日本大百科全書(ニッポニカ) 「全国労働組合連絡協議会」の意味・わかりやすい解説
全国労働組合連絡協議会(1947年結成)
ぜんこくろうどうくみあいれんらくきょうぎかい
略称全労連。1947年(昭和22)3月10日、全日本産業別労働組合会議(産別会議)、日本労働組合総同盟(総同盟)の参加の下に450万組合員を結集して結成された、緩やかながら日本最初の労働戦線統一の機関。二・一スト禁止とともに解散した全国労働組合共同闘争委員会(全闘)をなんらかの組織として残そうと、全国労働組合会議の結成が企てられたが総同盟の不参加でつぶれた。当時、世界労働組合連盟(世界労連、WFTU)日本視察団の来日が迫り、歓迎準備のために総同盟を加えた全国労働組合懇談会が開かれ、全労連が結成されることになった。全労連は、決議は満場一致制として拒否権を認め、参加組合の自主権を侵すがごとき命令系統はつくらないなどを原則とした。しかし、産別会議、中立組合で一致した決定が総同盟の拒否権行使でつぶされるため、同年末組織強化のための決議の多数決制が提案され、改組委員会で検討中の翌48年6月総同盟は脱退した。
1949年1月全労連は世界労連への加入を承認されたが、すでに世界労連は分裂の過程にあり、また日本では民主化同盟(民同)の運動が拡大していて、全労連からの脱退が続き、同年末にはその勢力は産別会議と一部中立組合の組合員200万人になった。50年4月産別会議は全労連へ発展的に解消し、これを強化して世界労連への加盟組織にすることを決定し、全労連もその受け入れ準備に着手したが、6月に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争に対し、アメリカ軍の侵略戦争として反戦運動を展開したため、8月30日反占領軍行為を理由に団体等規正令による解散団体に指定され、幹部11名も公職追放になったので、全労連は解散、産別会議は存続した。
[松尾 洋]
『産別会議記念会編『復刻 産別会議・全労連機関紙』(1973・労働旬報社)』▽『大河内一男・松尾洋著『日本労働組合物語 戦後Ⅰ』(1969・筑摩書房)』
全国労働組合連絡協議会(1989年結成)
ぜんこくろうどうくみあいれんらくきょうぎかい
略称全労協。1980年代末の労働戦線再編統一が進む過程で、1989年(平成1)12月、日本労働組合総連合会(連合)にも全国労働組合総連合(全労連)にも加盟しない労働組合が結成した共闘組織。単位産業別組合(単産)に限らず地方組織や単組、争議団などの参加も認めた。加盟約50組合、組合員数約12万人(2011年3月)。
全労協は、日本労働組合総評議会(総評)内でも連合結成に反対し、「たたかう総評」の伝統を継承しようという国鉄労働組合(国労)など左派組合が、総評三顧問(太田薫(かおる)・岩井章(あきら)・市川誠(まこと))が中心になってつくった労働運動研究センター(労研センター)の呼びかけにこたえ、「連合に反対し、まともな労働組合を目ざす結集体」として結成された。おもな組合は東京都労働組合連合会(都労連)、国労、京都地方労働組合総評議会(京都総評)、全国一般労働組合全国協議会(全国一般全国協)などで、毎年の春闘には積極的に取り組み、また東京その他の都市でメーデー集会を毎年独自に組織している。とくに国鉄闘争(国鉄分割・民営化の過程で解雇された1047人の地元復職を要求)支援は全労協結成以来の重要課題であった。ほかにも管理職・外国人労働者・女性労働者の争議支援や組織化にも熱心に取り組んでいる。
[川崎忠文・早川征一郎]