翻訳|Luxemburg
西欧の立憲君主国。面積は神奈川県とほぼ同じ。ベルギー、フランス、ドイツに囲まれ、交通の要衝に位置する。人口は約65万人で4割以上が外国人。鉄鋼業が盛んだったが、1970年代の石油危機以降は金融サービス業中心の産業構造に転換。金融センターとしての地位を確立、日本企業にとっても欧州市場への窓口の役割を担う。近年は宇宙開発や情報通信技術の分野にも力を注ぐ。1人当たりの国民総所得(GNI)は世界最高水準。(ルクセンブルク共同)
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基本情報
正式名称=ルクセンブルク大公国Grand-duché de Lexembourg, Grossherzogtum Luxemburg
面積=2586km2
人口(2010)=51万人
首都=ルクセンブルクLuxemburg(日本との時差=-8時間)
主要言語=フランス語,ドイツ語
通貨=ルクセンブルク・フランFranc luxembourgeois, Luxemburgischer Franc(現在はユーロEuro)
ヨーロッパ北西部に位置する立憲君主国。フランス語ではリュクサンブール。フランス,ベルギー,ドイツと国境を接する。中世の領邦国家が現在まで存続した大公国で,ラテン世界とゲルマン世界の境界でヨーロッパの中心に位置するため,その近代的な経済力にも助けられて,国の規模よりはるかに大きな役割を果たしている。
国全体が内陸の高地にあり,その国土は北部約3分の1を占めるエスリングÖslingと,南部約3分の2に当たるグートラントGutlandに分けられる。エスリングは標高450~500mで,ドイツ領アイフェル丘陵からベルギー領アルデンヌ山地に広がる高地の一部をなす。いくつかの小河川が深い渓谷をつくり,平坦地は少ない。冬季はかなり寒く積雪も多いので,農耕はそれほど発達せず,森林地帯をなしている。これに対してグートラントは,パリ盆地から始まる平原の北東端を占め,台地が3個所の急な傾斜で区切られながら,標高350mから300mへと低くなっている。ことにドイツとの国境をなす南東部のモーゼル川沿いなどに平坦地が広がり,エスリングよりも肥沃かつ温暖で,定住と農耕がより稠密(ちゆうみつ)である。首都ルクセンブルクもグートラントにある。
住民は大半がドイツ系である。公用語はフランス語であるが,日常的にはゲルマン語系のルクセンブルク方言Lëtzebuergeschが普及し,公的生活でも用いられるようになってきている。しかし国内対立をはらんだ言語問題は起こっていない。
一院制の議会をもち,大公を元首とする立憲君主制をとり,政治的・社会的にきわめて安定している。19世紀以来の保守勢力とリベラル派の対立に,遅れて社会主義者が加わるというヨーロッパ的構図は共通であるが,隣接諸国にみられたような激しい変革は経験しておらず,1919年から74年まで,1925-26年を除いて,4人の首相によるキリスト教社会党を中心とする内閣が続いたほどである。社会党系とキリスト教系の労働組合や,農民同盟などの同業団体の勢力が強く,社会保障制度も発達していて,生活水準はきわめて高い。宗教生活の一般的な衰退はあるが,住民は古くから圧倒的にカトリック教徒が多い。
道路と鉄道によってフランス,ドイツ,ベルギーと緊密に結ばれ,中世以来の伝統を継いで,現在でもヨーロッパの政治・経済の中心の一つとなっている。ベネルクスの一員として当初からEECの積極的な加盟国であり,NATOにも加わっている。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体は,1952年の発足とともに首都ルクセンブルクに本部を置いた。ヨーロッパ議会事務局,ヨーロッパ投資銀行,ヨーロッパ裁判所も首都に置かれている。
住民は首都ルクセンブルクと,その南にある鉄工業地帯に集中している。しかし労働力は老齢化がはなはだしく,外国人移入者への依存度が高くて,イタリア人労働者を中心に外国人住民は20%を超えている。隣国フランスとベルギーからの通勤者も多い。農業人口は10%程度で,比較的大規模(平均経営規模20ha以上)の,牧畜を組み合わせた多作経営が行われている。モーゼル川流域の白ブドウ酒が特産物として名高い。伝統的産業のうちでも,印刷・出版,陶磁器生産,食品などが繁栄しているが,経済の中心をなしているのは,なんといっても鉄鋼業である。豊富な鉄鉱石と広い森林(かつては製鉄の燃料は木材)に恵まれていたルクセンブルクは,19世紀後半以降ことに国の南部に集中的に製鉄業を発展させ,世界有数の製鉄国となった。しかしその後,コークスだけでなく鉄鉱石のかなりの部分を輸入に頼るようになり,国際市場での地位は困難をきわめた。ドイツとベルギーを最も重要な相手とする旧EC諸国との間の貿易収支も不均衡になり,そのため,製鉄業への極端な依存を避け,人口を地理的にもより適正に配置すべく,自然的条件を利用した水力発電を行い化学工業などの新産業を育成する政策がとられている。その一方で,公共資金が投入されるだけでなく,ヨーロッパ金融界で重要な役割を果たしているこの国の銀行を通じて,外資も活用されてきた。また,この間ルクセンブルク経済の大きな支えとなったものとして,観光産業が見のがせない。河川が多く,起伏に富んだ地形に森林が広がる自然景観を,ビアンデンの城砦,エヒテルナハの修道院など多くの文化遺産が彩るこの国には,ヨーロッパ各地から多数の観光客が訪れている。
ルクセンブルクは,ヨーロッパの諸勢力角逐の中でめまぐるしい変遷をとげ,諸家系の消長によって支配者を変えながらも,中世の領邦国家が現在の首都と領土を中心として自立性を保ちぬいた,きわめて珍しい例である。その歴史は,東方に勢力を伸張して一時はヨーロッパ政治で巨大な役割を果たした中世,外国に本拠を置く君主の家系に次々と服属した近世,および経済的発展とともにしだいに独立を固めていった近・現代に分けて考えることができる。
この地域への定住は古く,ローマ帝国の幹線道路がここで交差していた。ゲルマン民族大移動の過程でフランク族の定住地となり,7世紀末イギリスから来てエヒテルナハに修道院を創建したウィリブロードWillibrordなどの力によって,9世紀までにはキリスト教化された。フランク王国時代にはカロリング朝の本拠地たるアウストラシアの一部であったが,王国の分割によって,ドイツに属することになった。現在のルクセンブルク市に城砦がつくられ,その周辺にまとまった支配領域としてルクセンブルク伯領が成立したのは10世紀後半で,12世紀前半までの版図はゲルマン語地帯に限られていた。12世紀後半ルクセンブルク伯位がナミュール伯家に移ったことから,ロマン語地帯との関係が深まり,ナミュール伯家から出て第2期ルクセンブルク家の始祖となったエルムザンドErmesinde女伯(1196-1247ころ)のもとで,伯領内部で両言語地帯が拮抗することになり,ゲルマン世界とラテン世界の境界という性格が確立した。その後ルクセンブルク家は南東にも進出して,モーゼル川とムーズ川の間を領域とするに至り,1308年にはハインリヒ7世が,同家出身の大司教たちの支持で,神聖ローマ皇帝に選ばれた。ルクセンブルク家はさらに中欧に巨大な版図を築いて,ボヘミア王位などを兼ね,ハインリヒの孫で帝位についたカール4世のもとで,54年には故地ルクセンブルクを公領に昇格させた。国際政治の働きで,支配者が大勢力となったルクセンブルクそのものは,この時期に領邦国家としての制度を整えた。身分制議会も14世紀後半には発足するが,総じて在地では目だった社会・経済的発展がなく,むしろ,ルクセンブルク家の野心的な政策の犠牲となって財政的に窮迫した。88年以降は質入れされて,結局1443年ブルゴーニュ公家の支配下に入ってしまった。
こうして,15世紀前半にブルゴーニュ公国によって実現されたネーデルラントの統一に加えられ,これ以降その一部をなすに至ったが,それでも後のオランダおよびベルギーとは異なった特質をもつ地域をなしていた。なによりも都市の発達が遅くて市民勢力も弱小だったこと,17世紀に始まる製鉄業も産業革命以前には巨大な力とはならず,経済成長も停滞的であったことが,ネーデルラントでの後進地域という性格をつくり出したのである。そのため,宗教改革などの変革運動も弱く,16世紀には多数の人文主義者を出すが,これらも主として外国で活躍した。
1477年までブルゴーニュ公国に属したが,その後はハプスブルク家の領土に入り,18世紀末までハプスブルク家の本拠であったスペイン(1556-1713)とオーストリア(1714-1804)から次々に支配されることになった。近世における制度面での改革も,18世紀にオーストリア皇帝ヨーゼフ2世とマリア・テレジアによる啓蒙専制主義政策によって,上から進められた。しかしこの間隣国フランスの影響も著しく,1650年には南部領域がフランスに併合され,84年にはルイ14世によって占領されて97年までフランス領となった。領土にはなおゲルマン語とロマン語の地帯を含んでいたが,中央行政用語としてフランス語が定着したのもこの時期である。
フランス革命後,1795年に再びフランス領となったルクセンブルクは,フォレForêts県として統治されたが,住民の反抗が著しかった。1815年ウィーン会議によってルクセンブルクは東部領域をプロイセンに譲るとともに,大公国の資格を与えられ,同時に大公位はネーデルラント国王ウィレム1世に属することになった。しかもドイツ連邦の一員となり,ルクセンブルク市にはプロイセン守備隊が駐屯するという複雑な事態が生じた。1830年ベルギー独立戦争に際しては,ルクセンブルクでもオランダ支配からの離脱を求める運動が起こり,オランダ(ネーデルラント王国)の王家も,よりこの地域の独立性を認める統治を行うようになる。ただし,大公位が完全にルクセンブルクに帰属するようになるのは,90年に即位したナッサウ家のアドルフ大公以降である。1839年には列強のロンドン会議で,西部領域がベルギーに移され,ここに現在の領土と,公用語としてのフランス語,日常語としてのゲルマン語方言という言語状況が確定した。ルクセンブルクは,42年にドイツ関税同盟に加盟したが,60年代にはプロイセン,オーストリアおよびフランスの対立の焦点となり,67年に再び列強のロンドン会議で永世中立国とされて,プロイセン守備隊もルクセンブルク市から撤退した。
こうして独立を達成した19世紀後半のルクセンブルクは,製鉄業のめざましい発展を経験する。鉄鉱床の発見をきっかけに開始された南部の工業化は,鉄鋼業という単一部門を跛行(はこう)的に発展させはしたものの,ともかく急速な経済成長を実現して,この国を一流工業国の地位に押し上げた。同時に数度にわたる憲法の改定を経て,制度面での民主化が進行し,ブルジョアジー支配が成立した。第1次大戦に際してドイツは永世中立を破ってルクセンブルクを占領したが,国家は存続させた。大戦後の1919年に憲法をさらに民主化して大公の権利を制限し,婦人参政権を含む普通選挙権を実施した。またドイツとの関税同盟を解消し,22年にはベルギーとの間に経済同盟を結んだ。第2次大戦中再びドイツに侵略されると,大公と政府は亡命し,国内では激しい抵抗運動がおこった。戦後48年の憲法で永世中立を廃し,ベルギー,オランダとのベネルクス同盟を強化,さらにEUとNATOの積極的な構成国として,ヨーロッパの統一に国の進路を見いだそうとしている。
執筆者:森本 芳樹
ドイツおよびポーランドの革命家,マルクス主義理論家。木材業者の娘としてロシア領ポーランドのザモシチに生まれる。ワルシャワの高校生時代に社会主義運動に参加,1889年,チューリヒに逃れ,大学で自然科学,哲学,社会科学を学び,博士論文に取り組む(1898年《ポーランドの産業発展》として公刊)とともに,多くの亡命革命家と知り合い,94年,仲間とポーランド王国社会民主党を結成。98年,市民権を得てベルリンに移り,ドイツ社会民主党に入党。折からの修正主義論争に《社会改良か革命か》(1899)をもって参加,ベルンシュタインを反駁,《ライプチヒ民衆新聞》《ノイエ・ツァイト》などで左派の理論家として論陣をはった。1905年ロシア革命が起こるとワルシャワに潜入,逮捕されたが,釈放後《大衆ストライキ,党および組合》(1906)を書き,大衆の自発的行動に対する信頼から制度化した党・組合を批判した。10年にも大衆ストライキを提起して,それまで親しかったカウツキーと袂(たもと)を分かった。同時に,党学校での講義や《資本蓄積論Die Akkumulation des Kapitals》(1913)の研究を通じて帝国主義の非人間的本質を解明した。第二インターナショナルでも活躍,何度もポーランド代表として事務局会議に出席,1907年の大会ではレーニンらとともに反戦決議案を提出した。14年,反戦活動のゆえに有罪判決を受け,第1次世界大戦勃発後,15年に収監され,16年,新たに逮捕投獄された。しかし,スパルタクス・グループを結成して非合法の反戦革命運動を展開,《社会民主党の危機》(1916)をユニウスの匿名で出版して党の戦争協力を糾弾した。18年,出獄し,社会主義革命を目ざして活躍,ドイツ共産党を創立し,レーニンとは異なる組織論を示した。19年1月,ベルリンで空前の大衆行動が起こり騒然とするなかで,K.リープクネヒトとともに反革命暴力団によって虐殺された。獄中からの手紙がのちに出版され,日本でも感動をよんだ。
執筆者:西川 正雄
ルクセンブルク大公国の首都。フランス語ではリュクサンブールLuxembourg。同国南部にあり,パリの北西約300km,ブリュッセルの南東約200kmの地点に位置する。人口7万7300(2004)。アルゼット川とその支流が湾曲しながら60mに達する深い渓谷をつくっている場所にできた,標高320~350mの三つの台地に広がる。土地の激しい起伏によって眺望の変化に富み,また城郭の跡や公園,三つの街区をつなぐさまざまな時代の橋,洗練された古い町並み,ノートル・ダム大聖堂(17世紀初め)などが残り,きわめて魅力ある都市となっている。ヨーロッパ各地とは鉄道と高速道路によって結ばれ,内陸高地にありながら交通の便はよい。製鉄業発展の端緒となった地で,南に工業地帯が広がるが,現在市内外には重工業はそれほどない。皮革業や印刷業などの伝統的工業も見られるが,同市の機能は圧倒的に第3次産業に集中している。発達した商業部門,ヨーロッパ金融界で重要な地位を占める多くの銀行に加えて,なによりも,大公国政府のほかに,ECの諸機関をもつ行政部門が大きい。またヨーロッパ投資銀行などが所在し,ヨーロッパ議会や閣僚会議がしばしば開かれている。
ルクセンブルクは,ローマ期の小集落から中世に都市が成立し,近代化して現在まで続くという,ヨーロッパ都市によくある歴史をたどったが,主要交通路を扼(やく)する要衝の地として,軍事的性格がきわめて強かった。ローマ帝国の二つの幹線道路が交差していたこの地には,すでに城砦ルキリンブルフクLucilinburhuc(〈小城砦〉の意)があったが,10世紀末以降には,ルクセンブルク伯のもとで何度かにわたって軍事施設が強化された。近世にも,スペイン,フランス,オーストリアと支配者が変わるたびに城郭に手が加えられ,ことにフランスの軍事技術者ボーバンによる築城は名高い。プロイセン守備隊が駐屯していた1867年,列強の協定によって城郭は解体されたが,現在町の中心部をなすボック台地に,その跡が残されている。
執筆者:森本 芳樹
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西ヨーロッパの大公国。北と西をベルギー、東をドイツ、南をフランスに囲まれた小さな内陸国で、面積2586平方キロメートル、人口44万4050(2002)。正式名称はルクセンブルク大公国Grand-Duché de Luxembourg。国名は「小さな城」を意味するレッツェブルクLetzeburgに由来する。ベルギーと同じくゲルマン、ラテン両民族の分布境界線上に位置し、国名のフランス語読みはリュクサンブール。ゲルマン、ラテン両文化の影響を深く受け、国家の帰属も複雑に変化した。首都は同名のルクセンブルク。
[川上多美子]
北部のレダンジュ~シュール川以北はアルデンヌ高原の一部で、砂岩、珪岩(けいがん)からなり、400メートル前後の隆起準平原と深い谷になっている。最高点は北部のベルギー国境に近い559メートルの地である。南部は標高300メートル前後の台地状をなし、東西方向に石灰岩、砂岩と泥灰岩の互層からなるケスタ地形がある。中心的水系は北部でシュール川、南部ではドイツとの国境となっているモーゼル川。南西部にはフランスのロレーヌ地方に続くジュラ紀の鉄鉱床がある。気候は西岸海洋性気候であるが、やや内陸性の特徴を示す。首都ルクセンブルクの平均気温は、最暖月7月17.5℃、最寒月1月0.6℃、年降水量は866ミリメートル(1971~2000年平均)。
国土は南北に二大別される。エスリングOeslingとよばれる北部は全体の32%を占め、農村では14ヘクタール程度の小麦、牧草栽培の混合農業が多い。エスリングの北東部にはシュール川やウール川の刻んだ峡谷があり、「小スイス」といわれる保養地となっている。小都市では伝統工業の繊維、皮革、ビール醸造のほか、1960年代にアメリカ資本の化学工業が進出した。南部はグートラントGutlandとよばれ、国土の68%を占める。肥沃(ひよく)で穏やかな気候の地域である。小麦、タバコ、牧草栽培による混合農業のほか、南東部のモーゼル川流域ではブドウ栽培と発泡性ワイン製造が重要産業となっている。経営規模も平均26ヘクタールで北部より大きい。フランスのロレーヌ地方に続く南西部国境沿いのミネット鉱産地では、19世紀後半から製鉄業が発達し、首都周辺とともにEU(ヨーロッパ連合)の重要な鉄鋼業地域を形成している。
[川上多美子]
紀元前50年ごろローマ人に征服された当時は、ゲルマン系トレベリ人の居住地であった。紀元後3世紀には今日の首都の位置に小城塞(じょうさい)が建設され、山地には封建諸侯の居城や修道院が建てられた。5世紀末フランク王国に編入され、843年のベルダン条約でロタール領となる。ルクセンブルク家の創始者となるアルデンヌ伯ジークフリートは、963年今日の首都に城塞を築いて独立した。1060年ごろその子孫のコンラートはルクセンブルク伯爵の称号を得た。この家系は14~15世紀に黄金時代を迎え、4人の神聖ローマ皇帝、4人のボヘミア王、1人のハンガリー王や多くの選帝侯を輩出した。だが家領拡大は財政破綻(はたん)をもたらし、家督争いも加わって1443年ブルゴーニュ家に売却され、以来スペイン、フランス、オーストリア、プロイセンと次々に外国の支配を受けた。「北のジブラルタル」とよばれた崖(がけ)上のルクセンブルク要塞は、4世紀にわたって20回以上包囲され荒廃したが、国民の統一性、独立性はかならずしも失われなかった。
1815年のウィーン会議でルクセンブルク公国は大公国に格上げされるが、大公位はオランダ国王に属することとなり、同時にドイツ連邦の一員となるという複雑な状態に置かれた。1839年ロンドン条約で領土の西半分がオランダからベルギーに割譲され、これによって今日のルクセンブルクの領土が確定し、大公国の政治的独立が列強によって承認された。さらに1867年のロンドン条約で、プロイセンとフランスの緩衝国として大公国の中立が保障された。しかし二度の世界大戦ではドイツ軍に占領され、多大の犠牲者と国土の荒廃がもたらされたので、1948年NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に加盟し、中立を放棄した。すでに1922年ベルギーと関税同盟を結んでいたが、48年オランダを含めてベネルックス関税同盟を結成した。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を提唱したのはルクセンブルク出身のフランス外相ロベール・シューマンだが、ルクセンブルクはオランダ、ベルギーとともに戦後のヨーロッパ統合の動きのなかで積極的な役割を果たした。
[川上多美子]
憲法はベルギー憲法をモデルとして1868年に制定された。この憲法に基づく立憲君主国で、大公位はナッソー家男女の世襲制である。2002年現在、大公は2000年に即位したアンリ。議会は一院制。60議席の国民議会があり、18歳以上の有権者が直接普通選挙により比例代表制で選出する25歳以上の議員で構成され、任期は5年。ほかに大公任命の21名の終身議員からなる枢密院がある。中心政党はキリスト教社会党、社会労働党、民主党で、3党の連立内閣をつくることが多い。内閣は少なくとも3名の閣僚で構成されることになっている。地方行政の基礎は118のコミューヌ(市町村)であるが、行政区画としては三つのアロンディスマン(郡)と12のカントン(小郡)がある。司法制度は基本的にナポレオン法典に基づいており、各カントンに治安裁判所があり、上級裁判所として二つの郡裁判所と最高裁判所がある。
外交は、第二次世界大戦後、小国であるため経済統合の推進と国家の安全確保を柱に展開してきた。1842年から第一次世界大戦終了までドイツと関税同盟を結んでいたが、以降はベルギーと緊密な関係を保っている。今日では政策の具体化にあたってはベルギーの外交政策と軌を一にしている。軍事面では、集団安全保障体制のなかで自国の安全を確保する政策をとり、NATOの原加盟国である。兵制は志願制で、総兵力900人(2001)の陸軍をもつ。
[川上多美子]
国内総生産199億ドル(2000)。産業別では、第一次産業は1.6%、第二次産業は38.5%、第三次産業が59.9%である(1993)。19世紀なかばまでは貧しい農業国であったが、国内鉄鉱石の開発とトーマス製鋼法の発明で1911年ごろから鉄鋼業が急成長し、鉄鋼は最大の輸出品となった。だが1960年代後半から先進国間の激しい技術革新競争があり、国内鉱の生産コスト高、資源の枯渇、賃金高騰などで鉄鋼業は斜陽化し、生産は激減した。そのため、産業再編成が問題となり、1962年の新工業振興法により、アメリカ資本のタイヤ、合成繊維、プラスチックなど化学工業が導入された。
不況の鉄鋼にかわったのが銀行業である。税制優遇措置や企業活動への規制の緩さから、1970年以降旧西ドイツを先頭として各国から銀行が急激に進出し、一大国際金融センターとなった。金融業からの法人税は国家収入の約32%(1996)になっている。EUの主要産業地域に近接する立地上の利点、発達した交通網、迅速な行政上の手続処理、英・独・仏語に堪能(たんのう)で国際性に富む国民、質の高い労働力、政府・経営者・労働組合の三者協議の成果としてストライキの混乱のない安定した労使関係などをもとに、外国資本の導入、企業誘致を積極的に推進している。失業率は3%台(1995)でEU内で最低である。通貨はユーロ。世界でもっとも貿易依存度が高い国であるが、70年代より貿易収支は赤字である。主要輸出品は金属、機械、電機、プラスチック・ゴム、繊維となっている。主要輸入品は金属、機械、輸送機器など。主要相手国はベルギー、ドイツを主とするEU諸国である。
交通網は、高速道路の整備、ルクセンブルク空港の近代化と拡張、鉄道の電化、モーゼル川の運河化と築港により、陸・水・空路で他のヨーロッパ諸国と緊密に結ばれている。
[川上多美子]
国民はゲルマン系のルクセンブルク人でほとんどカトリック教徒である。EU諸国のなかでは高めの出生率(13.6‰、1994)で、4.1‰(1994)の自然増加率となっている。総人口の36.9%(2001)を外国人(ポルトガル人とイタリア人が多い)が占め、労働力不足を補っているが、彼らの高い出生率が総人口の減少を食い止めている。就業人口の10%を占めるベルギーやフランスからの越境通勤者も含めると、全就業者の約52%が外国人である。彼らは製鉄業に従事する以外に、ルクセンブルクに設置されているヨーロッパ裁判所、ヨーロッパ議会事務局、ヨーロッパ投資銀行本部、ヨーロッパ通貨基金、ヨーロッパ会計検査院などの国際機関で働く者も多い。言語は、1984年の特別法で、国語としてルクセンブルク語が、行政語としてフランス語とドイツ語が指定された。ルクセンブルク語はドイツ語の古い方言にフランス語の要素が加味したもので、国民の日常語となっている。義務教育は6歳から15歳までである。小学校1年でドイツ語の読み書きを学び始め、小学校2年からフランス語の読み書きが加わる。そのうえ、中等教育では英語を選択して学習する者が多い。総合大学はなく、2年の大学課程修了後は近隣諸国の大学に留学する。2001年の1人当り国内総生産は世界一の高水準で、国民の生活水準は高い。これは長期の政治的安定、経済発展、流入外国人労働力のため有効労働人口比が相対的に高くなったこと、などによる。マスコミ関係で注目されるのは、ヨーロッパ最大の民間放送会社ラジオ・テレビ・ルクセンブルクの存在で、国内はもとより、ドイツ、フランスにも多くの視聴者をもつ。
日本とは1960年(昭和35)にベネルックス通商協定、査証免除協定を締結して通商関係をもっている。貿易関係は、日本からルクセンブルクへの大幅な出超となっており、主として機械類、繊維、精密機器を日本が輸出し、輸送機械、機械器具、陶器などを日本に輸入している。駐日ルクセンブルク大使館は1987年に開設された。日本からは銀行、商社など24社(1998)が進出している。
[川上多美子]
『栗原福也著『ベネルクス現代史』(『世界現代史21』1982・山川出版社)』
ポーランド生まれのドイツの社会主義者。1870年(異説1871年)3月5日ロシア領ポーランドのザモシチにユダヤ人商人の娘として生まれる。ワルシャワの第二女子高校在学中から革命運動に関係し、官憲の追及を受けて1889年チューリヒに亡命、同地の大学に学び、ヨギヘスと知り合って事実上結婚した。1894年ポーランド社会党の民族主義に反対してヨギヘスらとポーランド王国社会民主党を結成、学位論文『ポーランドの産業的発展』(1898)によって同党の立場を理論づけた。1897年ドイツ人との形式的な結婚によってドイツの国籍を獲得し、1898年5月ベルリンに移住、ドイツ社会民主党に加わり、おりから起こった修正主義論争でベルンシュタインを厳しく批判して脚光を浴びた。
1905年、ロシアで革命が起こるとポーランドに潜入、翌1906年ワルシャワで逮捕されたが、帰国後、ロシアの革命を教訓として大衆ストライキを戦術とすべきことを主張、官僚主義化した党および労働組合の幹部を批判し、1910年以降にはカウツキーとも決定的に対立した。この間、ヨギヘスとの関係も破綻(はたん)したが、1907年以降、党学校の講師として活動、その成果は主著『資本蓄積論』(1913)となって結実した。一方、同年開かれた第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会では反戦決議案を提出して帝国主義戦争に反対し、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後も左翼急進派の中心となって1916年にはスパルタクス派を組織した。大戦中の大半を獄中で送ったが、その間『ロシア革命論』(1918)を執筆、ロシア革命の意義を高く評価しながらもボリシェビキの独裁に鋭い批判を加えた。1918年11月ドイツ革命の勃発後に釈放されると、ただちに人民代表評議会政府に反対し、同年12月、ドイツ共産党を結成したが、1919年1月、革命派がベルリンで蜂起(ほうき)した際、自らは反対であったが蜂起に参加し、同月15日、カール・リープクネヒトとともに政府軍によって虐殺された。
[松 俊夫]
『野村修他訳『ローザ・ルクセンブルク選集』全4巻(1969・現代思潮社)』▽『小林勝訳『資本蓄積論』ローザ・ルクセンブルク経済論集第1巻(2011・御茶の水書房)』▽『バーバラ・スキルムント、小林勝訳『ポーランドの産業的発展』ローザ・ルクセンブルク経済論集第3巻(2011・御茶の水書房)』▽『フレーリヒ著、伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク』(1968・東邦出版社/増補版・1998・御茶の水書房)』▽『ネットル著、諫山正他訳『ローザ・ルクセンブルク』上下(1974・河出書房新社)』
ルクセンブルク大公国の首都。人口7万7965(2002)。同国人口の約18%を占める。ドイツ語の方言であるルクセンブルク語を日常用いる。旧市街は、モーゼル川の支流であるアルゼット川とペトリュス川の渓谷に三方を囲まれた丘上に位置する。古名レッツェブルグLetzeburgは「小さな城」の意味で、「北のジブラルタル」といわれるように岩上の城砦(じょうさい)から発展した戦略上の要地のため、帰属がめまぐるしく変化した。鉄鋼を中心に機械、繊維、ビール醸造の工業が発達する。1952年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体本部が設置されて以来、ヨーロッパ裁判所、ヨーロッパ議会事務局、ヨーロッパ投資銀行が加わり、ベルギーのブリュッセルと並んでEU(ヨーロッパ連合)の中心地となっている。その結果、約7000人のヨーロッパ公務員ともいうべきEUの職員が働いている。また、開放政策や優遇税制で国際金融機関が集中している。美しい市街は16世紀の都市計画によるもの。16世紀のノートル・ダム大聖堂、大公の宮殿などがある。なお、ルクセンブルクの古い町並みと要塞(ようさい)化された都市は1994年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[川上多美子]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1871~1919
ポーランド生まれのドイツの女性革命家,経済学者。修正主義論争で認められ,ドイツ社会民主党左派およびポーランド革命運動の理論的指導者として活躍する一方,『資本蓄積論』(1913年)などの経済理論書を著した。第一次世界大戦中はスパルタクス団を組織,獄中から反戦・革命運動を指導。戦後,ドイツ共産党を創立したが,1919年1月蜂起の際,右翼将校に虐殺された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…これに対し,K.カウツキーやN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。その後,ソ連のE.バルガ,L.メンデリソン,東ドイツのF.エルスナー,日本の山田盛太郎,富塚良三,井村喜代子らマルクス主義経済学正統派は,レーニンのいう〈生産の社会的性格と領有の個人的性格との矛盾〉を基本として,消費制限説的恐慌論の歴史への適用や理論的進化に努めてきた。…
…ベルンシュタインの理論は,国家権力の核心がプロイセン陸軍の手に握られているドイツの現実を無視してはいたが,ドイツの党の活動の状態を率直に反映していた。他方で党内左派のローザ・ルクセンブルクらは,ゼネラル・ストライキによる権力奪取という革命的変革の展望を抱いていた。 ベルンシュタインの修正主義と,カウツキーに代表される党主流との闘争は,1903年の党大会決議によって形式的には修正主義の敗北に終わったが,現実に修正主義は党の体質に浸透しており,第1次大戦が勃発すると党指導者は政府を支持し,党の革命的言辞が空文句であったことをおのずから露呈した。…
…社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼ,カウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。 ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。…
…第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。…
…理論の次元でも,世紀の変り目ごろ,ベルンシュタインが漸進的社会主義を唱えて党是のマルクス主義に修正を加えようとした(修正主義)。彼の主張は,カウツキーやローザ・ルクセンブルクの反批判を招き(修正主義論争),1903年の党大会で否定された。しかし,10年,革命運動の活性化を目ざしてルクセンブルクらが大衆ストライキを提唱すると,カウツキーらは〈中央派〉を形成し,左右両派に対してマルクス主義正統派たることを自認した。…
※「ルクセンブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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