改訂新版 世界大百科事典 「識字運動」の意味・わかりやすい解説
識字運動 (しきじうんどう)
すべての人が文字の読み書きができるようになることをめざす大衆的な学習・文化運動。非識字率は年々低くなってはいるが,地域によってちがい,1995年現在(ユネスコ統計),欧米地域,日本などではほとんど1%以下であるのに対し,アラブ,アフリカなどでは50%を超えている国も多い。20世紀最初の識字運動はソ連において,文盲が多いところには国民のための政治はないというレーニンの指導下にすすめられ,また中国では抗日戦のさなか,巡回学校・小先生(字を覚えた子どもがおとなに教える)など,さまざまな創意くふうをこらした運動が展開された。第2次大戦後,民族解放・独立の達成とともに多くの国でこの運動が展開され,キューバでは1961年を〈教育の年〉として大規模な運動が行われ,23.6%の文盲率を3.9%にまでさげ,またビルマ(現,ミャンマー),ベトナム,70年代後半にはイラクやエチオピアでも開始された。前述のように,その絶対数を低下させるのは容易ではないが,この運動は人々に人間的権利の自覚や民主的社会関係創造への積極的参加を促す働きかけとして注目されている。
日本では学校教育の整備により非識字率を引き下げた裏側で,社会的差別の下,貧困な生活を強いられた被差別部落の人々の識字教育は放置されてきたが,部落解放運動は現実的差別の撤廃と人間的権利の自覚に立ち,1960年代以降,差別・貧困をもたらす社会構造の変革に結びつく識字運動を生みだした。それは差別を見ぬく眼,科学的思考を育て,連帯のたいせつさを理解させようとするものであり,公教育における同和教育にも影響をあたえた。なお60年代の経済高度成長下の労働力流動化が,被差別部落住民の社会的適応力獲得のための教育要求を高め,これが識字運動拡大の基盤となったことも見のがせない。
執筆者:島田 修一
中国の識字運動
中国の識字運動Shí zì yùn dòngには,その対象である漢字を改革する文字改革の運動と,字を識(し)る側を拡大する社会教育の運動の二面が含まれる。それらは相互に関連しあって,漢字が読めず書けない者(文盲)を減少させきた。解放前,非識字率は,都市で70~80%,農村で80~90%であった。これは人民の生活水準が低いこと,教育制度の整備運営が不十分なことにもよるが,漢字自体の繁雑さにも起因している。したがって識字運動は,清末の盧戇章(ろこうしよう)の〈中国第一快切音新字〉以来,王照の〈官話字母〉,労乃宣らの〈簡字〉運動,1910年代後半からの〈注音字母〉運動,国語統一籌備会による〈国語羅馬(ローマ)字〉運動,30年代の大衆語表音方法としての〈拉丁(ラテン)化新文字〉運動など,一連の文字改革運動となって展開された。解放後,漢字は,略字(簡体字)が使用され(1956年1月第1次漢字簡化方案公布),ローマ字表記が並用されている(1958年2月漢語拼音方案公布)が,急激な簡略化は失敗している(1977年発表の第2次案の撤回)。
一方,清末の労乃宣の〈簡易識字学塾〉,中華民国後の上海の方選民による通俗教育学校,董景安の〈六百字通俗読本〉,1920年代,晏陽初や陶行知らの〈千字課〉による平民教育,解放区での識字教育などが,社会教育運動として展開された。国民のすべてが自国語について,文字を読み書くことができ,自由に意志を伝え合うことは,近代国家における国家的要請でもある。1949年12月の第1回全国教育会議後,冬季学校や農民業余学校,職工業余学校あるいは識字班や部隊などで,文盲一掃の努力がなされた。解放軍の祁建華による〈速成識字法〉などが部隊内で効果を上げた。しかし,短期間の漢字学習では,一定期間後,再び文盲にもどる者が多かった。
識字運動は,人民の政治的自覚と経済的向上が必要であるが,単に教育の組織・内容・方法を,日常生活や具体的経験に結合させるだけではなく,系統的科学的方向へ発展させねばならなくなった。これが,解放後の質的変化である。このことは,当面,小学校の義務教育の普及こそ国民文化の質的向上に必須なことであること,ただ漢字を覚えることを目的とする運動の終息したことを意味していよう。
1982年国勢調査では12歳以上の非識字(文盲・半文盲)人口は2億3000万余で,その総人口比は23.5%(1964年には38.1%)であった。93年の〈中国教育改革・発展要綱〉では,2000年までに義務教育を普及させ,青・壮年層(15~45歳)の非識字者をなくすことを目標としている。
執筆者:萩野 脩二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報