メルバーン
めるばーん
William Lamb, 2nd Viscount Melbourne
(1779―1848)
イギリスの政治家。第2代メルバーン子爵、本名はウィリアム・ラム。1806年に下院議員となりホイッグ党(イギリス)に属す。1827年カニング政権のアイルランド担当相となったが、翌1828年ウェリントンがトーリー党内閣を組織したのちに辞任。同年、父の死によって第2代メルバーン子爵となった。1830年11月、ホイッグ党グレー内閣の内相に就任、内閣では保守派に属し、選挙法改正を要求する過激な民衆運動を抑えた。1834年には辞任したグレーの後継者に任じられ、同年末、国王ウィリアム4世と対立して更迭された。翌1835年の総選挙で下院の多数を得ると再度内閣を組織し、都市自治体法などを成立させた。1837年にビクトリア女王が即位して以後は、1841年の首相辞任まで女王の政治的助言者として重要な役割を担った。
[青木 康]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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メルバーン(子)
メルバーン[し]
Melbourne, William Lamb, 2nd Viscount of
[生]1779.3.15. ロンドン
[没]1848.11.24. ハットフィールド近郊ブロケット
イギリスの政治家。首相(在任 1834,1835~41)。初代メルバーン子爵の二男。イートン・カレッジ,ケンブリッジ大学を卒業。1804年弁護士,1806年ホイッグ党から下院議員。1805年に結婚,妻カロラインとの生活は,彼女と詩人ジョージ・ゴードン・バイロンとの恋愛事件などもあって,不幸であった。政界ではカニング派としてしだいに地歩を固め,1827~28年ジョージ・カニング,アーサー・W.ウェリントン両内閣のアイルランド大臣となり,父の死後の 1829年,2代子爵として上院に入った。1832年の選挙法改正のときは,チャールズ・グレー内閣の内務大臣で,不本意ながら法案通過を受け入れた(→選挙法改正運動)。1834年および 1835~41年の 2度首相を務め,1837年ビクトリア女王即位以後,側近の政治的助言者として信任を得た。1841年総選挙に敗れ辞任。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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メルバーン
英国の政治家。ケンブリッジ大学とグラスゴー大学で学び,1806年下院議員に選出され,トーリー党左派に属して1827年アイルランド担当相,子爵を継承。選挙法改正を支持してホイッグ党に転向,1830年グレー内閣の内相となる(−1834年)。1834年と1835年−1841年の2度にわたってホイッグ党内閣を組閣したが,1841年の総選挙に敗れて辞任。1837年ビクトリア女王の即位時の首相であり,女王から父親のように慕われ,メルバーンも若い女王に大きな影響を及ぼした。なお,妻のレディ・キャロライン・ラムはロンドンの社交界の寵児であったバイロン卿との情事で汚名を残した。
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メルバーン
William Lamb,2nd Viscount Melbourne
生没年:1779-1848
イギリスの政治家。1806年に下院議員となり,G.カニングの強い影響をうけてトーリー党内の左派に属した。1827年カニングの死後,選挙法改正を支持してホイッグとなり,グレー内閣(1830-34)の内相を経て,34年と35-41年の2回にわたり,ホイッグ党内閣を組織した。首相在任中,37年に18歳で即位したビクトリア女王の政治教育を担当し,彼女に大きな影響を与えた。
執筆者:村岡 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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メルバーン
William Lamb, 2nd Viscount Melbourne
1779~1848
イギリスの政治家。1806年ホイッグ党から下院議員となり,しだいにトーリ党に接近し,トーリ内閣でアイルランド相。29年父の死去により貴族院に移り,ホイッグ党に戻って,グレー(チャールズ)内閣の内相として選挙法改正を実現。34年グレーをついで首相(在任1834,35~41)となった。ヴィクトリア女王即位当時の首相であり,彼女から信頼され,彼女の統治の初期に大きな影響を及ぼした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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