ポリュビオス
Polybios
生没年:前200ころ-前118ころ
ローマの興隆期を記述したギリシアの歴史家。ペロポネソス半島中部アカイアの都市メガロポリスに政治家リュコルタスLykortasの子として生まれた。前167年から前150年にかけてアカイア人1000名がイタリアに抑留されたとき,ポリュビオスもこの中に含まれており,ローマに留まった彼はスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と親交を結ぶ。以後彼は,スキピオに従って地中海各地を訪れ,前146年にアカイアに戻ると,《歴史》の執筆に取りかかったと思われる。その死は,一説では落馬によるものとされている。
ポリュビオスは《歴史》以外にも幾つかの散文を記しているが,現存するのは40巻の《歴史》のうち1~5巻と,いわゆる政体循環論を提起した6巻以降の抜粋のみである。彼が《歴史》で記述しようとしたのは,第2次ポエニ戦争(前218-前201)の直前の前220年から前146年に至る歴史,つまりローマが地中海世界の覇者となっていく過程であった。彼はその過程を記述分析することによって,社会の指導者を養成し危機的状況に立ち向かう術を教えようとした。この目的のために彼は,第2次ポエニ戦争でカルタゴ軍を率いたハンニバルの足跡をたどり,第3次ポエニ戦争(前149-前146)後の破壊されたカルタゴを訪れる一方,当時の生き証人たちから情報を収集した。愛国心に基づくアイトリア,ボイオティアに対する偏見,スキピオに対する好意的な見方など多少の偏向は認められるものの,ポリュビオスの記述は公平かつ誠実である。しかしながら彼の文体は洗練されておらず,次世代の散文作家たちに受け継がれることはなかった。ディオニュシオス・ハリカルナッセウスは,彼の《歴史》を最後まで読み通せる者はいないと言っている。ディオニュシオスの言葉は,前2世紀後半の地中海世界の重要な史料である本書の多くの部分が散逸してしまった原因を語っているのかもしれない。
執筆者:平田 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ポリュビオス
Polybios
[生]前200頃.アルカディア,メガロポリス
[没]前118以後
古代ギリシアの歴史家。若くして政治家を志し,アカイア同盟の将軍を務め,ローマとマケドニアの戦争にあたってアカイア同盟の中立を保証するための 1000人の人質の一人としてローマへ行き,小スキピオの家庭教師に選ばれ,終生の友情を結んだ。スキピオに同行してポエニ戦争に従軍,ローマ帝国の偉大な力をまのあたりにした。その著『歴史』 Historiae (40巻) は,ローマの地中海世界制覇の歴史 (前 264~144) で,特にその中心は第2次ポエニ戦争の開始から第3次マケドニア戦争の終結まで。その冷静な記述と透徹した歴史観は古代歴史家のなかの最も優れたものに位する。最初の5巻と,残りの巻の抜粋が現存。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア
「ポリュビオス」の意味・わかりやすい解説
ポリュビオス
ローマ共和政期の歴史家。ギリシア人。第3次マケドニア戦争の前168年ピュドナの戦の後,人質としてローマに送られ,スキピオ(小)の保護を受けた。ギリシア語で書いた主著《歴史》はローマの世界統一の経緯を記したもので,その中で政体循環論を展開。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ポリュビオス
Polybios
前200頃~前118頃
古代ローマ共和政期の歴史家。ギリシア人。前168年のピュドナの戦い後ローマに人質として送られ,スキピオ(小)を教育した。ギリシア語でローマの世界統一の由来を全40巻の『歴史』に記した。政体循環史観,混合政体論がその特色をなす。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内のポリュビオスの言及
【ギリシア文学】より
…ここにまたギリシアの文筆家や哲学者たちが,ローマ人の被護者のもとにギリシア語で執筆活動を行う素地が培われた。スキピオ一族の被護下に前2世紀早くも《ローマ興隆史》を著したギリシア人歴史家ポリュビオスの足跡は,いみじくも,ローマの覇権下に生きることとなったギリシア人らの文芸活動を先触れするものといえよう。共和政ローマの政治家・知識人にとってアテナイ留学は必修課程であり,またロドス島のストア派の大学者パナイティオスやその弟子ポセイドニオスの教えを請うた者たちも数多い。…
【政体】より
…アリストテレスの政体論はこれ以後の政体論の範型をなすことになる。 紀元前2世紀のポリュビオスは,君主制が僭主制,貴族制,寡頭制,民主制,衆愚制を経て,再び君主制に戻るという[政体循環論]によってギリシアの歴史を描き,共和政ローマの安定と発展を,混合政体論によって説明した。伝統的政体論は,これ以後も,政治体制の批判または弁証の枠組みとして生きつづけるが,ローマの帝政化,キリスト教の成立,さらにゲルマン中世の発展と安定の過程で,体制構想と結びついたダイナミズムは失われていった。…
【政体循環論】より
…国家の政体は歴史的に循環するという理論。ギリシアの歴史家[ポリュビオス]が彼の著書《歴史》第6巻でローマの政体を論じたときに提起した説。すなわち一員政(君主政)の政体はやがて悪化して暴君政となり,これを是正するために貴族政が成立するが,それも少数者が権力を濫用する寡頭政に陥る。…
【世界史】より
… ヨーロッパにおいても事情は同じである。世界史ということばをはじめて使用したのはローマ時代のギリシア人[ポリュビオス]であるが,世界といってもローマが征服したか交渉のある地域である。ローマの征服についでキリスト教は人類の統一性,その究極目的を設定し,〈カトリック〉ということばが〈普遍的〉を意味するように,歴史は神の国と地上の国の対立であるという神学的二元論が世界史の構想をつくりあげ,この歴史観は中世社会を支配した。…
【歴史】より
…トゥキュディデスは,ペロポネソス戦争を描いたが,歴史を動かす人間の資質に関心を寄せ,また歴史への探究によって,未来の行動への準則が学び取られると考えた。このような傾向は,ローマの発展を描いたギリシア人歴史家ポリュビオスではより顕著であり,歴史叙述の実用性・教訓性が強調されている。しかし,ギリシア人は,一般的には人間世界に生起する事件には,形式的な循環性があるとし,サイクルの継起によって説明しようとする志向が強かった。…
【ローマ没落史観】より
…
[古代]
ローマ没落観は,すでにローマ興隆期から存在した。ポリュビオスやアッピアノスは,前146年炎上するカルタゴを前にして,将軍小スキピオが〈ローマもいつの日か同じ運命に遭わん〉と心中憂えたことを伝えているが,これは外敵の制圧は内での退廃を招くという当時ローマ人が抱いていた危惧を反映しており,このような没落の観念はポリュビオスの[政体循環論]に影響を与えた。共和政末期の混乱は未来に対する悲観論に拍車をかけ,サルスティウスは〈すべて生まれしものは死す。…
※「ポリュビオス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」