフRostislav Zakharov(1907―1984)、ラブロフスキーLeonid Lavrovsky(1905―1967)らの振付師が活躍。『赤いけし』『シンデレラ』『スパルタクス』など、社会主義リアリズムに沿った作品も多い。ソ連崩壊後も活動は変わらず、ダンサーではウラジーミロフYuri Vladimirov(1942― )、ベスメルトノワNatalia Bessmertnova(1941―2008)、マクシモワEkaterina Maximova(1939―2009)、アナニアシビリNina Ananiashvili(1963― )、ファジェーチェフNikolai Fadeychev(1933―2020)らが活躍。芸術監督グリゴロービチ、ワシリエフVladimir Vasiliev(1940― )、ロジェストベンスキーらが務める。

[市川 雅・國吉和子]


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改訂新版 世界大百科事典 「ボリショイ・バレエ団」の意味・わかりやすい解説

ボリショイ・バレエ団 (ボリショイバレエだん)
Bol'shoi Ballet

ロシアのバレエ団。モスクワのボリショイ劇場所属。1776年につくられたオペラ,バレエ,ドラマを演ずる小さな一座を起源とするが,当初は専属の劇場をもっていたわけではない。やがて帝室劇場の管轄に入り,1825年にボリショイ劇場が開設されることによって急速な発展をとげた。19世紀初頭にはロシア人による民族舞踊をとりいれたバレエが上演されるようになり,また,パリの初演からわずか2年後の43年に《ジゼル》が上演され,西欧の高名な踊り手が来演するなど,ボリショイ・バレエ団は諸外国のそれに遜色のないものとなった。劇場はペテルブルグ(現,サンクト・ペテルブルグ)のマリインスキー劇場と並んでロシア音楽文化発展の推進力となったが,ことバレエに関しては,宮廷と貴族の厚い庇護下にあったペテルブルグに数歩を譲らねばならなかった。ボリショイ・バレエ団がゴルスキーAleksandr Alekseevich Gorskii(1871-1924)を指導者に迎え改革に踏みだしたのは1902年で,彼はペチパのもとで学んだ経験を生かしてモスクワの演目を豊かにし,また芸術座の演劇改革の理念に呼応してバレエにおける因習打破と革新の担い手となり,ゲリツェルEkaterina Vasil'evna Gel'tser(1876-1962),チホミーロフVasilii Dmitrievich Tikhomirov(1876-1956)以下多くの新人を育てあげ,17年の革命前後の困難な時代に偉大な功績を残した。ボリショイが革命的主題をもつ新作の上演に成功したのは27年,R.M.グリエール作曲の《赤いけし》であった。このころから首都の移転にともなう学術文化機関のモスクワ集中が開始され,バレエでは,30年にレニングラードから舞踊学校の教師陣,第一線の踊り手らのモスクワ転出がはじまり,彼らの振付作品が脚光を浴びるにいたった。30年代の半ばから独ソ戦時代にかけてレペシンスカヤOl'ga Vasil'evna Lepeshinskaya(1916- )をはじめ多くの人材が成長し,上演目録も多彩なものとなり,戦後はウラノワの移籍,50年代後半からは国外公演によってその声価はさらに高まった。64年にはYu.N.グリゴロービチを芸術監督に迎え,チャイコフスキーの三大バレエをはじめ古典の改訂,《スパルタクス》その他の新作によって現代人の共感を得た。一方,プリセツカヤは自作自演の《カルメン》《アンナ・カレーニナ》によって新境地をひらくなど,同バレエ団は世界最高を誇る250名の踊り手,多彩な演目と豪華絢爛たる演出によって世界を魅了した。57年以来たびたび来日している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボリショイ・バレエ団」の意味・わかりやすい解説

ボリショイ・バレエ団
ボリショイ・バレエだん
Bolshoi Theatre Ballet

ロシアのバレエ団。モスクワのボリショイ劇場に所属する。1776年創立され,のちに帝室の管理下に置かれて,1780年ペトロフスキー劇場を本拠とした。1825年同劇場にボリショイの名が冠せられたのに伴い,ボリショイ・バレエ団として付属のバレエ学校とともに世界に名を知られるようになった。サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場バレエ団が宮廷文化を背景に伝統を重んじるのに対し,ボリショイ・バレエ団はその初期に農民出身者が多く,大衆的な傾向が強かった。1877年『白鳥の湖』が初演された頃は,シャルル=ルイ・ディドロ,エカテリーナ・V.ゲルツァー,カルロ・ブラシスらが活躍。20世紀に入って,ロシア革命後首都がモスクワに移るとともに国家の保護を受け,アレクサンドル・ゴルスキー,アサフ・M.メッセレルらの指導のもとに発展。オルガ・V.レペシンスカヤ,ガリーナ・S.ウラノワ,マヤ・M.プリセツカヤ,レオニード・M.ラブロフスキーら時代を担うスター・ダンサーが輩出し,総勢約 240人を数える大バレエ団として,多彩な演目をもち世界各地で公演を行なっている。

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デジタル大辞泉プラス 「ボリショイ・バレエ団」の解説

ボリショイ・バレエ団

ロシアのモスクワを拠点とするバレエ団。1776年にボリショイ劇場のバレエ団として設立。旧ソ連時代はボリショイ劇場が同国の中心的な劇場として位置づけられ、1920年代以降、マリインスキー劇場から多くの人材が移籍した。

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