ルートウィヒ2世(英語表記)Ludwig Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「ルートウィヒ2世」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ[2世]
Ludwig Ⅱ
生没年:1845-86

悲劇の生涯を送ったバイエルンの4代目の国王在位1864-86年。マクシミリアン2世とプロイセンのホーエンツォレルン家出身の母との間に生まれ,幼時をホーエンシュワンガウ城のロマンティックな環境のもとで過ごした。早くから孤独癖が強く,中世ドイツの伝説に親しみ,幻想の世界に遊んだが,61年ミュンヘンで《ローエングリン》に感激してからR.ワーグナーに心酔するようになる。父の死により18歳で王位を継いだが,政務にはほとんど関心を示さず,もっぱら芸術に親しむ日々を送り,他方では近衛士官や俳優や馬丁と同性愛的関係におちいって,67年には王女ゾフィーとの婚約を解消してしまう。71年,ビスマルクの才腕で新ドイツ帝国が成立しプロイセン王が皇位につくと,ますます現実から逃避し,自分の幻想を実現すべく莫大な費用を投じてバイエルン各地に城や離宮や劇場をつぎつぎに建造した。このうち,山のなかのノイシュワンシュタイン城,森のなかのリンダーホーフ宮,キーム湖に浮かぶヘレンキームゼー宮の三つはとくに有名で,ルートウィヒ2世はこれらの城館でしばしばワーグナーの音楽を演奏させたと伝えられる。

 こうして,自分だけの世界に閉じこもって国情をかえりみなかったところから,しだいにプロイセン政府の圧力が加わり,側近の心も王から離れ,やがて王に対する禁治産宣告の声が高まってくる。86年6月8日には,時のミュンヘン大学精神科教授グッデンB.A.von Gudden(1824-86)ら4人の医師が〈王の病は不治であり,政務を行うことは不可能である〉との精神鑑定書に署名することになる。6月10日に禁治産宣告をうけた王は,シュタルンベルク湖畔の離宮へ移され,幽閉の身になったが,ついで13日の日曜日,午後4時半すぎ,グッデンと散歩に出たままもどらず,その夜やっと二人は溺死体となって発見された。この顚末は,当時たまたまミュンヘンにいた森鷗外の心をとらえ,のちにその《うたかたの記》(1890)に描かれることになったが,そのほか王を題材にした文学作品はヨーロッパを中心に数多く,1972年にはルキノ・ビスコンティの監督で映画化もされ評判を呼んだ。王の病気についてはパラノイア精神分裂病統合失調症),異常性格などの諸説があって一致しないが,3歳年下の弟オットーが精神分裂病とみられるところから,同系列の病であった疑いが濃い。
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ルートウィヒ[2世]
Ludwig Ⅱ
生没年:806ころ-876

東フランク王。在位843-876年。ドイツ人王der Deutscheと呼ばれた。ルートウィヒ1世三男。817年帝国計画令で付与されたバイエルンを本拠として,830年に始まる王族間の相続争いを戦い抜き,843年ベルダン条約により東フランク王国を確保した。その後も870年メルセン条約でロートリンゲン東半を加え,東方でボヘミア,モラビアと戦うなど王国の保全と拡大に努め,のちのドイツ王国への発展を用意した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルートウィヒ2世」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ2世
ルートウィヒにせい
Ludwig II

[生]1845.8.25. ミュンヘン,ニンフェンブルク宮
[没]1886.6.13. バイエルン,シュタルンベルク湖
バイエルン王(在位 1864~86)。マクシミリアン2世ヨーゼフの長男。1866年のプロシア=オーストリア戦争では,オーストリアに加担して敗北。1870年普仏戦争ではフランスの誘いを退けてプロシアとともにフランスと戦ったが,オットー・ビスマルクによるドイツ統一には不満であった。晩年内外の政治に対する不満から徐々に精神に異常をきたし芸術に逃避,宮殿建設のマニアとなり,ついにベルク宮脇のシュタルンベルク湖に身を投じた。音楽家リヒアルト・ワーグナーの保護者としても知られる。

ルートウィヒ2世(ドイツ王)
ルートウィヒにせい[ドイツおう]
Ludwig II, der Deutsche

[生]804頃
[没]876.8.28. フランクフルト
東フランク王 (在位 843~876) 。カルル1世 (大帝) の孫。ルートウィヒ1世 (敬虔王)の3男。父の死後,末弟のカルル (のちの西フランク王カルル2世〈禿頭王〉) とともに長兄ロタール1世を破り,ベルダン条約 (843) でライン以東の東フランク王となった。一般にドイツ王国の建設者とされる。ロタール2世の死後,メルセン条約 (870) で中部フランクのロタリンギアの大半を併合。

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367日誕生日大事典 「ルートウィヒ2世」の解説

ルートウィヒ2世

生年月日:1845年8月25日
バイエルン王(在位1864〜86)
1886年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルートウィヒ2世の言及

【シュトラスブルクの盟約】より

…840年のルートウィヒ1世の死後,その長子のロタール1世は皇帝位と同時にフランク王国全体に対する最高権を主張して,弟のルートウィヒ2世にはバイエルン1国に甘んずることを,また末弟のカール2世には相続領をアキテーヌ1国に縮小することを強要した。そのうえ彼は,恩貸地の大盤振舞によって,弟たちの家臣の多くを,自分の家臣に加えることに成功した。…

【フランクフルト・アム・マイン】より

…文書史料にこの名が最初に登場するのは794年のことで,この年カール大帝は,ヨーロッパ全土から聖俗高位者をこの地に呼び集め,その王宮広間で,バイエルン大公タッシロ3世の廃位,キリスト猶子説と聖画崇拝の禁止など重要問題を討議した。ルートウィヒ1世(在位814‐840)は,王宮を改築し,以後東フランク諸王の主要な宮廷所在地となった。852年ルートウィヒ2世ドイツ人王は,そのかたわらに救世主礼拝堂を建て,856年ロタール2世(在位855‐869),887年アルヌルフ(在位887‐899)が,堂内で玉座に推戴された。…

【バイエルン】より

…同市のビールは〈オクトーバーフェストOktoberfest〉とともに名高い。風光明媚のアルプス山地,中世都市の面影を濃く残すロマンティッシェ・シュトラーセルートウィヒ2世のノイシュワンシュタインNeuschwanstein城など,観光資源にも富む。
【歴史】

[バイエルン大公国の成立]
 アルプス以北の高原地帯には,紀元前1千年紀の半ば以降ケルト人が住み,ドナウ川流域の大都市マンヒングをはじめ,ここにもラ・テーヌ文化が栄えていた。…

※「ルートウィヒ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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