半植民地的社会経済構造の変革を目ざして,20世紀前半にメキシコで起こった民族主義的社会革命。狭義には35年間に及んだディアス独裁体制(1877-1911)の打倒を目ざした1910年11月20日のマデロによる武装蜂起に始まり,革命憲法が制定された17年に終結したとされる。より広義には民主的政治体制の確立,農地改革の実施など革命目標が実現されたカルデナス政権(1934-40)の終了をもって革命は終結したとされる。世界がいわゆる帝国主義時代に入った1870-80年に確立したディアス独裁体制の下で,メキシコは外国資本を積極的に誘致し近代化を急いだが,その結果,外国資本によるゆがんだ経済開発が促進され,メキシコの富は欧米先進諸国の支配するところとなった。このディアス独裁体制の打倒と社会改革の実現および外国資本の排除を目ざしたメキシコ革命は,中国の辛亥革命(1911)やロシア革命(1917)より先に勃発し,しかもこれらの革命とは異なって明確な革命思想と優れた指導者を擁しなかったにもかかわらず,挫折することなくメキシコ近代化の基礎を築くことに成功した。同時にメキシコ革命はメキシコ同様に欧米先進諸国の資本に支配されたラテン・アメリカ諸国の民族主義運動に大きな影響を与えた。
革命の直接的原因はディアスの独裁政治と不均衡な経済社会の発展に求められる。1877年から35年間続いたディアス独裁時代はメキシコが独立後初めて達成した政治安定と経済繁栄の時代であった。しかし,ディアス長期安定政権の下でメキシコが積極的に誘致した外国資本は,やがてメキシコの重要な経済部門を支配するに至った。外国資本は1910年までに鉄道の98%,石油の97%,鉱山資源の97%を占めたほか,国土の約4分の1を所有し,鉱山,工業,商業など経済活動の主力となった。一方,農業は輸出向け商品作物の生産が急速に増大したのに対して,基本食糧を輸入するという不均衡な発展をした。農民の97%は土地を所有せず,農業労働者として過酷な生活を強いられた。他方,経済の発達に伴って中産階級や労働者階級が増大したが,ディアス体制下のメキシコ社会は少数のグループが権力と経済を握る閉鎖的な社会であった。そして〈シエンティフィコス〉と呼ばれた科学主義を信奉する少数の特権集団がメキシコ的なものを非合理的とみなして排除し,ヨーロッパをモデルとした近代化政策を推進した。その結果,20世紀初頭のメキシコは秩序と繁栄を享受し世界有数の近代国家にまで成長したかのようであった。しかし,富の著しい偏在,少数の特権的エリート層による支配,外国資本の横暴と暴利など,半植民地的経済社会構造が確立していたのである。
革命への引金は1908年独裁者ディアスがアメリカの雑誌記者に語った〈民主化宣言〉であった。この宣言に鼓舞され同年《1910年の大統領継承》という本を著して民主政治の実現を求めたマデロを中心とするグループは,やがてディアス大統領の再選反対と公正な選挙の実施をスローガンにして全国的な運動を組織した。しかし,政府の妨害とディアス再選の実現により,このマデロ運動はディアス独裁者打倒を目ざす武装蜂起へと発展し,11年5月15日ディアスを追放することに成功した。こうして革命動乱期の第1段階は政治の民主化を要求するグループによって達成されたが,こののち政治の民主化を第一に求め社会改革を二義的にしか考えなかったマデロ派と,農地改革を要求する南部モレロス州のサパタ農民派の対立が深刻化した。11年11月28日にサパタ派による〈アヤラ計画〉が発表されて農地改革運動への展開が明らかになったが,このマデロ時代(1911年5月~13年2月)が革命動乱期の第2段階である。そして,旧体制派が巻き返してマデロを暗殺し,ウエルタVictoriano Huerta(1854-1916)反革命政権を樹立したが,このウエルタ時代(1913年2月~14年7月)が動乱期の第3段階である。この間,立憲主義を主張したカランサを中心とするメキシコ北部勢力がウエルタ政権打倒を目ざして立ち上がり,14年7月ウエルタの追放に成功したが,革命動乱は地主・資本家・中産階級を代表するカランサ派と農民を代表するサパタ派およびビリャ派に分裂して,14年秋には内戦状態へと発展した。この期間を動乱期の第4段階とする。この内戦を通じて農地改革などの具体的なプログラムを提示したカランサ派は,労働者の支持を得てビリャ派,サパタ派を抑え,15年秋にはほぼ国内を制圧して諸外国から政府承認を受けた。カランサ政府は北部で抵抗するビリャ勢力と南部でゲリラ活動を続けるサパタ勢力と闘いながら,憲法制定に取り組み革命終結へと向かった。このカランサ勢力が国内をほぼ制圧して諸外国から承認され憲法を制定していく15年秋から17年初めまでを,動乱期の第5段階とする。以上のように1910-17年に展開された革命動乱期は,国内諸勢力間の激しい武力抗争期であり,またアメリカ海軍によるベラクルス港占領(1914-15)やアメリカ陸軍による北部国境侵犯事件(1916-17)など,対米関係で重大な危機に直面した期間であったが,第1次世界大戦の勃発によって欧米列強の本格的な武力干渉が回避されたため,メキシコ革命は国内諸勢力間の抗争と妥協の中から独自の社会改革プログラムを創出しえたとも言える。
17年2月5日に公布された憲法はメキシコ革命の集大成である。とくに〈土地,地下資源,水〉を根源的に国家の所有下に置くことを規定した第27条はメキシコ革命の最大の成果であった。この第27条を法的根拠として農地改革,外国資本の国有化,教会財産の没収が遂行されている。独立以降の懸案であった政教分離と教会財産の没収は19世紀の〈改革の時代(レフォルマ)〉にも実施されたが,革命憲法では徹底した教会勢力の排除が盛り込まれており,国家が教会を支配するという反教権主義が明確にされている。このような急進的な改革を目ざした憲法の出現は国の内外で波紋を呼び起こし,20年代になって諸改革が実施されはじめると新たな危機を生んだ。国内的には,26年8月1日カトリック教会が政府の反教会主義政策に反対して全国一斉ストライキに入り,ミサを停止した。一方,教会の復権を求める熱狂的なカトリック信者が武装蜂起し,教会問題は約3年にわたって〈クリステーロの乱〉と呼ばれる内乱へと発展した。対外的には,メキシコに莫大な利権を保有していたアメリカ合衆国との関係が,アメリカ資本の国有化の問題をめぐってしばしば危機的状況にまで発展したが,メキシコは37年に鉄道の国有化を,また38年には石油の国有化を成し遂げた。
メキシコは1917年憲法の理念に基づく基本的な改革をほぼ40年までに遂行し,革命を制度化するのに成功したと評価されている。国民参加の民主政治を保障し,かつ独裁化しえないが強力な権限を大統領が発揮しうる政治制度をつくりあげたことは,今日のメキシコの政治安定と経済発展の基礎となっている。1929年に革命勢力を結集して結成された国民革命党は38年に再編されてメキシコ革命党となり,46年に再び改編されて今日まで政権を保持している〈制度的革命党〉へと発展したが,この一党独裁体制は他のラテン・アメリカ諸国で顕著に発生する軍部による政治への介入を封じる一方,農民,労働者,中産階級の要求をくみ上げる制度として機能し,政治安定の基礎となった。革命の主要な成果の一つであった農地改革はとりわけカルデナス大統領時代(1934-40)に実施されて,メキシコの伝統的な大土地所有制はほぼ1940年までに崩壊し,代わって土地の共有を基本理念とするエヒード制が新しい土地制度の主力となった。革命は国民的統合を促進し,メキシコ・ナショナリズムを著しく高揚させた。教育の近代化が行われ,識字運動が全国に広がり,壁画運動などを通じて民族意識の高揚と多民族国家メキシコの統合が積極的に進められたのも,メキシコ革命の大きな成果である。
執筆者:国本 伊代
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1910~20年に起きたメキシコの民族主義革命。外国資本と大地主階級の利益を代弁するディアス独裁(1876~1911)を打倒して民主政治を回復し、あわせて従属的・非民主的社会経済構造の変革を目ざした。1900年ごろから中産階級知識人による民主化運動が強まり、とくに05年以後は彼らによる武装闘争と、その影響を受けた流血ストが続いた。10年秋、ディアス再選に反対してアメリカに亡命していたマデロが武装闘争を宣言、北部貧農出身のビリャや南部農民出身のサパタなどの協力を得て、翌11年5月ディアス打倒に成功した。しかし、メキシコ有数の大地主=民族資本家の一族であったマデロは、社会経済改革、とりわけ土地改革に消極的な姿勢を示したため、同年11月サパタは徹底した土地改革を要求するアヤラ・プランを発表してマデロ政府に離反した。このような革命勢力の分裂を利用して、13年2月ウエルタ将軍が反革命クーデターに成功しマデロは虐殺された。これに対し北東部の大地主カランサが革命再開を宣言、北西部の富農オブレゴンや北中部のビリャの軍も加わった立憲革命軍を率いて南下し、南からはサパタ派も圧力を加えた。さらに反革命クーデターを非難するアメリカの新大統領ウィルソンの介入もあって、14年7月ウエルタは亡命した。
しかし、革命派は上流階級や中産階級を代表するカランサ‐オブレゴン派と、下層農民を代表するビリャ‐サパタ派に分裂し、三たび内戦となった。初めは後者が優勢だったが、オブレゴンは保守的なカランサを説得して土地改革や労働者の地位改善を約束し農民や労働者を味方につけ、1915年春から反撃を開始、同年4~5月にはビリャ軍に大勝した。17年2月に制定された新憲法には、土地、水、地下資源などは本来、国家、国民に所属すべきこと、公共の利益のために私的所有権は制限されうること、農地改革を推進すべきことなどが詳細に記され、外国資本所有の石油、鉱山、鉄道などの国有化にも道を開いた。労働者の諸権利が列挙され労使問題に国家が介入すべきことも明記された。新憲法に基づいて選ばれたカランサ大統領は改革には消極的で、労働運動を抑圧し、サパタを暗殺するなど農民軍への弾圧も続けた。20年オブレゴンが権力を獲得し、サパタ派やビリャ派との和平が成立し、10年に及ぶ内戦は終わったが、根本的改革は30年代後半を待たねばならなかった。
[野田 隆]
『増田義郎著『メキシコ革命』(中公新書)』
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20世紀初頭のメキシコで,19世紀後半以来のディアスの独裁体制が倒され,内戦の末に新たな政治体制の枠組みが生まれた過程をさす。1910年にマデーロが独裁体制の打倒を呼びかけて革命は始まった。ディアスは翌年亡命しマデーロが大統領に就任したが,13年にウエルタの謀反で暗殺され,内戦状態となった。14年にウエルタは追放されカランサが主導権を握ったが,農地改革を主張するビリャやサパタと対立し内戦状態が続いた。この間,進歩的な内容の1917年憲法が制定された。19年のサパタの暗殺,20年のカランサの暗殺とビリャの引退によって内戦状態は終結した。憲法の内容はなかなか実行されなかったが,カルデナス政権(1934~40年)で農地改革や石油産業国有化が実現され,労働条件の改善が進められた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…南西部はスペイン人,ついでメキシコ人が領有した所であった。さらに1910年以降,南西部の経済発展は新たにメキシコから多くの労働者をひきつけ,1910年に始まったメキシコ革命はその移住者の流れに拍車をかけた。安全とよりよい生活を求めて多数の貧しい農民と都市居住者が国境を越えてきたのである。…
…メキシコ革命(1911)後の新時代にふさわしい美術を創造し,革命の意義を壁画に描き,広く長く大衆の間に伝えようと考えたシケイロスやリベラやオロスコを中心にメキシコで興った美術運動el movimiento muralismo。メキシコ革命を記念する壁画構想はすでに1910年代からあったが,その実現は22年,時の文部大臣J.バスコンセロスによって国立高等学校の壁面が提供されたときに始まる。…
…相変わらず先住民や混血は国内の地主や外国人企業家によって搾取され続けた。このような状況に対して起こったのが,1910年のメキシコ革命である。これは全国民を巻き込む戦争となり,その結果として,農地改革のもとになる条項や労働者の保護をうたった条項を盛り込んだ1917年憲法が生まれた。…
… 20年代以降は,詩の分野ではルイス・ボルヘス,パブロ・ネルーダ,セサル・バリェホ,ニコラス・ギリェンらによって代表される前衛詩,社会詩が主流になり,多くのすぐれた作品が生まれた。また散文の分野でも,1910年のメキシコ革命の影響を受けて,ラテン・アメリカの土着性を再認識する動きがみられ,〈メキシコ革命文学〉〈大地小説〉〈ガウチョ文学〉(ガウチョ),〈インディヘニスモ文学〉(インディヘニスモ),〈アフロ・アメリカ文学〉などの,写実主義的な土着文学が相次いで誕生した。これらの文学は,密林,大河,草原,山岳地帯,農場など,ラテン・アメリカの自然や風土を背景あるいはテーマにし,インディオ,黒人,混血など下層の人々を対象にして,現実や土着性を再検証しようとする新しい文学運動として,1920年代から50年代にいたるまで,ラテン・アメリカ文学史上で首座を占めたのである。…
※「メキシコ革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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