アメリカの宇宙物理学者、実験物理学者。ナチス政権下のドイツのベルリン生まれ。神経学者の父がユダヤ人であったため一家は、チェコのプラハに強制退去させられた。ドイツ軍のチェコ侵攻を機に、1939年1月ユダヤ教徒のつてをたどりアメリカのニューヨークに移住。1955年マサチューセッツ工科大学(MIT)卒業、1962年に同大学からPhD(博士号)を取得した。1960年からタフツ大学で講師、助教授として物理学を教え、1962年からプリンストン大学の研究員、1964年にMIT助教授、1967年から準教授。1973年から2001年までMIT教授。現在は同大学名誉教授。
ワイスは、アインシュタインが1916年に存在を予言した重力波の観測に、長年かかわった。重力波とは、大きな質量をもつ物体が動いたときに時間、空間のゆがみ(時空のゆがみ)が、さざ波のように伝わる現象である。ワイスがMITでアインシュタインの相対論を教えていた1969年に、アメリカのメリーランド大学教授ジョセフ・ウェーバーJoseph Weber(1919―2000)が、「重力波を検出した」と発表した。それは、長さ1.5メートル、直径0.9メートルの円柱型のアルミ共鳴バーで検出するもので、多くの研究者が追試を試みたが、その後、数年経ってもだれも再現できなかった。ワイスは、1973年に共鳴バーではなく、干渉計による重力波の検出のアイデアを思い付き、1.5メートルの腕をもつ干渉計を制作した。この装置は、レーザー光を直角(L字型)の2方向に分け、一定の距離を置いたところで鏡に反射させ、戻ってきた光を干渉させるものである。この際に干渉縞(じま)が観察されるが、この2方向の距離に変化が生じると、干渉縞が変化するという原理である。ワイスは2方向の腕の長さを5メートル、30メートルと伸ばしていったが、うまくはいかなかった。しかしその干渉計は、今日のレーザー干渉計装置につながるものとなった。
その後、ワイスとは別に重力波検出実験を行っていたカリフォルニア工科大学教授(当時)のキップ・ソーンと手を組み、1980年代に、重力波を検出する大型のレーザー干渉計重力波観測装置「LIGO(ライゴ)」(Laser Interferometer Gravitational-Wave Observatory)計画を立ち上げた。1989年から建設が始まったLIGOは、長さ4キロメートルのパイプ2本が直交するL字型の施設で、アメリカ北西部ワシントン州のハンフォードの大草原と、そこから3000キロメートル離れた同南部ルイジアナ州リビングストンの湿地帯に2基設置された。LIGOでは、同時に発射されたレーザー光が先端の鏡で反射し、光の到達時間から長さの変化を観測している。重力波が到達すると、時空のゆがみで、パイプが伸び縮みし、光の到達の時間差に変化がみられる。レーザー光の正確な制御、精度の高い鏡の反射、誤差が許されない巨大実験施設の管理を仕切るために、1994年から高エネルギー物理学の実験家でもあるカリフォルニア工科大学教授(当時)のバリー・バリッシュが、LIGOの責任者として計画に加わり、1000人規模の研究者が参画する巨大科学プロジェクトに発展。ワイスはバリッシュの下(もと)、科学協力チーム(LSC)を率いた。2002年から観測を開始し、しばらく重力波の観測はなかったが、検出感度を高めた改良型の「Advanced LIGO(アドバンスドライゴ)」の本格運用を始める数日前の2015年9月14日に、約13億年前に二つのブラックホールの合体で生じた重力波の観測に成功した。最初はリビングストンで観測され、その7ミリ秒後にハンフォードで観測された。重力波によるゆがみは、わずか250兆分の1ミリで、これによってブラックホールの性質や宇宙誕生直後のようすなどが解明されると期待されている。
ワイスは、全天から降り注ぐマイクロ波(電磁波)である「宇宙マイクロ波背景放射」(CMB=Cosmic Microwave Background Radiation)を観測する測定器のパイオニアでもある。1989年に打ち上げられたNASAの宇宙背景放射観測衛星「COBE(コービー)」(Cosmic Background Explorer)衛星の実験部門の責任者としてかかわった。
2006年COBEチームの一員としてグルーブ賞、2007年アインシュタイン賞、2016年LIGOチームとしてグルーブ賞、ショウ賞、カブリ賞。2017年「LIGOへの決定的な貢献と重力波の観測」により、アメリカの物理学者キップ・ソーン、バリー・バリッシュとノーベル物理学賞を共同受賞した。
[玉村 治 2018年2月16日]
アメリカの大手医薬品会社。旧社名はアメリカン・ホーム・プロダクツAmerican Home Products Corp.(略称AHP)。2002年現社名に改称した。
アメリカン・ホーム・プロダクツは、1926年ワイス・ケミカルWyeth Chemical(1909年創立)とその子会社3社の持株会社として設立されたが、その起源は、1860年創業者ジョン・ワイスが兄弟のフランクとペンシルベニア州フィラデルフィアに開業した小さな薬局にさかのぼる。1931年AHPはジョン・ワイスの息子スチュアートがハーバード大学に遺贈した企業であるジョン・ワイス・アンド・ブラザー社John Wyeth & Brotherを買い取った。1943年にはホルモン剤(複合エストロゲン)や麻酔薬などを扱っていたカナダの企業を買収してエアスト・ラボラトリーズAyerst Laboratoriesとし、また医薬品企業を統合してワイス・ラボラトリーズ部門を形成した。さらに1944年、海外販売強化のためワイス・インターナショナルを設立した。
1957年には大衆薬・トイレタリー製品、化粧品部門を設立。1960年代にかけて、多数の家庭用品メーカーや食品企業を買収、多角化を推進した。1982年シャーウッド・メディカルを買収して医療機器市場に参入。1987年ブリストル・マイヤーズ(現ブリストル・マイヤーズ・スクイッブBristol-Myers Squibb Co.)の動物薬部門、1988年パーク・デービスParke-Davisの動物薬部門を買収してAHP動物薬部門に統合、動物医薬品分野で全米3位に浮上した。1988年には、著名な大衆薬をもつ中堅医薬品企業A・H・ロビンズを買収ののち、1994年11月有力な医薬・農薬企業であるアメリカン・サイアナミッドを買収、世界最大手の医薬品企業の一つになった。
以後、1996年に食品事業を売却、1997年から1998年には医療機器や病院用品事業から撤退、2000年には農薬部門のサイアナミッドをBASFに売却するなど、多角化路線を修正した。他方、1996年の、バイオテクノロジー企業ジェネティックス・インスティテュートGenetics Instituteの完全取得、ベルギーの医薬品・化学会社ソルベイSolvay SAの動物薬部門買収、1998年の栄養補助薬品会社の取得などにより、医療用医薬品、バイオテクノロジー、大衆薬・栄養補助・ハーブ製品、動物薬の4分野で世界的展開を図っている。2001年の売上高は141億2850万ドル、うち医療用医薬品が81%を占める。
[田口定雄]
2009年1月にアメリカの同業大手ファイザーにより、総額680億ドルで買収されることが発表され、同年10月に統合が完了した。2008年の売上高は228億3390万ドル、うち医療用医薬品が41%を占めた。
フランスの物理学者。チューリヒ工科大学、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に学び、磁気の研究を行う。1918年ストラスブール大学の物理学教授となる。ランジュバンの常磁性に関する熱統計の理論を拡張して、強磁性体の原子磁気モーメントは分子磁場とよばれる磁場のために平行に整列しているという強磁性の理論をたてた。その後に量子力学が成立してから、分子磁場はスピン間の交換力にほかならないことが明らかにされたが、この理論は第一次近似として磁性研究に応用され、たとえばL・ネールによる反強磁性やフェリ磁性の研究において発展的に活用されている。分子磁場は、しばしばワイス磁場ともよばれている。
[今野 宏]
ユダヤ系のドイツ語作家、劇作家。11月8日、ベルリン郊外に生まれる。ナチス時代に亡命し、国籍は1945年以降スウェーデン。46年ころから内向的な実験小説や戯曲を書き始めるが認められないまま、50年代はおもに絵画や映画製作に携っていた。60年、8年前に書いたヌーボー・ロマン風の小説『御者のからだの影』が認められて、作家活動を再開する。まず小説『両親との別れ』(1961)、『消点』(1962)で、孤独なアウトサイダーとしての自らの生い立ちを克明につづったのち、64年、戯曲『サド侯爵の演出のもとにシャラントン保護施設の演劇グループによって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』を発表、革命家マラーと個人主義者サドの対立を虚実入り交じった劇中劇形式のなかに描いて、一躍世界的な名声を得る。以後、政治参加の立場を表明し、『追究』(1965)、『ベトナム討論』(1968)などの作品で、被抑圧者たちの解放の闘争を巨視的にとらえた特異な集団舞台を試みた。さらに、戯曲『亡命のトロツキー』(1970)、『ヘルダーリン』(1971)を経て、虚構の自伝小説の大作『抵抗の美学』三巻(1975~81)を完成させたが、翌82年5月10日急死した。
[西尾直樹]
『柏原兵三訳『両親との別れ』(1970・河出書房新社)』▽『内垣啓一・岩淵達治訳『マラーの迫害と暗殺』(1967・白水社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
スウェーデン国籍のユダヤ系ドイツ語作家・劇作家。ベルリン郊外に生まれ,プラハで美術を学んだが,ユダヤ人迫害を逃れた一家とスウェーデンに移住した。そこで自己閉鎖的な世界に閉じこもり,前衛美術や映画の製作に没頭した。第2次大戦後にドイツ語で作家活動を行うことを決意し,内向的傾向の強い実験小説や自伝を発表した。しかし,しだいに社会との接点を求めるようになり,外向性へと変貌していく。個人主義と全体主義を対置させて第三の立場を求めた《マラ/サド劇Marat/Sade》(1964)の成功が転機となって,個人主義を清算したワイスは,世界を抑圧から解放する闘争に参加することを決意し,形式的にも新しい政治演劇《追究》(1965),《ルシタニアの怪物の歌》(1967),《ベトナム討論》(1968)を発表した。これに続く《亡命のトロツキー》(1970)では教条的左翼と一線を画し,《ヘルダーリン》(1971)によってこの狂気の詩人に新たな評価を与えた。しかし,ライフワークともいうべき虚構の自伝小説《抵抗の美学》3巻を完成した直後に急死した。
執筆者:岩淵 達治
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