フランスの外交官。スエズ運河会社の設立者。カイロ、アレクサンドリアの領事になり、エジプトの王子サイードの親交を得るとともに、当時サン・シモン主義者が提唱していた地中海と紅海を結ぶスエズ運河の計画に興味をもつようになった。1849年のウディノ将軍麾下(きか)のフランス軍のローマ進攻の際に外交交渉の任務を負ったが、ローマ共和国との協定が越権行為であると譴責(けんせき)され、外交官を辞した。1854年にサイードが総督の座につくと招かれてエジプトに渡り、総督サイード・パシャの特別の取り計らいを得てスエズ運河会社を設立した。皇后ウジェニーとナポレオン3世に支援されながら、諸困難を不屈の信念で克服して、ついに1869年11月に運河の開通に成功した。この功績によって科学アカデミー会員に選ばれた。さらに、1881年には設立されてまもないパナマ運河会社の社長に就任し、パナマ運河開削という難事業に取り組んだ。1884年にフランス・アカデミー会員に選ばれたが、会社のほうは、難工事、乱脈経営に資金調達の行き詰まりが重なり、1889年に破産した。そしていわゆるパナマ疑獄事件(パナマ事件)が起こった。レセップスは背任と詐欺のかどで禁錮5年と罰金3000フランの刑を科された。最高裁判所は時効を援用して無罪にしたが、事業の失敗から精神障害を起こし、痛ましい晩年を送らねばならなかった。
[本池 立]
フランスの外交官。エジプト駐在外交官の子として生まれ,彼自身外交官としてカイロとアレクサンドリア(1833-38)に駐在し,この間にサン・シモン主義者のスエズ運河開削案に興味をもった。全権大使としてマドリードに派遣され(1848-49),1849年にはローマ共和国と教皇の間の交渉に携わった。再びエジプトに戻り,58年エジプト太守からスエズ運河独占権をえて,スエズ運河万国会社を設立した。幾多の困難の後,69年皇后ウージェニー臨席のもとでスエズ運河開通式を挙行した。80年にはパナマ運河開削のための会社を設立したが,結局失敗し,疑獄事件を起こして不遇のうちに没した。
→スエズ運河
執筆者:木下 賢一
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1805~94
フランス人外交官。各国勤務ののちに,1854年エジプトに招かれスエズ運河建設の利権を得た。59年工事開始,69年完工。パナマ運河建設も計画したが,ついに果たせなかった。
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…エジプトはこの二大プロジェクトに要する費用を英仏などからの借入れに頼ったことから財政的に行き詰まり,やがてイギリスの経済的・政治的支配を許すことになるのである。 フランス人レセップスは1854年スエズ運河の利権を入手し,58年にスエズ運河会社を設立,翌59年には建設工事に着工した。10年の工期を要して69年総延長162.5km(その後付け加えられたポート・サイド・アプローチ・チャンネルとスエズ・エントランス・チャンネル部分も含めれば188.5km)のスエズ運河は完工した。…
…A.vonフンボルトは,カリブ海に注ぐアトラト川と太平洋に注ぐサン・フアン川の上流とを結んだラスパドゥラ運河があったと伝えているが,確認されていない。1881年パナマにおける運河の本格的建設に乗り出したのは,スエズ運河建設者のレセップスであった。しかし彼には土木工学の知識はなく,資金も一部幹部に着服されて,89年に計画は挫折。…
※「レセップス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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