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マクリージー al-Maqrīzī, Abū al-`Abbās Aḥmad ibn `Alī Taqī al-Dīn

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マクリージー
al-Maqrīzī, Abū al-`Abbās Aḥmad ibn `Alī Taqī al-Dīn

[生]1364. カイロ
[没]1442.2.9. カイロ
マムルーク朝時代のアラブの歴史家。カイロとダマスカスで,裁判官,ハーキム・モスクの長,アシュラフィーヤ学院,イクバーリーヤ学院の教師をつとめたのち,著作生活に入った。主要著書にエジプトの地誌の伝統を確立した『新領土と遺跡との物語によって説いた教訓と経験』 al-Mawā`iẓ wa al-I`tibār fī Dhikr al-Khiṭaṭ wa al-Āthār,アイユーブ朝とマムルーク朝の年代記である『諸王朝の知識の旅』 Kitāb al-Sulūk li-Ma`rifa Duwal al-Mulūk,『社会の救済』 Ighātha al-Ummaがある。

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世界大百科事典 第2版の解説

マクリージー【al‐Maqrīzī】

1364ころ‐1442
マムルーク朝時代のアラブの歴史家。カイロに生まれ,ハナフィー派やシャーフィイー派のシャイフに師事して法学やハディース学を学んだ後,メッカに遊学,1382年にはエジプトに来住したイブン・ハルドゥーンの講義に列席して大きな影響を受けた。カイロで市場監督官(ムフタシブ)やモスクの説教師,あるいはマドラサ(学院)の教師を務めた後,1407∥08年から10年間ダマスクスの病院の管理やマドラサでの教師生活を送った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マクリージー
まくりーじー
al-Maqrz Taq ad-Dn
(1364ころ―1442)

エジプトを中心としたマムルーク朝時代の歴史家。カイロに生まれ、裁判官、市場監督官、教師となり、のちにダマスカスに移り、病院の管理や教師に任ぜられた。カイロに戻ってからは著述に専念した。彼の著作は多岐にわたっていると同時に、師イブン・ハルドゥーンの影響を受けた透徹した歴史観があることに価値がある。代表作には、14~15世紀、黒死病(ペスト)や飢饉(ききん)によりエジプトが荒廃したことを嘆き、エジプトの歴史や地誌に関する研究の集大成を目ざした『地誌と遺跡の叙述による警告と省察の書』があり、そのほかアイユーブ朝とマムルーク朝の年代記『諸王朝の知識の旅』などがある。[菊池忠純]

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世界大百科事典内のマクリージーの言及

【地誌】より

…続いてイブン・ズーラークIbn Zūlāq(919‐997)が《エジプト誌》を書き,ナハウィーNaḥawī(?‐1126)も新都カイロを中心にエジプトの地誌を著したが,これらは現在いずれも散逸して伝わらない。マクリージー(1364ころ‐1442)は《地誌》と題する大著によってエジプトに伝わるヒタトの伝統を集大成し,地誌と歴史と伝記を総合する記述様式を確立した。この点で,道程記を中心に町や村の地理的環境や特産物などを記す旧来の地理書とはその性格を異にしている。…

【百科事典】より

…そのため,14世紀以後のウラマーは,同時代の知見を加えてこれらの学問を総合することに努力を傾注したのである。 マクリージーはエジプトに伝わる地誌学(ヒタト)を集成して大部な《エジプト誌》を著し,スユーティーも地誌と歴史を総合した《講義の美徳》や15世紀末に至るまでの《カリフ史》をそれぞれ一書にまとめた。また,マムルーク朝の文書行政にたずさわる書記(カーティブ)のなかから,さらに体系的な形で〈知の総合〉を行う者が現れた。…

※「マクリージー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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