ベルギーの間接統治政策のもとで、ツチ人の伝統的王国はかえって強固に存続を続け、王や諸首長の権力は温存され続けた。ツチ人は植民地下で権力を享受し、またカトリック教会が経営する教育をも独占した。一方、大多数のフツ人はこれらにあずかることができず、不満が鬱積(うっせき)していた。1957年、フツ知識人による「バフツ宣言(Manifeste des Bahutu)」によって、ツチ人の専制終結と植民地体制打破が宣言され、そのメンバーを中心に政治活動も開始された。1959年、国王ムタラ3世Mutara Ⅲ(1912―1959)の死去を契機に、ベルギー当局とツチ知識人からなる王党派の関係が悪化。同年11月の万聖節の祝日にフツ人はついに決起し、中部から開始された騒乱は全国に広がっていった。ベルギー当局の後押しもあり、1961年、新しく即位したキゲリ5世Kigeli Ⅴ Ndahindurwa(1935―2016)の退位と王制の廃止が決定した。同年10月には、中部のギタラマ地方と北部をおもな地盤として結成されたフツ解放運動党(PARMEHUTU:Parti du mouvement de l'émancipation hutu)の党首グレゴワール・カイバンダが議会の8割近い票を得て、国連監視のもとで、ルワンダの初代大統領に就任。1962年7月1日、ルワンダ共和国が誕生した。
こうした政情不安と中部のヘゲモニー(覇権)に対する反感に事寄せ、北部出身の将軍ジュベナル・ハビャリマナJuvénal Habyarimana(1939―1994)が、1973年7月5日、軍事クーデターを決行した。PARMEHUTUは解散し、1975年に開発国民革命運動(MRND:Mouvement révolutionnaire national pour le développement)が結成され、1978年の憲法でMRNDを単一政党とする一党独裁の国家に編成された。大統領ハビャリマナは、農業に立脚した開発をかかげ、権力機構における地域別、エスニック・グループ別の人数枠制を導入することで、国民間の融和を唱えた政策をとった。しかし、1980年以降の深刻な経済不振や農業生産の停滞、その後の構造調整政策の導入による都市住民の生活環境の悪化は、ハビャリマナ政権の正当性(政治基盤)を揺るがした。1990年には、北隣のウガンダに避難したツチ系難民によって結成された反政府武装組織であるルワンダ愛国戦線(FPR:Front Patriotique Rwandais)が、国境を越え北部地域に侵攻し、内戦が勃発した。1993年8月、隣国タンザニアのアルーシャにおいて和平合意(アルーシャ協定)が締結されたが、1994年4月、大統領機が撃墜され大統領ハビャリマナが死亡したことが引き金になり、フツ過激派の民兵組織が中心になって、ツチ人やフツ穏健派の虐殺が開始された。これに対しFPRが大攻勢をかけ7月には本土を掌握し、新政府を樹立、FPRのパストゥール・ビジムングPasteur Bizimungu(1950― )が大統領に就任した。1994年の4月から、わずか100日足らずの間に生じた虐殺の犠牲者は50万人を超える。フツ人はザイール(現、コンゴ民主共和国)などの隣国に難民として流出した。ザイール東部の難民キャンプでは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や各国NGO(非政府組織)が援助活動を実施した。流出した難民は200万人に及ぶとされているが、1996年から帰還が始まった。
1994年11月、隣国タンザニアのアルーシャにおいて、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR:International Criminal Tribunal for Rwanda)が設置された。2000年代に入ってからは、膨大な数の虐殺加担者を裁くために、ICTRや国内裁判所の補完的な制度として、「ガチャチャ」とよばれるローカルレベル(地方共同体単位)の裁判制度が実施されるようになり、2010年の終了までに殺人罪の審理で40万件以上が扱われた。2003年に新憲法が制定され、2008年には虐殺イデオロギー法が成立した。一方、2010年10月発表の国連レポートでは、1994年7月、ザイールに流出した民間人を含む難民への数々の虐殺にFPRが関与していたとの報告がなされ、FPRの深刻な人権侵害が疑われている。
1871年にスタンリーとリビングストンは隣りのブルンジ王国の王都ブジュンブラをタンガニーカ湖経由で訪れ,その後タンガニーカ湖とキブ湖を結ぶルジジ川の流域を探検した。アフリカの分割を決めた1884-85年のベルリン会議の後,東アフリカにおけるドイツの勢力圏は拡大され,94年にはゲッツェンAdolf von Götzenがヨーロッパ人として初めてキブ湖に到達し,続いてカトリック伝道団がルワンダに入っていった。99年にルワンダ王はドイツに服従し,ブルンジとともにドイツ領ルアンダ・ウルンジRuanda-Urundiを構成した。