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モルトケ Moltke, Helmuth Johannes Ludwig von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

モルトケ
Moltke, Helmuth Johannes Ludwig von

[生]1848.5.25. メクレンブルク,ゲルスドルフ
[没]1916.6.18. ベルリン
ドイツ,プロシアの軍人。叔父のモルトケ (大モルトケ) に対して,小モルトケと呼ばれる。 1870年プロシア軍に入り,82年大モルトケの副官,1903年主計総監。 06年 A.シュリーフェンの跡を継いでドイツ軍参謀総長となり第1次世界大戦開戦時のドイツ軍の戦略を指導。前任者シュリーフェンの立案になる,いわゆるシュリーフェン・プランを修正した彼の作戦は,フランスに対する敏速な勝利を得ることができず,14年マルヌ会戦に敗れて辞任した。皇帝ウィルヘルム2世の信任厚く,そのために過大な責任を負わされた悲劇の軍人と評されている。

モルトケ
Moltke, Helmuth Karl Bernhard, Graf von

[生]1800.10.26. メクレンブルク,パルヒム
[没]1891.4.24. ベルリン
ドイツ,プロシアの軍人。近代ドイツ陸軍の父。第1次世界大戦当時のドイツ軍参謀総長モルトケ (小モルトケ) に対し,大モルトケと呼ばれる。コペンハーゲンの陸軍幼年学校で教育を受けたのち,デンマーク軍に入隊したが,1822年プロシア軍に入隊。 35年中近東を視察旅行し,そのままトルコ軍顧問となってその再編,近代化に尽した。 39年帰国,再びプロシア軍に入り,55年フリードリヒ・ウィルヘルム (のちのフリードリヒ3世) の副官,58年参謀総長となり軍制改革を推進し,デンマーク戦争 (1864) ,プロシア=オーストリア戦争 (66) ,普仏戦争 (70~71) を指導,そのすぐれた戦略・戦術的才能を遺憾なく発揮した。彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令) は,その後近代化されたあらゆる軍隊が範とするにいたった。 88年退役。謙遜かつ寡黙で,「偉大な沈黙者」と呼ばれ,軍事問題でしばしばビスマルクと衝突はしたが,常に政治を優先させた。 19世紀における最もすぐれた軍事指揮者の一人とされている。文筆家としても知られ,死後『論文集および回想録』 Gesammelte Schriften und Denkwürdigkeiten (8巻,91~93) ,『書簡集』 Moltkes Briefe (2巻,1922) が刊行された。

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デジタル大辞泉の解説

モルトケ(Moltke)

(Helmuth Karl Bernhard von ~)[1800~1891]プロイセンの軍人。クラウゼビッツの軍事学を研究し、参謀総長として普墺(ふおう)戦争普仏戦争などに勝利。ドイツ帝国の成立に貢献した。大モルトケ。
(Helmuth Johann Ludwig von ~)[1848~1916]ドイツ帝国の軍人。の甥。参謀総長として第一次大戦の緒戦を指揮。シュリーフェンプランを実行するが失敗し辞任した。小モルトケ。

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百科事典マイペディアの解説

モルトケ

プロイセンの軍人。1858年―1888年参謀総長。近代ドイツ陸軍の建設者で大モルトケと称される。対デンマーク戦争,普墺戦争普仏戦争に戦術家として天才的手腕をふるって勝利をおさめ,ドイツ統一に大きく貢献。
→関連項目ウィルヘルム[1世]メッケル

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世界大百科事典 第2版の解説

モルトケ【Helmut Karl Bernhard Graf von Moltke】

1800‐91
ドイツの軍人。大モルトケとよばれる。1857年以降プロイセン陸軍参謀総長として普墺・普仏戦争を勝利に導く。彼はクラウゼウィツ戦争論の使徒であったが,加えて鉄道や電信・電話の軍事的利用による近代的大衆軍隊の用兵術を確立した。政治的野心をもたず,ビスマルクの外交政策に沿って活動したが,軍事問題への政治の介入には反対した。帝国成立後には対露仏二正面戦争論を構想し,後年のシュリーフェン・プランに影響を与えた。

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大辞林 第三版の解説

モルトケ【Helmuth von Moltke】

1800~1891) プロイセンの軍人。参謀総長として軍制・戦略の近代化を図り、普墺ふおう戦争・普仏戦争の勝利に貢献した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

モルトケ
もるとけ

(1)Helmuth Karl Ferdinand, Graf von Moltke(1800―1891) ドイツの将軍。大モルトケとよばれる。1822年デンマーク陸軍からプロイセン陸軍に移る。理論家として頭角を現し、1858年陸軍参謀総長に就任。産業革命に伴う鉄道、通信などの技術革新に注目。それらを取り入れた近代的な陸軍の編成とその戦略を考案し、対デンマーク戦争(1864)、プロイセン・オーストリア戦争(1866)、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)で赫々(かくかく)たる戦果をあげた。その功で1871年陸軍元帥。彼の声望は参謀本部をドイツ陸軍の中枢たらしめた。(2)Helmuth von Moltke(1848―1916) 小モルトケ。(1)の甥(おい)。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)当時、ドイツ陸軍参謀総長。二正面作戦に失敗し、1914年9月、病気のため辞任した。[木谷 勤]

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世界大百科事典内のモルトケの言及

【シュリーフェン・プラン】より

…ドイツ帝国における対露仏二正面戦争を想定した作戦構想。このような作戦はすでに大モルトケにおいても見られたが,ドイツ陸軍参謀総長A.vonシュリーフェン(在任1891‐1905)は,西方で攻勢,東方で防御を基本とし,しかもベルギーなどを経由する右翼を重視し,フランス軍を包囲殲滅(せんめつ)し,しかるのちに東方へと転じる構想を定式化した。彼の後任小モルトケによって右翼重視論は緩和されたが,彼の修正案が第1次世界大戦におけるドイツの戦略として用いられた。…

【戦略・戦術】より


【概史】
 古代からの軍事戦略にも見るべきものが多いが,近代的な戦略の研究が行われたのは18世紀以降である。戦略論の創始者として著名な人物に,19世紀初期から末期にかけて,ドイツのK.P.G.クラウゼウィツ,スイス人のA.H.ジョミニ,アメリカのA.T.マハン,ドイツのH.G.vonモルトケ,A.vonシュリーフェンらがあげられる。これらの人々は,戦争が武力のみで行われるものでないことは基本理念として当然持っていたが,当時の情勢から,武力戦の戦争における地位を重視して,軍事面を主として論述している。…

【第1次世界大戦】より

…そこで1891年から1906年まで参謀総長の職にあったA.G.vonシュリーフェンは,開戦の場合,まずフランス軍に向かって迅速に行動して主力軍を壊滅させたあと直ちにロシア軍に当たり,しかもほぼ6週間の短期間に決戦を完了して一挙に勝敗を決するという作戦構想を立てていた。もっとも,シュリーフェンは13年に世を去ったので,現実の第1次大戦の軍事指導に当たった最初の参謀総長はモルトケHelmuth von Moltke(1848‐1916)であった。彼は普墺戦争や普仏戦争で名をあげた大モルトケの甥に当たる。…

【幕僚】より

…この書にある幕僚の機能は現代のそれと酷似している。この影響を受けつつドイツ伝統の幕僚組織を完成させたのはH.モルトケ(1800‐91)であった。彼はG.J.D.vonシャルンホルストの業績を受け継ぎ,鉄道の発展を予見した組織を整備し,有能な幕僚を養成して有名なドイツ参謀本部を創設した。…

【普墺戦争】より

… この戦争はプロイセン陸軍史においても画期的意義をもった。モルトケを中心とする参謀本部の権威は決定的に高まり,後年国王と参謀総長との直結関係(直奏権)の確立の伏線となった。またモルトケはナポレオン戦争の軍事戦略の理論的定式化を行ったクラウゼウィツの《戦争論》を,産業革命の成果と結合させた。…

【普仏戦争】より

…長期兵役制は国内治安のためには有用な軍隊を生み出したが,短期兵役制は膨大な予備兵力を国民のなかに潜在させ,対外戦争の際に大量の戦時兵力量を確保しえた。この戦争以後,ヨーロッパ兵学界においては,短期兵役の大衆軍隊が注目され,モルトケ兵学の隆盛を迎える。最後に,この戦争はフランス側にドイツに対する深い怨恨を残し,後年フランスとロシアが同盟し,ドイツ挟撃体制の形成へと連動していく。…

※「モルトケ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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