ライマン(読み)らいまん(その他表記)Theodore Lyman

デジタル大辞泉 「ライマン」の意味・読み・例文・類語

ライマン(Theodore Lyman)

[1874~1954]米国の物理学者分光学を研究、1906年に紫外線スペクトルライマン系列を発見した。

ライマン(Benjamin Smith Lyman)

[1835~1920]米国の地質学者。1872年(明治5)来日し、各地の油田や地質を調査し、鉱山の開発を指導。1881年(明治14)に帰国。

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精選版 日本国語大辞典 「ライマン」の意味・読み・例文・類語

ライマン

  1. ( Benjamin Smith Lyman ベンジャミン=スミス━ ) アメリカの鉱床地質学者。明治五年(一八七二)招かれて来日し、北海道地質調査、全国の油田調査を行なった。日本人の助手を養成し、近代的資源探査法を日本に紹介。著「北海道地質総論」など。(一八三五‐一九二〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ライマン」の意味・わかりやすい解説

ライマン(Theodore Lyman)
らいまん
Theodore Lyman
(1874―1954)

アメリカの物理学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で学んだのち、イギリスキャベンディッシュ研究所ドイツゲッティンゲン大学に留学。帰国してハーバードに戻り、1925年まで教授職を務める。1910~1947年ジェファソン物理学研究所長。凹面回折格子を用いた真空分光器を製作し、紫外線スペクトルの精密測定を行い、1906年波長1200~600オングストロームの間にあるライマン系列を発見した。その後も分光学的研究を続け、1914年にはボーアが予想した水素原子の遠紫外スペクトル線を発見した。

[兵藤友博]


ライマン(Benjamin Smith Lyman)
らいまん
Benjamin Smith Lyman
(1835―1920)

アメリカの地質学者、鉱山学者。日本名を来曼と書く。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれ、ハーバード大学、フライベルクの鉱山学校に学んだ。ペンシルベニア州の地質調査、インドパンジャーブの石油調査ののち、1872年(明治5)開拓使の招きにより北海道で石炭調査に従事した。1876年工務省の依頼で新潟県、静岡県の石油調査にあたる。1881年に帰国するまで工務省地質技師として地質調査をし、13名の日本人助手の教育を行った。北海道の地質図を著すなど、日本への理学的地質学の導入に貢献があった。とくに鉱山の開発などについての応用地質学の導入に努めた。帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長となった。

[木村敏雄 2018年8月21日]

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改訂新版 世界大百科事典 「ライマン」の意味・わかりやすい解説

ライマン
Benjamin Smith Lyman
生没年:1835-1920

アメリカの地質学者。日本で最初に本格的な地質調査を行った。マサチューセッツのノーザンプトンで法律家の子として生まれた。ハーバード大学で法律学を学んだが,1855年卒業後叔父の仕事に従い鉱山調査に従事し,パリ鉱山学校とドイツのフライベルク鉱山学校に留学,62年帰国後各地鉱山の地質調査を行い,鉱床の走向線図を作成して注目された。72年(明治5年),北海道開拓使に招かれて来日。開拓使仮学校(東京)で学生を教育し,73年から学生たちと北海道の地質・鉱床調査と測量を実施。76年,日本ではじめての広範囲な地質図《日本蝦夷地質要略之図》とその報告書を出版。その後日本各地の地質,鉱山,油田の調査を行い,日本の地質調査の基礎をつくった。81年帰国後はアメリカ各地およびフィリピンの調査に従事した。ライマンの育てた弟子たちは日本の地質・鉱山学界で活躍した。地質調査に用いられる走向,傾斜の語はライマンの弟子たちの訳語である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ライマン」の意味・わかりやすい解説

ライマン
Lyman, Benjamin Smith

[生]1835.12.11. マサチューセッツ,ノーサンプトン
[没]1920.8.30. フィラデルフィア
アメリカの地質学者。ハーバード大学卒業後,J.ホールの指導で,アイオワ州の地質調査に従事し,のちパリの高等鉱山学校,ドイツのフライベルク鉱山学校に学んだ。明治5 (1872) 年北海道開拓使の招きで来日し,石狩炭田の開発,日本最初の総合的な地質図『日本蝦夷地質要略之図』 (76) の作成にあたる。また全国油田調査事業に着手 (77) ,その結果は,『日本油田之地質及地形図』として出版された (82) 。ライマンは近代の日本地質学に貢献した最初の学者で,E.ナウマンとともに日本地質学の創始者。 1881年日本を去り,ペンシルバニア州地質調査所に勤務し,今日広く認められる「石油は地層の背斜部に集積する」という説を出した。

ライマン
Lyman, Theodore

[生]1874.11.23. マサチューセッツ,ボストン
[没]1954.10.11. ブルックリン
アメリカの物理学者。父は海洋生物学者。ハーバード大学卒業。 1900年学位取得。ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所,ゲッティンゲンに滞在後,母校に戻り,同大学ジェファーソン物理学研究所所長 (1910~47) ,教授 (21~25) 。アメリカ科学アカデミー,哲学会,物理学会など多くの学会に所属し,一部会長もつとめたほか,イギリス王立研究所などの名誉研究員でもある。分光学を研究し,06年水素原子のスペクトルの紫外部にライマン系列を発見した。芸術・科学アカデミーからランフォード・メダル,哲学会からクレッソン・メダルなどを受賞した。

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朝日日本歴史人物事典 「ライマン」の解説

ライマン

没年:1920.8.30(1920.8.30)
生年:1835.12.11
明治期に来日したお雇い外国人。アメリカ人地質学者。マサチューセッツ州の出身。ハーバード大学に学び,明治5(1872)年に来日。翌年から3年間,開拓使のもとで,北海道の地質調査,地下資源調査を行い,また地質調査の技術を伝える。のち工部省に転じて,新潟,静岡地方の油田をはじめ全国の石油資源の調査を行い,12年には全国の地質調査を完成。14年に帰国,ペンシルベニア州地質調査所に務めた。<著作>『北海道地質総論』

(村上陽一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ライマン」の解説

ライマン Lyman, Benjamin Smith

1835-1920 アメリカの地質学者。
1835年12月11日生まれ。明治5年(1872)開拓使の招きで来日し,北海道の地質・鉱床を調査。日本初の地質図「日本蝦夷(えぞ)地質要略之図」を作製。工部省にうつり,新潟油田など全国の地質を調査し,地質調査の技術を日本人におしえた。14年帰国。1920年8月30日死去。84歳。マサチューセッツ州出身。ハーバード大卒。

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百科事典マイペディア 「ライマン」の意味・わかりやすい解説

ライマン

米国の地質学者。ノーサンプトン生れ。1872年北海道開拓使の招きで来日。開拓使仮学校で日本人助手を養成して石狩炭田の開発に当たり,日本最初の総合的地質図《日本蝦夷(えぞ)地質要略之図》(1876年)を作製。次いで工部省に移り,全国油田調査事業を企図,各地の油田地質調査に貢献した。1881年帰国。

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367日誕生日大事典 「ライマン」の解説

ライマン

生年月日:1835年12月11日
アメリカの地質学者
1920年没

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世界大百科事典(旧版)内のライマンの言及

【石炭】より

…佐賀藩主鍋島直正がイギリス人T.B.グラバーとの共同経営によって本格的な開発に着手し,1869年出炭を開始したが,劣悪な労働条件に抗して,いわゆる〈高島炭鉱問題〉をはじめとする坑夫の暴動がたびたび起こった。 北海道では幕末にすでに幕府の手によって白糠,岩内で採掘が行われていたが,明治初期に北海道開拓使庁のお雇外国人B.S.ライマンが全道にわたって地質調査を行い,その結果に基づいて開拓使は78年,岩内炭鉱とともに幌内(ほろない)炭鉱の開発に着手し,さらにライマンの助手たちによって発見された夕張炭田,空知炭田の開発が進められた。【石井 量】。…

※「ライマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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