イギリスの詩人、思想家。シェークスピアとともにイギリス文学を代表する二大詩人の一人であるのみならず、清教徒(ピューリタン)革命の渦中に巻き込まれ、革命を支持し、多くの評論を書いた。12月9日、ロンドンの富裕な清教徒的色彩の強い家庭に生まれ、将来聖職者になる意志をもち、猛烈に勉強した。しかし、聖職者になることがイギリス国教会の牧師になることを意味するとすれば、当時の国王チャールズ1世の宗教政策に反感をもつ彼としては、その意志を当然捨てなければならなかった。彼は、宗教詩人になる意志を固め、ケンブリッジ大学を出てから、神学とともに古典文学の研究に没頭した。在学中および卒業後に、『快活な人』L'Allegro、『沈思の人』Il Penserose(ともに1631年?)、『コーマス』Comus(1634年上演)、『リシダス』Lycidas(1637)などの作品を書いている。このうち『コーマス』だけは仮面劇であるが、ここには明瞭(めいりょう)に彼の清教徒的精神が現れている。
[平井正穂 2015年7月21日]
1638年、大陸旅行に出発。この旅行中、彼はグロティウスやガリレイに会っている。しかし、祖国における社会不安の報に接し、翌1639年には帰国した。以来、約20年間、彼の執筆活動は主として評論に向けられた。これらの著作は、公私の両面にわたるさまざまな事件を契機として執筆されたが、基本的な課題は、一貫してプロテスタント的信仰を基盤にした内なる自由の理念の追求であった。イギリス国教会が真実な内的な自由を保っていないことを『イギリスにおける教会規律の改革について』Of Reformation Touching Church-Discipline in England(1641)などにおいて論じ、自分の結婚問題を契機に、『離婚の教理と規律』Doctrine and Discipline of Divorce(1643)などにおいて離婚論を主張し、また『アレオパジティカ』Areopagitica(1644)などにおいて言論の自由を説いた。他方、1642年以来、革命は戦乱の激しい様相を示し始め、1649年、チャールズ1世は死刑に処せられ、イギリスは共和制となった。ミルトンは護民官クロムウェルのラテン語秘書となり、国王死刑に対するヨーロッパ各国の非難に対し、『英国民のために弁ずるの書』(1651)、『ふたたび英国民のために弁ずるの書』(1654)などをラテン語で書いて、国王死刑の正当性を主張した。1652年には過労のため失明するに至った。
彼は、清教徒革命の完遂によって、イギリスが「新しきエルサレム」に再生することを願っていた。だが、歴史的現実は、彼の祈りとは逆の方向に発展し、1660年には国民の歓呼の声に迎えられてチャールズ2世が帰国し、「王政回復」が成立した。ミルトンは一時投獄されたが処刑は免れ、失明と失意のなかにあって、人間と神とについての思索にふけった。それが、彼の大作『失楽園』(1667)となって結実したのである。人間にとって神の意志、神の摂理とは何を意味するのか、という問題の意識は、彼の詩的想像力を駆り立て、さらに『復楽園』(1671)、『闘士サムソン』(1671)の制作へと進ましめた。晩年は比較的平和な生活を享受していたようである。1674年11月8日ロンドンに没した。
1920年代以降になって、彼の文学と思想について激しい論争が行われてきたが、今日では彼の声価は依然不朽のものであるとする意見が圧倒的である。
[平井正穂 2015年7月21日]
『才野重雄訳『仮面劇コーマス』(1958・南雲堂)』▽『宮西光雄著訳『ミルトン英詩全訳集』(1983・金星社)』▽『平井正穂著『ミルトン』(『新英米文学評伝叢書13』1958・研究社出版)』▽『森谷峰雄著『ミルトンの芸術の理論的研究』上中下(1977〜2012・風間書房)』▽『新井明著『ミルトンの世界』(1980・研究社出版)』
イギリスの詩人。英詩史上ほとんどつねにシェークスピアに次ぐ地位を与えられてきたが,後者が主として劇詩を創作したのに対し,ミルトンは叙事詩の分野で巨大な足跡を残した。
父は教養あるロンドン商人で,公証人でもあった。息子に最高の教育を与えるに十分な資力と理解を有していたようである。ミルトンはケンブリッジ大学に進み,そこでルネサンス以来のヨーロッパ人文主義の伝統に深く沈潜すると同時に,自己の出身階級であるロンドンの新興市民階級の思想・信仰の基盤を受け継ぎ,高まりつつあった清教主義(ピューリタニズム)の波に身を預けていった。彼の生涯の思想体系が〈クリスチャン・ヒューマニズム(キリスト教的人文主義)〉としてとらえられるゆえんである。
しかしながら彼の思想と文学は,三つの段階を経て展開していったように見受けられる。第1は〈修業時代〉とも呼べようか。大学時代に続いて,ロンドン近郊ホートンの父の別荘にこもって文学の修業にはげんだ6年間(1632-38),および勉学の仕上げのためのヨーロッパ大陸旅行(1638-39)の期間である。彼は自己の使命が一流の大詩人になることにあると確信していた。作品としては《快活の人》《沈思の人》のようなみずみずしい牧歌的抒情にあふれたものもあるが,友人の死をいたんだ牧歌風哀歌《リシダス》には,抒情を貫いて,当時のイギリスの宗教界の腐敗に対する痛烈な風刺が見られる。また仮面劇《コーマス》にも,ピューリタンらしい強い倫理観が支配している。
大陸旅行中に故国の政情急なるを聞き,はせもどったのが1639年。やがて勃発したピューリタン革命は彼の使命感を強烈に新しい方向へ向けた。彼はそこに神の国の実現と,イギリス国民の自由を達成すべき,大義があることを確信したのである。その卓越した学識のゆえにクロムウェル政府のラテン語秘書官に任命され,対外的および対内的に革命の大義を鼓吹するため,たくさんの論文を発表しつづけた。また彼自身の結婚生活の破綻を契機に一連の離婚論を書き,それに対する弾圧に対抗して言論と出版の自由を主張する《アレオパジティカ》(1644)を世に送ったが,すべては個人的良心の自由という近代市民社会の理念を強調するものであった。これが〈散文時代〉とも呼ぶべき第2期である。
この時期の刻苦勉励がたたって,52年に彼は完全な盲目となる。しかも革命は挫折し共和政は解体。ミルトンは絞首台だけはまぬがれたものの,全財産を没収されて陋巷(ろうこう)に身をひそめた。その前後から詩作に立ちもどり,しかも長年温め続けてきたキリスト教的主題による大叙事詩の執筆にとりかかった。〈叙事詩時代〉と呼ぶべき第3期である。すでに全盲であったからすべては口述筆記によってなされたが,《失楽園》(1667)は英詩史上冠絶する最高の叙事詩である。《復楽園》はその続編とも呼ぶべく,古典ギリシア的手法による悲劇詩《闘士サムソン》と合本で71年に出版された。
ミルトンの高度に人工的なラテン語法にもとづく措辞は,英詩の一方の極北を示すが,その強大な影響力が好ましいものであるか否かは,つねに論議の対象となってきた。とくに20世紀に入ってからのT.S.エリオットやF.R.リービスからの問題提起は,まだ完全に答えられていないと思われる。
執筆者:川崎 寿彦
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1608~74
イングランドの詩人。ケンブリッジ大学に学ぶ。ピューリタン革命の勃発とともにピューリタン的精神に立つ教会改革論,離婚論を発表,また言論の自由を主張した。チャールズ1世の処刑後は共和国政府のラテン語書記となり,その政策の弁護にあたった。王政復古後は詩作に没頭し,盲目のなかで最大の傑作『失楽園』を完成し,英文学史上不滅の名を残した。
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…〈ブランク・バース〉と呼ばれるものである。これは長く語り続ける英詩にとくに適した詩型であり,シェークスピアおよび同時代作家の劇作品だけでなく,次の時代のミルトンの叙事詩などでも,荘重な声域で活用された。
[相克]
スペンサーの明るく華やかな声にも,ときに暗い響きは混じった。…
…イギリスの詩人ミルトンの長編叙事詩。国民詩人としての使命を自覚していた彼は,若くから国民的テーマによる悲劇または叙事詩の創作を目ざしていた。…
…それぞれの立場の者はその主張を簡単な印刷物にして公開の場で論敵を倒し支持者をひろげようとしたのである。ジョン・ミルトンの《アレオパジティカ》(言論の自由論)も,こうした小冊子の一つであり,彼ら〈パンフレット書きpamphleteers〉のなかから18世紀にかけての有力な雑誌・新聞の主筆たちがそだっていった。ダニエル・デフォーやジョナサン・スウィフトも,そもそもは筆力さかんな時論家で,より多く,かつ深く人を動かそうと作家活動に仕事をひろげたものである。…
…しかし,やがて商人層を中心とする新しい市民階級が台頭して政治的・経済的な自由を要求しはじめ,これに信仰の自由を求める宗教改革の動きが加わり,この近代市民革命のなかで言論の自由,出版の自由を求める声が強まった。ミルトンJohn Miltonの《アレオパジティカAreopagitica》(1644)は言論の自由を提唱した先駆的著作とされる。したがってこの時代の新聞は,政治的論議を伝える〈意見新聞opinion paper〉であり,商業的な収支は二義的な問題であった。…
…神と悪魔の間に立たされて苦しむファウスト博士の姿が目にやきついたのである。またJ.ミルトンは《失楽園》で,少年のころに人形劇で《アダムとイブ》を見た印象が強烈で,永く彼の心中に映像を残したことをうたっている。G.サンドは自分の人形劇場をもっていて120本に及ぶ脚本を書いた。…
…王政復古後は,ピューリタンは急速に解体してしまい,国教会に吸収された者が多かったが,今日のイギリスの非国教徒教会のうち,長老派,独立派(会衆派),バプティスト,クエーカーなどはいずれもピューリタンの流れをくむものである。 ピューリタンの思想家としては,エリザベス時代のカートライトThomas CartwrightやトラバースWalter Travers,ジェームズ時代のパーキンズWilliam ParkinsやエームズWilliam Ames,共和政時代のR.バクスターやオーエンJohn Owen,とりわけ詩人にして思想家J.ミルトンがあげられる。J.バニヤンは王政復古後のピューリタンの生き方を代表する。…
…20世紀になってT.S.エリオットらの絶賛を集めたゆえんであろう。しかしマーベルはやがてクロムウェル陣営に身を投じ,そのラテン語の学識で,政府のラテン語秘書官であった盲目のミルトンを助けた。王政復古(1660)後,ミルトンを迫害から救うのに力があったとも伝えられる。…
※「ミルトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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