リビングストン(その他表記)David Livingstone

デジタル大辞泉 「リビングストン」の意味・読み・例文・類語

リビングストン(David Livingstone)

[1813~1873]英国の医師・宣教師・探検家。1840年、医療伝道師としてアフリカに渡り、アフリカの探検をつづけた。1866年にはナイル川水源調査の探検に出発し、タンガニーカ湖付近で消息を絶ったが、スタンリーに救出された。奴隷貿易の廃止にも貢献。

リビングストン(Lívingston)

グアテマラ東部、カリブ海に注ぐドゥルセ川の河口にある町。ドゥルセ川の上流、イサバル湖に至る水域が自然保護区に指定されている。住民の大半を、先住民とアフリカ起源の民族とが混血したガリフナが占める。

リビングストン(Livingstone)

ザンビア南部の都市マランバの旧称。

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精選版 日本国語大辞典 「リビングストン」の意味・読み・例文・類語

リビングストン

  1. ( David Livingstone デービッド━ ) イギリスの宣教師、探検家。ヨーロッパ人としてはじめてアフリカを横断し、ザンベジ川ビクトリア滝などを発見。タンガニーカ湖付近探検中、消息を絶ち、スタンリーに救出された。先住民の教化につくしたところから「暗黒大陸の父」と称された。「伝道旅行記」でヨーロッパにアフリカのありのままの状況を紹介した。(一八一三‐七三

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改訂新版 世界大百科事典 「リビングストン」の意味・わかりやすい解説

リビングストン
David Livingstone
生没年:1813-73

イギリスのアフリカ探検家。産業革命後のビクトリア女王時代のイギリスとアフリカのかかわりを典型的に示す探検家といえる。イギリスの周縁部であるスコットランドの貧しい労働者(産業革命の落し子である綿紡績工場の労働者)の家庭に生まれ,勤勉で敬虔なキリスト教徒だった両親の影響で医療宣教師となった。初め中国行きを志したがアヘン戦争であきらめ,ロンドン伝道協会派遣の医療宣教師として,1841-49年南アフリカに赴任した。この間のカラハリ地方を中心とする宣教活動を通じて,彼は住民の言語や習俗,地理上の発見に強い関心を抱くようになった。49年のヌガミ湖の発見により王立地理学協会から金メダルを受け,以後この協会との結びつきによる地理的探検への傾斜を深めた。50-56年のザンベジ川上流から大西洋岸に至る探検によって探検家としての名声を確立し,イギリス社会のヒーローとなった。58-64年のザンベジ川流域の探検,66-73年のナイル川の水源を求めての探検では,イギリス人同行者との不和に悩まされ,とくに最後の探検では,同行者に医薬品を持ち逃げされたことが一つの原因となって病気に倒れ,一時は行方不明を伝えられた。タンガニーカ湖岸のウジジで《ニューヨーク・ヘラルド》紙から特派されたH.スタンリーに発見され(1871),以後5ヵ月近くスタンリーとともにタンガニーカ湖周辺部の探検を進めた。スタンリーの帰国勧誘を断ってアフリカにとどまり,73年チタンボ村(現,ザンビア中東部)で病没。

 キリスト教の伝道,文明の普及,イギリスとの交易の内陸への浸透が,奴隷貿易を根絶する道であるというリビングストンの信念,そして地理上の発見への情熱などは,19世紀初めから中ごろまでの,彼と同時代のヨーロッパ人によるアフリカ探検を特色づけるもので,これに続く時代の,スタンリー後期の探検をはじめとする,植民地支配の直接の前提としての探検とは主体的動機は異なるが,その先駆としての役割を果たしたとみることができる。
アフリカ探検
執筆者:


リビングストン
Livingstone

アフリカ南部の内陸国ザンビア共和国南部の都市。現地名はマランバMaramba。人口9万5000(1987)。隣国ジンバブウェとの国境をなすザンベジ川北岸に位置し,ビクトリア滝に近い。鉄道,道路,航空路など交通の要衝であり,商工業の中心でもある。1905年イギリスによって建設され,この地方を最初に探検したD.リビングストンにちなんで命名された。アフリカ南部の歴史,考古学,人類学の資料を収集したリビングストン博物館がある。07年から35年までイギリス領北ローデシアの主都であった。
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百科事典マイペディア 「リビングストン」の意味・わかりやすい解説

リビングストン

英国の宣教師,アフリカ探検家。医療伝道師としてアフリカに渡り,1849年から奥地探検を始め,同年カラハリ砂漠を越えてヌガミ湖に達し,その後ザンベジ川上流を探検して1855年ビクトリア滝に到達した。1858年―1863年にも奥地を探検,さらに1866年ナイル川水源探検に出たが長く消息を絶ち,1871年捜索に向かったH.M.スタンリーとタンガニーカ湖畔のウジジで劇的会見をした。スタンリーと別れた後,バングウェウル湖南方のチタンボで病死した。彼の多くの探検報告はアフリカ内陸部の事情を明らかにした。
→関連項目コンゴ[川]ザンビアザンベジ[川]バングウェウル[湖]ブランタイアマラウイマラウイ[湖]リビングストン

リビングストン

ザンビア南端,ザンベジ川北岸の都市。首都ルサカとジンバブエを結ぶ交通の要地。ビクトリア滝から約11km川下にあり,観光の中心地。リビングストン博物館がある。1905年に英国によって創設され,D.リビングストンを記念して命名。1935年まで北ローデシアの主都であった。近年,マランバMarambaに改称。13万4000人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リビングストン」の意味・わかりやすい解説

リビングストン
Livingstone, David

[生]1813.3.19. イギリス,ラナークシャー
[没]1873.5.1. アフリカ中南部,チタンボ
イギリスの探検家,宣教師。19世紀最大のアフリカ探検を行なうとともに,奴隷貿易の実態を文明世界に明らかにした。紡績工場で働きながら,独学でグラスゴー大学に入り,ギリシア語,神学,医学を学んだ。1840年医学の学位を取得,同年宣教活動の志願者としてロンドン伝道協会に入った。1841年任地である南アフリカのクルマンへ派遣された。先住民との接触に成功し,前人未踏の奥地まで入って伝道に努めた。1853年セシュクから西海岸のロアンダへのルートを見出し,1855年には東海岸への道を開いた。途中,ビクトリア瀑布に到達。一時帰国,伝道協会との関係を断ち,1858年ザンベジ地域の巡回領事に任命され,政府のアフリカ探検隊の指揮をとり再びアフリカに赴いた。1864年帰国。奥地での奴隷貿易に関する実態調査とザンベジ川コンゴ川ナイル川など大河の水源発見を目的として,1年後三たび探検隊を率いて出発,非常な困難のため多くの隊員を失った。1871年タンガニーカ湖畔ウジジでヘンリー・M.スタンレーと遭遇。スタンレーが提供した人員と物資の補給を受け,再び 1872年8月にはナイル川,コンゴ川の源を探検に出発し,途中病気のためバングウェウル湖南岸のチタンボで死んだ。主著『アフリカ探検記』Missionary Travels and Researches in South Africa(1857)。

リビングストン
Livingston, Edward

[生]1764.5.28. ニューヨーク
[没]1836.5.23. ニューヨーク
アメリカの法律家,政治家。 1785年ニューヨークで弁護士の資格を取得。 95~1801年ニューヨーク選出のリパブリカンズ (共和派) 連邦下院議員。 01~03年ニューヨーク市長。 03年の黄熱病流行の際,自分も罹病しながら防疫にあたった。 04年ニューオーリンズへ移り弁護士を開業。アメリカ=イギリス戦争 (1812) に A.ジャクソン将軍の幕僚として従軍,15年のニューオーリンズの戦いに参加。 25年ルイジアナ刑法の改革案を提出,採用はされなかったが,イギリス,フランス,ドイツなどで高く評価された。 23~29年連邦下院議員,29~31年連邦上院議員,31~33年ジャクソン大統領の国務長官,33~35年フランス駐在大使。

リビングストン
Livingston, Philip

[生]1716.1.15. ニューヨーク,オールバニ
[没]1778.6.12.
アメリカ独立革命期の実業家,政治家。独立宣言署名者の一人。ニューヨークの実業家として活躍。 1774~78年大陸会議代表。その後,ニューヨークの上院,下院議員をつとめた。教育に関心深く,キングズ・カレッジ (のちのコロンビア大学) 創立に尽した。

リビングストン

「マランバ」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リビングストン」の意味・わかりやすい解説

リビングストン(David Livingston)
りびんぐすとん
David Livingston
(1813―1873)

イギリスの宣教師、探検家。スコットランドのブランタイアで生まれる。家庭が貧しかったため10歳のときから働きながら勉学した。1840年、医療伝道師として南アフリカに渡り、各地で布教活動を行ったが、住民の改宗にはほとんど成功しなかった。翌1841年から奥地探検に赴き、カラハリ砂漠を越えヌガミ湖に達した。1852年ザンベジ川を遡行(そこう)し大西洋岸のルアンダに到達、その後、ビクトリア滝を発見、ザンベジ川を下りインド洋岸のケリマネに達し、白人として初のアフリカ大陸横断者となった。1859年にはニアサ湖(現、マラウイ湖)を望見、付近の奴隷狩りの実態を暴露し、後の奴隷貿易の禁止に大きな影響を与えた。1866年ナイル川の水源を調査するため最後の探検に出発し行方不明となったが、タンガニーカ湖畔のウジジで、捜索にきたスタンリーと劇的な対面を行った。その後スタンリーとともに調査を続けたが、1873年5月、ザンビアのバングウェウル湖南岸付近で病死した。遺骸(いがい)はアフリカ人従者2人の指揮のもとにイギリスに運ばれ、ウェストミンスター寺院に葬られた。

[青木澄夫 2018年2月16日]

『リヴィングストン著、菅原清治訳『世界探検全集8 アフリカ探検記』(1977・河出書房新社)』『エルスペス・ハクスレー著、中村能三訳『リヴィングストン』(1979・草思社)』


リビングストン(ザンビア)
りびんぐすとん
Livingstone

アフリカ南部、ザンビア南部の都市マランバの旧称。

[編集部]

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世界大百科事典(旧版)内のリビングストンの言及

【サウス・シェトランド[諸島]】より

…面積約4700km2。ブランスフィールド海峡とドレーク海峡の間,南緯62゜,西経60゜付近に位置し,キング・ジョージ島,リビングストン島を中心に11の島々が東西に広がる。年中氷雪におおわれるので無人であるが,1906‐31年には捕鯨とアザラシ猟の基地となった。…

【アフリカ】より

… 奴隷制廃止にいたるまでのあいだに,19世紀に入る前後からヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われていた。1795年から1806年にかけて2度も西アフリカのニジェール川上流付近を探検したスコットランドのマンゴ・パーク,1820年代にサハラ砂漠を横断し西アフリカにいたった同じスコットランドのヒュー・クラッパートンHugh Clapperton(1788‐1827)や50‐70年代に幾度も東アフリカを探検した宣教師デビッド・リビングストン,行方不明になったリビングストンをタンガニーカ湖畔のウジジで発見して名を知られ,さらにベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてコンゴの植民地化に辣腕をふるったイギリス生れのアメリカ人ジャーナリスト,ヘンリー・M.スタンリーなどは,この時代の探検家を代表する人びとである。探検はもともと科学的興味や人道主義的使命感からはじめられたものであったが,これによってもたらされたアフリカ内陸部に関する情報は,19世紀後半におけるヨーロッパ列強の領土的野心をいっそう刺激する結果を生んだ。…

【スタンリー】より

…南北戦争に従軍,戦後は新聞記者になり,政府軍とインディアンとの戦い,イギリスとエチオピアとの戦いなどの従軍記者として頭角を現した。ナイル川の水源地探検に赴いたまま消息を断ったリビングストンを探しに派遣され,1871年首尾よく彼と邂逅,2人でタンガニーカ湖を探検した。74年からは3年近い歳月をかけて,アフリカ大陸中央部をインド洋岸から大西洋岸まで横断した。…

【タボラ】より

…1820年ころアラブの奴隷商人によって建設され,内陸との交易の重要な拠点となった。リビングストンの探検の基地としても知られる。【西野 照太郎】。…

【ロンドン伝道協会】より

…キリスト教の土着文化への浸透は,ヨーロッパ人との接触による新しい物質文化や武器,病気による人口の激減など,これまで経験したことのなかった大変動のなかで,ポリネシア人やメラネシア人が未来への幸せを願って福音を受け入れたことによるところが少なくない。なお協会は南太平洋だけでなく,アフリカなどにも宣教師たちを派遣しており,リビングストンのアフリカ探検も協会の後援によるものである。【石川 栄吉】【矢野 将】。…

※「リビングストン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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