改訂新版 世界大百科事典 「ボロミーニ」の意味・わかりやすい解説
ボロミーニ
Francesco Borromini
生没年:1599-1667
ベルニーニと並んでイタリア・バロック盛期を代表する大建築家。ベルニーニと彼は,その生涯,気質から作品の傾向にいたるまでまったく対照的であり,互いに相手を快く思わない同世代のライバルであった。彫刻家でもあるベルニーニはたくみに光をあやつり,その豪奢(ごうしや)な空間に建築,絵画,彫刻を統合したが,ボロミーニは純粋な空間の形態そのものの追求へと向かい,のちにアルプス北方の諸国に大きな影響を与えることになるバロックの新しい形態言語を生み出した。
彼はルガノ湖畔のビッソーネBissoneの石工の家に生まれた。ミラノで修業したあと,おそらく22歳のときにローマに行き,当時ローマのトップ・アーキテクトであった遠縁のマデルノの助手としてサン・ピエトロ大聖堂の作業場で働く。伝記作者の伝えるところによれば彼はきわめて真摯(しんし)で,とくにミケランジェロの作品に傾倒していたという。この関心は終生変わらず,彼はそこから異なる尺度やモティーフが輻輳(ふくそう)してかたちづくる強い凹凸をもった韻律,内側からえぐり出したような彫塑的な空間の生成法を学んだ。
1629年,マデルノの死に伴いベルニーニがサン・ピエトロ大聖堂の工事の主任となり,ボロミーニはその下で働く。二人の確執はこれ以来だが,ボロミーニはスペイン系の修道会の仕事を得て独立し,1634年からサン・カルロ・アレ・クアトロ・フォンターネSan Carlo alle Quattro Fontane聖堂の工事にとりかかる。このうねるような壁面に楕円形のドームのかかった小さな聖堂の内部空間の完成度は,彼がその建築家としての出発からすでに完璧に自己の体系を確立していたことを物語っている。同じく凹凸の強い動きを見せるファサードはよく知られているが,しかしこれは彼の最晩年の工事で,没後完成したものである。ついで手がけた当時のローマ大学の付属礼拝堂,サンティーボ・アラ・サピエンツァSant'Ivo alla Sapienzaは同様な方法の発展であり,その幻想的な空間は彼の達した最高の境地を物語るものであるが,同時に,ドーム頂上の〈知恵〉を象徴する螺旋状の小塔にも示されるように,建物のあらゆる部分が寓意に満たされていることも見のがせない。彼は熱烈な支持者に支えられて財政的に豊かでない修道会の仕事を多く引き受けたが,教皇インノケンティウス10世在位のあいだは,その引立てでサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の改修(1646-50)のような工事を引き受けている。これは軀体部分のみで終わったが,彼の方法のゴシックへの接近を示すリブ入りのボールト天井が実現しなかったのは惜しまれる。おもな作品には,ほかにイタリア・オラトリオ会の本部サン・フィリッポ・ネーリ,プロパガンダ・フィーデ神学院,サンタニェーゼ聖堂などがある。
終生独身で質素に暮らしたが,気性激しく,躁うつの持病が齢とともにひどくなり,68歳の夏,剣をわが身に突き刺して自殺した。サン・フィリッポ・ネーリ設計の経過を記録した著書《オプス・アルキテクトニクム》(1725,死後刊行)がある。
執筆者:横山 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報