ヨーロッパにおける三つの超国家的な地域統合機構であるヨーロッパ経済共同体(EEC),ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC),およびユーラトム(ヨーロッパ原子力共同体EURATOM),の総称。ECと略称する。1993年11月,マーストリヒト条約発効により,ヨーロッパ連合(EU)が発足し,ECはその中核となった。
ヨーロッパ統合を理想とする運動の始まりは,第1次対戦後にさかのぼる。この運動の中心人物はオーストリアのクーデンホフ・カレルギーRichard Nikolaus Coudendove-Kalergi(1894-1972)で,彼は1923年の著作《パンオイローパ》において,第1次大戦の結果,政治的・経済的主導権をアメリカに奪われかつソ連の脅威にさらされているヨーロッパが経済を再建し再び世界の主導権を握るには,各国がナショナリズムを捨てて統一ヨーロッパをつくる必要があることを説いた。この運動は,当時のフランス外相A.ブリアンやドイツ外相G.シュトレーゼマンなどの共鳴を得て,具体的な統一案が提案されるまでに高揚したが,1930年代の大不況の中で各国間の対立が深まり,統一どころかヨーロッパを分断するブロック経済への道をたどってしまった。第2次大戦が終わるとこの運動はただちに息を吹き返し,マーシャル・プランの受け入れ体制としてつくられたヨーロッパ経済協力機構Organization for European Economic Co-operation(OEEC)を舞台として,各国間で統合のための交渉が行われた。この動きのねらいは,戦争による経済的な打撃からの回復とその後の急速な経済成長,フランスとドイツの間の伝統的な対立を解消してヨーロッパの平和を確保すること,アメリカとソ連に対して発言権を強めることであり,そのために,政治的な統合は将来の目標として,まず経済的な統合をめざそうというものであった。
ヨーロッパ経済統合の最初の成果は,1948年に成立したベルギー,オランダ,ルクセンブルク3国によるベネルクス関税同盟Benelux Customs Unionである。ついで51年のパリ条約によって,フランス,西ドイツ,イタリア,ベネルクス三国の計6ヵ国により,石炭・鉄鋼についての共同市場と共同管理の機構としてECSCが設立された(1952発効)。このECSCの成功が経済統合にはずみをつけ,57年に同じ6ヵ国の間で結ばれたローマ条約によって,石炭・鉄鋼だけでなくすべての分野での経済統合をめざすEECと,原子力エネルギーの共同開発と共同管理の機構であるユーラトムが58年に設立された。これらの共同体は,単なる国際協力機関ではなく,参加各国の政策の決定・実施に強制力をもつ超国家的機関である。EECが発足したときすでに別個の協定によって,諮門機関である総会と経済社会評議会,紛争処理機関である司法裁判所は三つの共同体に共通するものとされていた。
さらに1965年には,融合条約(ヨーロッパ共同体の一つの理事会および一つの委員会を設立する条約,ブリュッセル条約)によって,それまで三つの共同体で別個になっていた最高意思決定機関である理事会と執行機関である委員会が,それぞれ単一のヨーロッパ共同体(EC)閣僚理事会Council of Ministers of the European Communitiesとヨーロッパ共同体(EC)委員会Commission of the European Communitiesに統一されることになった。これによって,三つの共同体は機構的に完全に統一されたことになり,これ以後,ヨーロッパ共同体ECという言葉が使われるようになった。EC加盟国は,原加盟国の6ヵ国のほかに,73年にイギリス,デンマーク,アイルランドが,81年にギリシアが加盟し,現在10ヵ国である。なお,ポルトガルとスペインが86年に加盟することになった。イギリスの加盟については,1960年代を通じてフランスと他の5ヵ国の対立があった。
執筆者:川鍋 襄
ECが第2次大戦後のヨーロッパで誕生をみたことは,注目すべき歴史的意義を現代国際政治に与えることとなった。その意義は,二つに要約できる。第1は,ECが,〈不戦共同体non-war community〉という〈平和の思想〉を構成国どうしの国際関係にうえつけるようになったことである。この〈平和の思想〉は,とくにヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の実現の基礎となったものであるが,第1次・第2次両大戦の敵国どうしとなったフランス,ドイツの国境にまたがる基幹産業である石炭および鉄鋼について,これを新たに共同体6ヵ国がプールし共同管理することによって,仏独間の戦争事由の一つを恒久的に除去しようとした。この思想は,ECのその後の発展に重要な影響を与えつづけている。すなわち,ECの構成国は,互いに平和的手段によって外交,経済,社会の利益を調整することを行動の規範とし,軍事的手段による国際紛争の決着の方式をとらないことをめざしている。それは,共同体域内の国際関係に関する限り,〈パワー・ポリティクス〉に特有な〈砲艦外交〉方式の放棄にほかならない。
第2の意義は,ECが国際政治の〈国家体系nation state system〉に挑戦し,この体系を変革していこうとする〈国際統合intenational integration〉のダイナミックスをもっていることである。〈国際統合〉のダイナミックスとは,構成国が国家の心情的属性(ナショナリズムとか国家に対する忠誠心)や行動的属性(国家の対外的政策の決定権とか政治的自立性)を,漸進的に新たな国際共同体,すなわち,超国家共同体に移譲していく政治過程を意味する。それは,〈超国家主義supranationalism〉のダイナミックスといってもよい。事実,EECを発足させたローマ条約は,まず加盟諸国間の商品・財の自由移動,数量制を含めあらゆる種類の貿易障壁を除去し,その結果,人,サービス,資本の自由移動にともなう関税同盟customs unionを樹立することを直接の目的としており,さらに農業,運輸,立法,社会政策,そして対外通商政策のさまざまな領域において加盟諸国間の共通政策化を企図している。共通政策を組織化し制度化するということは,ふだんに国家の主権の機能の譲歩をせまるものでもある。そこに,ナショナル・インタレスト(国益)と超国家的利益とのせめぎあいが生ずる。ECの歴史は,まさにナショナル・インタレストに代表される伝統型の〈政府間主義intergovernmentalism〉と,超国家的利益に象徴される〈国際統合〉のダイナミックスとの葛藤の歴史でありつづけている。
〈国際統合〉の前進という面でみれば,ECが,1962年1月に共通農業政策(CAP)の諸原則,すなわち,農産品に関する共通価格化などの諸原則に合意をみたこと,68年7月に加盟国どうしのすべての関税が取り除かれて域外共通関税(CET)の設立をみたこと,また74年12月のパリにおけるECサミット(首脳会議)で〈ダビニヨン・リポート〉(1970)が提唱した加盟諸国間の〈政治的協力〉を組織化する試みを打ち出したこと,そして79年6月に,ECに加盟各国の国民の意思を可能な限り反映させる目的でヨーロッパ議会の直接普通選挙制を実施したことなどの諸事例があげられる。しかし同時に,ECは,〈国際統合〉の挫折および後退の体験も重ねてきている。1964年10月にECの共通農業市場が達成されたものの,その財源の確保と管理をめぐって,65年6月から66年1月まで,フランスがEC委員会の提案に反対して共同体をボイコットするという〈マラソン政治危機〉が起こったこと,そしてこの危機によってEC委員会の行政的権限が弱められ,共同体の政策決定構造のシステムのなかでは,EC閣僚理事会の補助機関化するという可能性がでてきたこと,また70年10月に,80年を完成年とする共通通貨を軸とする通貨経済連合構想(ウェルナー構想)が打ち出されたが,この構想は,結局,加盟諸国の経済通商政策の不一致から通貨統合の実現にいたらなかったこと,さらに1975年12月に,加盟国の議会によって選任される代表者から構成されるヨーロッパ議会の権限の強化や経済通貨連合を含めるヨーロッパ連合構想(ティンデマンス報告)が提唱され,81年11月には西ドイツ,イタリアの共同提唱で〈ヨーロッパ条約草案〉が打ち出されたもののいずれの構想も前進をみなかったことなどの諸事例に〈国際統合〉の挫折がみられた。
なぜ,ECにおいて〈国際統合〉の前進と後退,発展と挫折といった二律背反的なダイナミックスが顕著なのかというと,その一つの理由は,共同体における政策決定構造のシステムの特殊性にある。ECでは,発足の当初から政策決定構造を〈二重構造〉のシステムとしてきた。それは,〈両頭型tandem fomula〉システムと呼んでもよい。このシステムは,ローマ条約の145条,152条,155条によって明文化されている。すなわち,このシステムではEC委員会が共同体のための政策提案を行い,他方,EC閣僚理事会が加盟諸国間のナショナル・インタレストの調整をはかりつつ,これを審議し決定する。この〈二重構造〉のシステムに,1965年の融合条約(ブリュッセル条約)を契機に,加盟諸国の大使級官僚から構成される常駐者代表委員会(CORPER)が正式に参入され,EC委員会は,共同体のための共通政策を提案する前にこの常駐者代表委員会と政策のつめを行い,またEC閣僚理事会は,EC委員会の政策提案を受けて後ふたたび常駐者代表委員会と加盟諸国政府の見解の調整を目的としつつ密接に協議を行うこととなった。
〈二重構造〉のシステムは,比喩的にいえば,共通政策の提案(EC委員会)と決定(EC閣僚理事会)との役割分担を予定し,理論のうえでは,投手(EC委員会)と捕手(EC閣僚理事会)との補完作用ともいうべきものである(P.テーラー)。ところが,予定された補完作用は,同時に前述のように,ナショナル・インタレストと超国家的利益との厳しい競合作用をまねいている。このような厳しい競合作用が集中的にあらわれたのが先の7ヵ月の〈マラソン政治危機〉であった。この危機を収拾せしめた〈ルクセンブルクの合意Luxembourg compromise〉は,EC委員会が将来,ECの政府になる可能性を閉ざすものであった。しかも〈ルクセンブルクの合意〉では,加盟諸国は,重要な共同体の利益に関する政策を討議し決定する場合,〈全会一致unanimity〉の手続きをとることとした。その際重要な利益は,当然,構成国の政策決定者たちの判断によって左右されることとなる。すなわち,構成国にとって〈死活的な利益vital interest〉とみなされる政策の争点については,EC閣僚理事会で〈拒否権veto〉を行使することが可能となる。これによって,EC閣僚理事会で従来制度化されてきた〈多数決〉の投票手続の運用が状況によって著しく困難となった。
〈二重構造〉のシステムの均衡点がEC閣僚理事会のほうに傾いてくるなかで,1970年代は,ECにおける〈首脳外交〉(サミット外交)の活性化をみることとなった。加盟各国の元首あるいは政府首脳による〈ヨーロッパ理事会European Council〉(年3回開催)が,この〈首脳外交〉を1975年以降制度化したが,それは,ローマ条約では予定されていない政治の慣行である。〈二重構造〉のシステムが,EC閣僚理事会の方向へ,すなわち,〈政府間主義〉の方向へその比重をシフトさせていくもう一つの理由は,ECの国際関係で依然としてナショナリズムの力の強いことに求められる。ナショナリズムの力の強さは,とくに共同体の諸国が対外的な危機に直面したときにあらわれる。その顕著な事例をあげれば,1973年10月の第4次中東戦争を引金に勃発した石油危機の事例である。アラブ諸国は,オランダに対する原油禁輸の措置を手始めにEC諸国を含め他の国々に原油供給の実質的削減を行い,しかも石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を一挙に高騰せしめた。EC構成国の多くは中東のアラブ諸国から原油を輸入していた。その依存度は共同体全体の総エネルギー需要のおよそ63%を占めるほどの高さであった。この緊急事態に対して,EC委員会は,〈共通エネルギー政策〉を発動させようと試みたが,共同体各国のナショナリズムの壁は厚く,〈共通エネルギー政策〉への〈国際統合〉の進展は明白な失敗に帰した。
次に,ECの主要諸機関の構成はどのようになっているのか。まず,EC閣僚理事会は,加盟各国政府の派遣する代表者(1名)から構成される。その代表者は各国の閣僚である。そして,EC閣僚理事会では議長が選任されるが,加盟各国のアルファベット順で選出され,その任期は6ヵ月である。1984年現在,ヨーロッパ共同体の加盟国は10ヵ国であるので閣僚理事会の構成員数は10名であるが,実際の構成員数は,討議の争点が増大する傾向にあるため,それに応じて増えている。EC閣僚理事会の重要な機能は,いうまでもなく,EC委員会の政策提案を受けてこれを決定することにあるが,より動態的にいえば,その機能とは,共同体構成国のナショナル・インタレストを表明する〈フォーラム〉を提供することであり,同時に,構成国のナショナル・インタレストの衝突の調整をはかることである。EC閣僚理事会では,その調整をはかる政策決定の方式として,〈加重投票weighted voting〉による特定多数決制が導入されているが,前途の〈ルクセンブルクの合意〉の後,重要な政策の争点に関しては,〈拒否権〉を前提とした〈全会一致制〉が認められることとなった。
第2に,EC委員会は,各加盟国政府によって任命される14名の委員から構成される。英仏独伊の4大国はそれぞれ2名の委員を任命し,他の6ヵ国はそれぞれ1名の委員を選出する。初代委員長(当時はEEC委員長)は,西ドイツの任命したハルシュタインWalter Hallsteinであった。EC委員会の委員は,このように加盟国政府が任命するが,EC委員会自体は,EC閣僚理事会と異なって伝統型の政府間国際機構ではない。それは,ナショナル・インタレストを超えた次元で行動する脱国家型の非政府組織(NGO)である。加盟国の主権を移譲した結果として成立する非政府組織ではないので,EC委員会は,正確には〈超国家supranational〉ではなく,〈脱国家transnational〉の性格にとどまっている(トランスナショナリズム)。EC委員会は,〈国際統合〉推進のための共通政策の提案,また共同体加盟国政府の見解,そして条約の履行および尊重に関する一般的監督の主として三つの機能を果たしている。そのために,EC委員会は,農業,経済金融,地域政策,対外関係などそれぞれの政策領域に〈総局Directions Générales〉を配置し,その各総局の責任者に委員会の各委員が充てられている。EC委員会の最も重要な機能は,〈脱国家〉としての地位を〈超国家〉のそれに引き上げることであるが,その努力は,ド・ゴール大統領のハルシュタイン委員長への勝利(〈ルクセンブルクの合意〉)にみられるように,成功を収めてきていない。
第3の主要機関は,ヨーロッパ議会European Parliamentである。ヨーロッパ議会は,加盟各国の議会によって選任される代表者から構成されるが,拡大EC発足後,旧6ヵ国時代の142名から198名に増加した。さらに,その数は,1976年7月のECサミットにおいてヨーロッパ議会の直接普通選挙制の実施が決定されるに及んで新たに410名に増員された。ヨーロッパ議会は,加盟諸国の議会とその性格を大きく異ならしめている。なぜなら,ヨーロッパ議会は,共同体の政策決定システムのなかで立法権も立法拒否権ももっていないからである。ヨーロッパ議会はEC委員会の委員の任命に関して介入することを認められておらず,またEC閣僚理事会は,ヨーロッパ議会に対して政策決定上の責任を負うことはない。その意味でも,議会の直接普通選挙制は加盟各国の国民と直接意思の疎通のパイプをもつことによって,議会の機能を高める画期的な構想であった。選挙は79年6月に実施された。
第4は,ヨーロッパ共同体(EC)裁判所European Court of Justiceであるが,裁判官は各加盟国から1名ずつ選出され,また検察官は英仏独伊から1名ずつ任命される。裁判官は,いったん任命されると,加盟各国のナショナル・インタレストからまったく独立して法的任務にあたらなければならない。共同体裁判所の機能は共同体の政策決定後の法的管理機能である。共同体裁判所は,共同体の諸条約がその解釈と運用の両面において構成国および共同体諸機関により遵守されるように法的に管理しなければならない。(ローマ条約154条)。その際,注目されることは,条約および法規の違背について訴えを起こす主体が加盟国政府に限定されず,脱国家(トランスナショナル)主体や,サブナショナル主体,そして諸個人にまで広げられていることである。すなわち裁判所は,共同体の政策決定によって被害を受けた企業や加盟国市民の控訴に対しても,またEC委員会や加盟国政府による控訴に対しても判決を下すことができる。この特異性は,ECの国際関係が,ナショナリズムの力の強さを依然として保ちつつも,他方で,さまざまな脱国家主体や非政府組織の参加によって多次元化してきた事実を反映するものにほかならない。実際,ブリュッセルにはサブナショナル主体が国境を越えて連合化する組織が250ほども常駐し,新たな国際圧力集団を形成している。その最大のものは,1958年に結成されたEC9ヶ国の農民団体の連合組織,COPA(ヨーロッパ経済共同体農業団体委員会Comité des Organisations Professionelles Agricoles de la Communauté Économique Européenne)である。
執筆者:鴨 武彦
ECは,1968年までに関税,数量制限などの対域内貿易制限を撤廃して域内貿易はほぼ完全に自由化され,同時に域外諸国に対する関税率が統一され,関税同盟として完成した。これは,商品の取引がEC内では一国内と同様に行われるようになったことを意味している。また,労働,資本などの生産要素の域内での移動に対する各国の制限は70年までに撤廃され,共同市場として完成した。これは,雇用,投資が一国内と同様に行われるようになったことを意味する。1960年代には,このほか関税以外の付域外通商政策の統一も進み,域外諸国との通商交渉は各国独自ではなくECとして行われるようになり,農業,エネルギー,運輸について共通政策が実施され,間接税が付加価値税に統一されるなど,共同市場より一段高い段階の経済統合である経済同盟に向かって一歩踏み込んでおり,70年までには,ローマ条約の目標はほとんど達成されたといわれている。71年には経済統合をさらに進めるために,EC内の地域間経済的格差を解消するための共同政策の実施,金融・財政政策の共同体レベルでの決定,通貨統一のための一段階として各国の金・外貨準備を統一して各国通貨間の交換比率を固定するなどの目標を1970年代に実現することを理事会で決定した。しかし,各国通貨の交換比率の変動幅を一定の範囲にとどめるために,79年にヨーロッパ通貨制度(EMS)がつくられて多少の前進をみせたほかは,70年代の国際通貨制度の混乱と石油危機による各国経済の混乱のために,この目標は実現されなかった。そのために,ECの経済統合は70年の段階で足踏みしている。
ECにおける経済統合の進展は,短期的には,域内貿易の自由化による競争の強化と労働・資本移動の自由化によって経済の効率を高め,長期的には,市場の拡大による大規模生産の利益,投資の活発化,技術進歩の促進によって経済成長率を高めた。この結果,EC全体を一つの国と考えた場合に,1960年代にはすでに世界最大の貿易国となり,80年には国民所得の規模もアメリカを上回り世界一となった。この意味でECの経済統合は成功であったと評価できる。しかし,いくつかの問題点も残されている。一つは農業政策に関して,共通農業政策によって域外よりも高い価格で域内農産物を買わねばならない輸入国と輸出国の対立である。もう一つは通貨問題であり,共通政策の完全実施のためには通貨統一が必要であるが,各国間の国際競争力の違いのためにEMSでさえうまく機能してない。これらの問題の解決と,やはり各国間の意見の違いの大きい政治的統合の進展がECの今後の課題である。
執筆者:川鍋 襄
ヨーロッパ共同体を構成する,三つの共同体の組織と機能とにかかわる超国家的な規範をヨーロッパ共同体法European Community Law(EC法)と呼ぶ。その基礎をなす第1次の法源は,それぞれの共同体を設立するもとになったECSCのパリ条約(1952発効),EECおよびユーラトムのローマ条約(1958発効)の三つの条約である。ECの内閣・行政機構にあたるEC閣僚理事会およびEC委員会の定立する規則regulations,命令directives,決定decisionsはいずれも第2次の派生的法源となる。ECの構成諸国における法の一般原則はECの不文の法源を成すといいうるが,道義的拘束力しかもたないEC裁判所の判決をも法源に加えうるかについては異論がある。またヨーロッパ議会はEC閣僚理事会や委員会の行為を統制,監督するのみで立法権をもたず,したがってECには議会制定法というものはない。国家法との相違点である。
EC法は超国家的な法律であるが,構成国の国民(私人)の間のみの関係にも直接にその効力を及ぼす直接適用性がある。結果として,構成国の法秩序の中にその国家固有の法律とEC法とが同時に併存し,場合によっては相互に競合,抵触を生ずることがある。この問題はEC法に優位性を認めることで解決されているが,その根拠はEC存立の目標である統合と統一への理念におかれている。さらに,実効的なEC法の実現と執行を図るため強制的,義務的,優先的管轄権をもつEC裁判所が設けられており,EC法の解釈,適用に関しても統一性を保ちうるしくみになっている。特許制度についても,ヨーロッパ共同体特許がある。ヨーロッパ全域にわたり直接適用性をもつ共通の法律,これはまさにかつてのius commune(普通法)の復活とも考えることができるであろう。
執筆者:秌場 準一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1967年7月,ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の最高機関,ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の委員会の3者が統合,EC委員会を結成し,同時に理事会もEC理事会に一本化されたことにより誕生。当初,フランス,西ドイツ,イタリア,オランダ,ベルギー,ルクセンブルクの6カ国が参加。73年イギリス,アイルランド,デンマーク,81年ギリシア,86年スペイン,ポルトガルが加盟。関税同盟を完成し,同時に共通農業政策(CAP)も始動。87年,単一欧州議定書が発効,EFTA(エフタ)とEEAを形成。93年に発効されたマーストリヒト条約により,ECはEUに発展的に解消された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
略称EC。第二次世界大戦後のヨーロッパを建て直すための地域統合機構であったヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の3機関を一本化した総称。EC憲法(ローマ条約)を改正したEC新憲法(マーストリヒト条約)が1992年調印、93年11月1日発効し、EC加盟12か国はEU(ヨーロッパ連合)となった。
[編集部]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…49年NATOの一員になり,51年ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体),57年EEC(ヨーロッパ経済共同体),EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)に参加した。67年ECSC,EURATOM,EECは統合されてEC(ヨーロッパ共同体)となる。オランダはヨーロッパ統合に積極的で,ヨーロッパ議会をはじめとするヨーロッパ諸機関に参加しその民主化を唱導し,EMS(ヨーロッパ通貨同盟)発足,ヨーロッパ議会直接選挙の実施,ECへのイギリスの加盟,さらにギリシアの正式加盟決定を積極的に支持した。…
…
[国際統合の形成]
近代の早い時期から種々の国際統合構想が打ち出されてきたものの,国際統合という考え方が国際政治において重要な意味をもつに至ったのは第2次大戦後のことである。これは,直接的には,ヨーロッパ共同体ECをはじめとする国際統合の動きが実際にいくつかの地域で進行しはじめたという要因が働いている。しかし,より根本的には,軍事・政治・経済・文化など人間生活のほとんどあらゆる側面において,国境を越えて活動が展開されることが常態化し,その結果,核戦争の危険,世界的インフレの進行,南北間の貿易不均衡の拡大,資源の乱獲および不公正配分,世界的な環境汚染など,個別国家単位では解決しきれない問題が頻発してきたという事情がある。…
…正式名称=デンマーク王国Kongeriget Danmark面積=4万3069km2(本土のみ)人口(1996)=527万人首都=コペンハーゲンCopenhagen(København)(日本との時差=-8時間)主要言語=デンマーク語通貨=デンマーク・クローネDanish Kroneヨーロッパ北部,スカンジナビア3国の一つ。デンマーク語でダンマークDanmarkという。バルト海の入口を扼(やく)する483個の島とユトランド(ユラン)半島からなり,ヨーロッパ大陸に対し北欧諸国中の最南の地を占めるというその位置が,歴史上大きな意味を有する。…
…1951‐70年の世界貿易の拡大率は年率8.5%という未曾有の高率であった。このなかで西ヨーロッパ諸国ではヨーロッパ共同体(EC)とヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を中心に貿易自由化,市場統合化が進められた。日本はこのときも少し遅れて世界経済拡大に参加した。…
※「ヨーロッパ共同体」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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