翻訳|May Day
毎年5月1日、世界各地で労働者が団結と連帯とを示す集会やデモ行進などを行う国際労働日。「労働者の祭典」ともいわれる。起源は、アメリカ労働総同盟(AFL)の前身の合衆国カナダ職能労働組合連盟が1886年5月1日に決行した、8時間労働制を要求するゼネラル・ストライキで、シカゴを中心に約35万人の労働者が参加、18万人が8時間労働制を実現した。このストライキの直後の5月4日にヘイマーケット事件が起こった。1889年7月14日のフランス革命100周年記念日にパリで開かれた第二インターナショナル創立大会は、ヘイマーケット事件を記憶にとどめたアメリカ労働者の闘争を記念し、翌1890年5月1日を8時間労働制実現の国際的示威運動の日とするというフランス代表ラビーニュの提案を満場一致で採択した。当日、ヨーロッパ各国、アメリカ、オーストラリア、ラテンアメリカ諸国で第1回国際メーデーが挙行され、そのスローガンは「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」であった。翌年からは8時間労働制のほか戦争反対・平和擁護などの要求が掲げられ、今日に至っている。
日本では1898年(明治31)4月3日、労働組合期成会が計画して禁止された労働者大運動会や、1901年(明治34)の同じ日に東京・向島(むこうじま)で開催された日本労働者大懇親会がメーデーを模したものであった。1905年5月1日、社会主義者数十名が東京でメーデー茶話会と銘打って集会を開いたが、正式の第1回メーデーは1920年(大正9)5月2日の日曜日であった。この日、上野公園には15団体、約1万人の労働者が集合し、翌年から5月1日となり、回を重ねるごとに開催地、参加人員を増やしつつ、検束騒ぎを伴いながら続けられた。しかし、1931年(昭和6)の第12回を頂点に、1933年の第14回から左右分裂メーデー、1934年の第15回は4月3日に日の丸を掲げた日本労働祭が挙行されるなど、日本の軍国主義化とともに退潮し、1935年の第16回を最後に翌年から禁止された。
第二次世界大戦後は1946年(昭和21)の第17回から復活、この年の中央メーデーは皇居前広場に50万人(主催者発表)を結集するなど、戦前をしのぐ規模で挙行されるようになった。1951年の第22回から皇居前広場の使用が禁止されて占領軍・政府との対立が激しくなり、翌1952年のメーデーは明治神宮外苑(がいえん)で開かれたが、皇居前広場に行進したデモ隊と警官隊とが衝突し、血のメーデー事件が発生した。その後は、そのときどきの労働運動の課題をスローガンに掲げながら平穏に続けられている。
1990年代以降は、労働戦線の再編に伴い、連合(日本労働組合総連合会)系、全労連(全国労働組合総連合)系、全労協(全国労働組合連絡協議会)系による分裂開催が定着し、参加者も減少傾向にある。2000年代以降、3団体のうち最大規模の連合系の集会は大型連休(ゴールデン・ウィーク)の初日に開催されることが通例化し、NGO・NPOとの共同開催が試みられている。また、従来の労働組合とは一線を画した非正規労働者組織による「生存のためのメーデー」が行われるなど多様化が進んでいる。
[松尾 洋・手島繁一]
『糸屋寿雄著『メーデーの話』(1975・労働旬報社)』▽『法政大学大原社会問題研究所編『メーデーの歴史』(1979・労働旬報社)』▽『法政大学大原社会問題研究所編著『日本労働年鑑』各年版(旬報社)』
5月1日,労働者階級の団結と力を示威する国際的統一行動日。毎年この日には世界各国の多くの都市で,いっせいに休業した労働者による大規模な集会やデモ行進が行われる。
その起源は1880年代のアメリカにおける8時間労働制を要求する運動にある。84年に〈労働騎士団〉をはじめとする労働組合が,5月1日を期して8時間労働制要求のゼネストを行うことを決め,第1回の行動として86年5月1日に〈8時間の労働,8時間の休息,8時間の教育〉をスローガンとしてストライキ,デモ行進を行った。この行動は大きな成果をあげたが,運動の中心地シカゴでは5月4日,ヘイマーケット広場に集まったストライキ参加者と武装警官が衝突し,多数の死傷者を出した(ヘイマーケット事件)。89年パリで開かれた第二インターナショナルの創立大会は,この闘争を記念して5月1日を〈万国労働者の団結の日〉と定め,翌90年に第1回のメーデーが各国で行われた。
日本では,1905年に平民社で開催された〈メーデー茶話会〉がメーデー集会の最初のものであるが,20年5月2日(日曜日),上野公園で労働組合主催のメーデーがはじめて公然と行われた。これを第1回とし,35年まで16回開催されたが(翌年から政府により禁止),いずれも官憲の弾圧と指導者の検束がつきものであった。第2次大戦後は46年から復活し,戦前とは比較にならないほど大規模になった。52年のメーデー事件など厳しい弾圧もあったが,今日では行事はいちじるしく大衆化し,労働者の〈祭典〉とみなされるようになっている。ちなみに参加者数は1920年が1万人余,97年が全国で約200万人である。なおヨーロッパで古くからある五月祭がメーデーの原点ともいわれる。
執筆者:中林 賢二郎
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(高野朋美 フリーライター / 2009年)
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労働者の団結を固めるため毎年5月1日に行われる集会とデモ行進。1886年にアメリカで始まったが,日本では,1905年(明治38)に平民社がメーデー茶話会を開いたのが最初の催し。20年(大正9)5月2日,東京上野公園に約1万人を集めて第1回メーデーが行われ,以後毎年開催された。36年(昭和11)3月に禁止されて一時中断したが,46年に復活した。
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…1900年の第5回大会以降,国際社会主義大会と称するようになったが,第三インターナショナル(コミンテルン)の動きが胎動し始めてから,それと対比的に第二インターナショナルと呼ばれるようになり,それが一般化した。このパリ大会では,なかんずく,8時間労働日要求のために,翌1890年5月1日を期して国際的に示威運動を行うことが決められた(メーデーの起源)。第2回大会は91年,ブリュッセルで開かれ,国際労働者大会の一本化が実現し,チューリヒ(1893),ロンドン(1896)と大会を重ねていった。…
…また,森から切り出したモミや松の大木の枝をはらい,町や村の広場に立て,その先端に掲げた緑の葉に結びつけた紐を手に持って,みんなで柱のまわりを踊り,豊作・豊饒を祈る地方もあった。今日のメーデーの原点である。教会はキリスト教を民衆の間に広めるために,異教時代のこうした信仰・祭祀を禁止することはできなかった。…
…中華人民共和国では,新年,春節(旧暦元日),国際勤労婦人日(国際婦人デー。3月8日),労働節(メーデー。5月1日),青年節(五・四紀念日),児童節(6月1日),建軍節(人民解放軍創立紀念日。…
…軍隊を集合,行進させて司令官などが閲兵するのが原義で,社会主義諸国で行っているリーダーが壇上に並ぶ〈赤の広場〉や〈天安門〉などにおけるメーデーのパレードがその直系である。転じて,娯楽的形式をとった主として野外で行われる,成員のアイデンティティ,共同感情(国,都市,集団)を促進,高揚させるため行われる催し,ねり歩きをともなう祭り,スペクタクル一般を指す。…
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