日本大百科全書(ニッポニカ) 「メキシコ史」の意味・わかりやすい解説
メキシコ史
めきしこし
メキシコの歴史は、(1)古代文明(メソアメリカ文明)期、(2)植民地時代、(3)独立からメキシコ革命まで、(4)メキシコ革命以後、(5)第二次世界大戦後の5期に区分できる。
[野田 隆]
古代文明期
紀元前2万年前後に、シベリアからベーリング海峡を渡ったアメリカ大陸の先住民インディオの祖先は、前1万5000年ごろにはメキシコに達し、前3500年ごろからトウモロコシ農業を開始、前2000年を過ぎると定住農村や祭司センターも出現して、先古典期文明の時代が始まった。巨石人頭像やジャガー信仰で有名な、メキシコ湾南岸低地のオルメカ文化(前1200ごろ~前600ごろ)がその代表である。前2世紀ごろからは古典期文明の時代に入り、中央高原には「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」などで知られるテオティワカン、南部オアハカ盆地のモンテ・アルバン、ユカタン半島南部から中央アメリカにかけての古典期マヤ諸都市(ティカル、コパン、パレンケがその代表的遺跡)など、優美で巨大なピラミッドの建ち並ぶ大神殿都市が繁栄した。この古典期は「平和な時代」と考えられていたが、第二次世界大戦後まもなく、マヤ地域で激しい戦闘場面を描いた壁画(ボナンパクの壁画)が発見され、また、テオティワカンの地下から1980年代の末に150体を超える犠牲者の人骨が発掘されるなど、しだいにそのイメージはかわりつつある。10世紀ごろになると、北方狩猟採集民の文化が加わった、軍事的色彩の濃い新古典期文明の時代が始まり、人身犠牲が盛んに行われるようになった。まず中央高原では神殿都市トゥーラを中心にトルテカ文化が栄え、その影響の下にユカタン半島北部では新古典期マヤ諸都市(10世紀~15世紀末)が繁栄した(チチェン・イツァー、ウシュマル、マヤパンなどがその代表的遺跡)。トルテカ滅亡後分裂状態となった中央高原ではアステカが1325年に湖中の小島テノチティトランに居を定め、強大な戦闘力を背景に15世紀中ごろから勢力を広げ、16世紀初めには人口数百万ともいわれる大征服国家を築いた。先住民の社会は大別して支配階級、自由民、少数の隷属民からなり、自由民は共同体に属し、原則として土地は共有制であった。
[野田 隆]
植民地時代
1519年から1521年にかけて、アステカ王国の首都テノチティトランはコルテスの率いるスペイン人に征服され、300年に及ぶスペイン植民地時代が始まった。コンキスタドレス(征服者たち)はエンコミエンダ(先住民統治委託制度)によって先住民を支配下に置き、強制労働や税を課して、一時、巨大な政治権力と経済力を握ったが、スペイン国王は1535年に「副王」をメキシコ市に派遣して彼らの政治権力を奪い、官僚制による絶対主義支配体制を確立した。植民地時代のメキシコは「ヌエバ・エスパニャ」(新スペイン)とよばれ、その経済の中心となったのは、北方のグアナフアトやサカテカスなどで産出された銀であった。国王はこれに5分の1の税を課し、また厳重な貿易統制を行って莫大(ばくだい)な王室収入を得た。ヌエバ・エスパニャの銀生産は、第一次銀ブームとよばれる急増期(1550ごろ~1630ごろ)、1世紀に及ぶ停滞期、第二次銀ブーム(1740年代以後)の三つの時期があった。先住民人口も、ほぼこれと時期を同じくして変動した。すなわち、疫病や酷使などによって急減少した時期(5分の1以下に減少したと考えられている)、横ばい期、回復期に分けられる。銀と人口の動きは土地所有・農業・牧畜業・商業・本国との貿易などにも影響し、植民地300年を「激動の16世紀」「停滞の17世紀」「成長の18世紀」に時代区分して考えることもできる。この間クリオーリョ(植民地生まれの白人)やメスティソ(混血)は増大を続け、一部のクリオーリョは混血の隷属民(ペオン)を支配する大農園主や鉱山主となった。一方、人口の減少した先住民村落は王室によって廃村・合村政策が行われ、新たな共同村落(土地共有制=エヒード)に再編成されていった。このようにして、大地主と隷属民からなる大農園の世界(スペイン的文化と不平等)と、貧しいが比較的平等な共同村落の世界(カトリック化しても先住民の言語文化を維持)というメキシコ社会の基本構造ができあがっていった。18世紀初めにブルボン家がスペイン王位を継承し、同世紀後半から産業振興政策や制度改革を行ったこともあって、ヌエバ・エスパニャ副王領は空前の繁栄期を迎えた。しかし、それは王室の支配体制や搾取の強化をも意味し、住民の不平等を拡大させた。貧しい民衆はスペイン支配体制への反感を強め、有産クリオーリョ層も本国人の政治独占や貿易統制に不満を抱き始めた。
[野田 隆]
独立からメキシコ革命まで
ナポレオンのスペイン占領が引き金となって独立運動が始まり、1810年急進的クリオーリョのイダルゴが、北中部の下層民衆を扇動して蜂起(ほうき)し首都に迫ったが、翌年敗れて処刑された。中南部太平洋岸の山岳地帯でゲリラ戦を続けたメスティソのモレロスも、1815年に下層民衆を恐れるイトゥルビデ傘下の有産クリオーリョ軍に処刑された。しかし1820年にスペインで自由主義革命が起こると、その波及を恐れた保守的クリオーリョやカトリック教会が分離独立に傾き、1821年イトゥルビデが独立を宣言、1822~1823年のイトゥルビデ皇帝の帝制を経て、1823年に共和制が宣言された。1824年に憲法が制定されて大統領が選出されたものの、保守派と自由派の対立が激しく、1827年以後は内乱に発展、さらに外国の侵略も相次ぎ独立後の政治は混乱を極めた。とくに保守派のサンタ・アナ将軍は軍事力を行使してしばしば権力の座についたが、その統治下の1836年にはテキサスを失い、さらに1846~1848年のアメリカ・メキシコ戦争(米墨戦争)にも敗れた。メキシコは1848年調印のグアダルーペ・イダルゴ条約でカリフォルニアはじめ広大な領土をアメリカに奪われ、その国土は半減した。
アメリカ・メキシコ戦争後も政争は続き、保守派がサンタ・アナを終身大統領としたため、1854年アルバレスJuan Álvarez(1790―1867)を中心とする自由主義派が「アユトラ・プラン(綱領)」を発表して蜂起(ほうき)し、翌1855年にサンタ・アナを追放した(アユトラ革命)。彼らは軍や教会の裁判上の特権を廃止するフアレス法、教会や共同体の土地所有を禁ずるレルド法を公布した。さらに1857年には新憲法を制定してメキシコの民主化と近代化を目ざしたが、同年末保守派のクーデターによって政権を追われた。しかし、フアレスを中心とする自由派はふたたび立ち上がり、1860年末に3年に及んだ内戦(改革戦争)に勝利したが、1861年フアレスが外債の支払いを停止すると、イギリス、スペイン、フランス3国がベラクルス港を占領、さらにフランス軍は単独で内陸に進軍して国土の大半を占領し、1864年にオーストリアのマクシミリアンを「メキシコ皇帝」につけた。しかし、フアレス軍は執拗(しつよう)なゲリラ戦を続けてフランス軍を撤退に追い込み、1867年にマクシミリアンを処刑、共和制を復興した。「復興共和国」の10年間は大統領フアレス(在任1867~1872)と、レルド法を制定したミゲル・レルド・デ・テハダMiguel Lerdo de Tejada(1812―1861)の弟で、1872年から1876年まで大統領を務めたセバスティアン・レルド・デ・テハダSebastián Lerdo de Tejada(1827―1889)の下で民主化と近代化の試みがなされ、1873年にはイギリス資本によりメキシコ市―ベラクルス港間の鉄道が開通し、メキシコ中心部は世界市場と直結された。しかし、1876年のディアス将軍の権力奪取によって民主政治は挫折(ざせつ)、以後35年に及ぶディアス独裁が続いた。ディアスは力によって治安を確立し、1880年には「鉄道法」を公布してアメリカ資本による鉄道建設に道を開き、1883年には「入植法」を制定して国土の20%に達する公有地を大地主に払い下げ、他方ではインディオ共同体所有地の解体を強行した。その結果、ディアス時代に鉄道は640キロメートルから2万1000キロメートルになり、外国資本による鉱業開発(銀・銅・錫(すず))、大地主による農牧業の近代化などが推進され、メキシコ経済は目覚ましく発展した。しかし、それはきわめてゆがんだ発展であり、外国資本への従属化、大多数の農民の土地喪失、増大しつつある労働者の権利無視、欧米賛美による民族文化の蔑視(べっし)をもたらした。
[野田 隆]
メキシコ革命以後
1910年に民族資本家のマデロが民主化を要求して蜂起し、貧農のビリャやサパタの協力を得て翌年ディアス独裁を打倒して始まったメキシコ革命であったが、マデロは1913年ウエルタ将軍Victoriano Huerta(1854―1916)の反革命クーデターにより殺害された。しかし、革命は自由主義的大地主のカランサ、富農のオブレゴンÁlvaro Obregón(1880―1928)、ビリャやサパタに引き継がれ、1年余りの激戦の後、1914年ふたたび勝利した。その後革命勢力はカランサ‐オブレゴン派(上・中流層中心)とビリャ‐サパタ派(下層農民中心)に分裂して内戦となったが、都市労働者や知識人の支持も得た前者が勝利し、1917年には天然資源のメキシコ化や土地改革、労働者の諸権利などが明記された民主的かつ民族主義的な現行憲法が制定された。しかし大統領カランサ(在任1915~1920)は社会経済改革に消極的で、改革はほとんど実施されなかった。オブレゴン政権期(1920~1924)には教育の改善に尽くした当時のメキシコ大学総長バスコンセロスJosé Vasconcelos(1881―1959)が文部大臣を務め、壁画運動(リベラ、オロスコ、シケイロスの三大壁画家が有名)などを通じて民族文化が再認識された。カリェス政権期(1924~1928)にはモローネスの指導するメキシコ労働者地域総連合(CROM)が重要な政治的役割を演じ、カトリック教会やカトリック系労働組合への規制が強化されたため、カトリック支持派の大反乱(クリステロの乱、1926~1929)が起こった。1928年にはオブレゴンが大統領に再選されたが暗殺され、これを機に1929年には革命指導者を結集した国民革命党(PNR)が結成されて中央集権化が進んだ。この間、農地改革も少しずつ実施され、石油の国有化も試みられたが、これはアメリカの強硬な反対を受けて実現しなかった。
1929年の世界大恐慌によって輸出中心のメキシコ経済は大打撃を被り、やがて経済自立と社会改革の要求が高まり、カルデナス政権(1934~1940)のもとで大規模な社会経済改革と工業化政策が推進された。カルデナスは労働運動を保護育成し、1936年にはマルクス主義の労働運動家ロンバルド・トレダーノVicente Lombardo Toledano(1894―1968)の指導の下にメキシコ労働者総連合(CTM)を結成させ、貧農や農業労働者には6年間に約2000万ヘクタールの土地を分配、1938年には全国農民総連合(CNC)を組織させた。カルデナス政権は1937年に鉄道、1938年にはアメリカ、イギリス、オランダの石油会社に支配されていた石油産業を国有化して、メキシコ石油公社(PEMEX(ぺめっくす))を設立した。他方では国立投資銀行による融資や産業基盤の充実、保護関税など、民族産業の保護育成政策(輸入代替工業化政策)を推進し、国民教育の拡充にも努力した。このような政策を背景に、1938年には与党を改組、すなわち、労働部会(CTM中心)、農民部会(CNC中心)、一般組織部会(中産階級や小規模経営者など)、軍部会の4部会で構成されるメキシコ革命党(PRM)に改組し、階級協調的大連合を完成させた。しかしインフレもあって、これ以後カルデナスは改革を減速し、石油国有化以来悪化していた対米関係も修復、対米協調路線へ政策を転換した。
[野田 隆]
第二次世界大戦後
第二次世界大戦はメキシコの工業化に絶好の機会を与えた。軍需景気にわくアメリカや戦乱のヨーロッパからの輸入は困難となり、自国産品がこれを「代替」したからである。アビラ・カマチョ政権(1940~1946)の政策の重点は改革から経済成長へ移り、1942年には「ブラセロス協定」(出稼ぎ労働者派遣協定、1964年に廃止)がアメリカと結ばれた。これは、戦時で労働力不足のアメリカでメキシコ人労働者を一定期間働かせることを決めた協定であり、おもに低賃金の農業労働者として多くのメキシコ人が派遣され、戦後の観光収入とともに貴重なドル収入源となった。与党内では一般組織部会が主導権を握り、1946年には与党は制度的革命党(PRI)と改名され、ロンバルド・トレダーノら左派は追放された。続くアレマン政権(1946~1952)およびコルティネス政権(1952~1958)のもとで親米反共政策はさらに強まり、アメリカ資本の導入が増え、大学都市、ハイウェー、ダムの建設などの巨大な公共投資が続けられた。「ブラセロス協定」の廃止に伴い、1965年に工業化と資本の誘致をねらって税制上の優遇措置を設けたマキラドーラ(輸出保税加工地区)が、アメリカとの国境につくられた。カルデナスの支持を受けたロペス・マテオス政権(1958~1964)下では労働者や農民の不満が表面化し、また1959年のキューバ革命の影響も受けたが、政府は土地改革の再開や、アメリカの圧力に屈せぬ対キューバ自主外交で国民の信頼をつなぎ留めた。続くディアス・オルダス政権(1964~1970)も、農村ゲリラや首都の学生運動を武力弾圧(トラテロルコ広場の虐殺)しつつ、1968年のメキシコ・オリンピックを成功させた。この間、年平均6%に達する経済成長が続き、外資導入、農産物輸出、観光収入などで国際収支も安定し、1954年から1976年まで22年間にわたってペソの対ドル固定レートが維持され、その政治的安定と着実な経済成長は「メキシコの奇跡」と称賛された。
しかしこの「奇跡」の陰には、1960年代からの農業生産の頭打ち、輸入代替工業化に伴う国際収支の悪化(機械類の輸入増加)、極度の所得格差、貧困や失業、人口爆発と都市化による社会問題、一党支配による政治の腐敗など、種々の問題が潜んでいたのであり、1968年のメキシコ・オリンピック直前の大規模な学生デモは、これらに対する民衆の不満を代弁したものであった。エチェベリーア政権(1970~1976)はこのような国民の不満を和らげるため、大幅な賃金引き上げ、国営企業の拡大による急激な経済成長政策をとり、また反米的第三世界外交を展開し、農地改革も推進した。しかし、こうした人気とり政策は、第一次石油ショックの影響もあって(当時のメキシコは石油輸入国)インフレと国際収支の悪化を招き、76年にはペソ切下げに追い込まれた。続くロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)は、次々と発見される新油田を国際金融市場からの資金調達によって開発する政策によって、1978年以後高度成長を実現したが、国際石油価格の急落(逆オイル・ショック)によって、1982年には対外債務の支払不能に陥った。デラマドリ政権(1982~1988)の国際通貨基金(IMF)の方針に従った引き締め政策にもかかわらず、輸出の70%を占める石油と天然ガスの価格は好転せず、対外債務は1000億ドル近くに達した。対外債務処理とインフレ抑制を目ざす思いきった緊縮財政政策は、景気をさらに悪化させて国民に多大の痛みを与え、さらに1985年9月19日に起こったメキシコ地震が追い討ちをかけた。アメリカは緊縮財政のみならず、経済の自由化と国営企業の民営化も求めていたので、1988年の大統領選挙は国論を二分する与野党の激突となった。与党内の左派と民主諸勢力が結成した左派連合の民主革命党(PRD)は、メキシコ革命以来の民族主義政策(国家主導の開発と福祉政策)の維持を主張し、ラサロ・カルデナス元大統領の息子クアウテモク・カルデナス(クアウテモクはスペイン人に抵抗したアステカ王の名前)を立てて善戦したが、与党PRIのサリナスCarlos Salinas de Gortari(1948― )がかろうじて当選した。サリナス政権(1988~1994)は、1989年からアメリカが進めていた新債務戦略(ブレイディ提案)に基づく累積債務の証券化、1992年の憲法改正によるエヒード(共有地)の売買自由化、同年の北米自由貿易協定North American Free Trade Agreement(略称NAFTA(ナフタ))調印(発効は1994年1月)などにみられるように、新自由主義(ネオリベラリズム)政策による自由化・国営企業の民営化・国際化路線を強行し、インフレ抑制にも成果をあげた。
1993年、与党PRIの次期大統領候補ルイス・D・コロシオが暗殺され、1994年元旦にはNAFTA発効にあわせて、南部のグアテマラ国境チアパス州でサパタの名にちなむサパティスタ民族解放軍(EZLN)による武装蜂起(ほうき)が発生した。サパティスタ民族解放軍は、先住民や農民の権利を主張する反政府ゲリラであり、貧困問題の改善などを要求している。1994年の大統領選挙は急遽(きゅうきょ)後継候補に指名されたセディジョErnesto Zedillo Ponce de León(1951― )が、左派と右派の対立候補に圧勝して大統領となった。サリナス前政権下での経済自由化・活性化は、巨額外資導入による輸入超過、貿易赤字の累積などを慢性化させ、不安定な国内政情も加わり、短期資金の流出を誘発したため、セディジョは就任直後の1994年12月20日通貨ペソの対ドル相場15%切下げに踏み切った。しかし、通貨切下げが引き金となり資本は急速に国外に流出し、メキシコは深刻な通貨危機(テキーラ・ショック)に陥った。ペソ危機は、一時全世界の新興市場からの資金撤退を引き起こし、全世界的金融恐慌のきっかけとなる恐れが生じたため、アメリカ政府や国際通貨基金(IMF)などはメキシコ政府に500億ドルを超える緊急融資を行い、新自由主義政策の踏襲による財政再建を続けさせた。セディジョ政権(1994~2000)は約2年間でメキシコ経済を再建したが、失業者の大幅な増加や汚職問題などで国民の不信感が高まり、1997年の選挙では与党の制度的革命党(PRI)が下院で初めて過半数割れした。2000年の選挙では国民行動党(PAN)のフォックスVicente FOX Quesada(1942― )が当選し、71年間続いたPRIの一党支配は終了した。
この間、かつて野党PRDの大統領候補であったクアウテモク・カルデナスが、1997年にメキシコ市長に当選、就任したり、野党第一党の国民行動党(PAN)の地方選や国会議員選での善戦など、PRIの長期支配に対する政治の民主化も少しずつ進んでいた。メキシコはNAFTA加入による直接投資と輸出の拡大によって、1998年には実質GDP成長率4.8%を記録、海外からの投資も順調であり、マクロ経済指標ではラテンアメリカ随一の発展を遂げた。その後アメリカ経済の景気後退を受け低成長が続いたが、2004年には石油価格上昇・民間投資回復などにより4.4%の成長率となった。1994年のNAFTA発効以来、輸出額は2004年までの10年間で約3.1倍、輸入額は2.5倍となり貿易額は拡大した。工業製品の輸出額が多く、電気・電子機器が25.7%、輸送用機械が17.7%、一般産業機械が15.8%を占めている(2004)。メキシコ自動車工業会(AMIA)によると1994年の自動車生産台数は109万台、1999年149万台、2005年160万台と増大。自動車生産の90%以上はアメリカに輸出され、メキシコはカナダ、日本に次ぐ対米自動車輸出国となった。また家電部門の発達も著しく、テレビ受像機の輸出額は1998年以降世界第1位である。しかし、ミクロ面では新自由主義政策に基づく自由化・民営化は倒産や失業を引き起こし、公共料金の値上げ、福祉の切り捨てなどによる貧富の格差がますます拡大し、それに伴って治安も悪化している。
[野田 隆]
『J・リード著、野田隆他訳『反乱するメキシコ』(1982・筑摩書房)』▽『細野昭雄他著『概説メキシコ史』(1984・有斐閣)』▽『P・オスター著、野田隆他訳『メキシコ人』(1988・晶文社)』▽『増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』(1999・山川出版社)』▽『谷浦妙子著『メキシコの産業発展――立地・政策・組織』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『国本伊代著『メキシコの歴史』(2002・新評論)』▽『鈴木康久著『メキシコ現代史』(2003・明石書店)』▽『国本伊代・畑恵子他著『概説メキシコ史』(2004・有斐閣)』▽『禪野美帆著『メキシコ、先住民共同体と都市――都市移住者を取り込んだ「伝統的」組織の変容』(2006・慶應義塾大学出版会)』▽『世界経済情報サービス編・刊『メキシコ(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』▽『フランソワ・ウェイミュレール著、染田秀藤・篠原愛人訳『メキシコ史』(白水社文庫クセジュ)』