一番町(読み)いちばんまち

日本歴史地名大系 「一番町」の解説

一番町
いちばんまち

[現在地名]高岡市一番町

御馬出おんまだし町から北に折れ、南北に延びる両側町で、西は守山もりやま町。本町で、町名は慶長一四年(一六〇九)高岡城築城に伴い、射水いみず津幡江つばたえ(現新湊市)の庄左衛門、作道屋助次郎が入り、一番に町立てされたことによるという(高岡町由緒聞書)。三番町・源平板屋げんぺいいたや町とともに一番街いちばんまち通と称され、前田利長から拝領したという御車山を共同で管理する。時割は六時一歩七厘、地子地二九七歩四厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千四八〇坪四合(沽券調総計帳)


一番町
いちばんまち

[現在地名]大野市ほん町・もと町・明倫めいりん

一番通の両側町。本町ともよんだ。通りの中央を用水が流れ道幅五間。西は芹川せりかわ用水を挟んで武家屋敷やなぎ町に接し、東は二番にばん町。七間しちけん通を境に南と北に分けかみ町・しも町とした。下町は美濃街道沿いで商店が並び、上町には町蔵(町役場)が置かれた。

寛保三年(一七四三)の町絵図(「奥越史料」所収)によれば上町は高二九・八九四九石で家数四八、下町は高四三・六三二五石で家数七五であった。


一番町
いちばんちよう

[現在地名]明石市日富美町ひふみちよう岬町みさきちよう大観町たいかんちよう

西樽屋にしたるや町の南側にあり、山陽道に直角に接して南に延びている両側町。東は二番にばん町、西には明石川の自然堤防沿いに土居が築かれていた。当町の北端は西樽屋町の西端にあたり、城下町の西の入口である姫路口御門のすぐ南側に位置していた。なお南側には寺院が並び、姫路口御門とともに城下町の戦略的拠点となっていた。初めは明石藩の人足一番組が住んだが、のち武家屋敷が不足したため家中町とし藩士を住まわせた(明石名勝古事談)。なおそのため人足たちは明石城郭内の山下やました町に集められた(同書)。享保年間(一七一六―三六)の明石城下図、文久三年(一八六三)の明石町旧全図に町名の記載がある。


一番町
いちばんちよう

[現在地名]千代田区三番町さんばんちよう

明治五年(一八七二)に成立。東は内堀(千鳥ヶ淵)、西は上六番かみろくばん町・上二番かみにばん町、南は五番ごばん町、北は富士見ふじみ町一丁目。江戸時代には旗本屋敷が連なる番町の東端部分で、御堀端一番町おほりばたいちばんちよう通より西、新道一番しんみちいちばん町の東側・西側、新道二番町の東側・西側、麹町三丁目谷こうじまちさんちようめたに通の東側に相当。番町は江戸開府当初よりの武家地で、正保期(一六四四―四八)には一面武家屋敷であった(正保江戸絵図)。なおこの当時あった西へ食込んだ掘割はその後埋立てられ、寛文期(一六六一―七三)にかけて屋敷地はさらに広がっている(寛文新板江戸絵図)。元禄一〇年(一六九七)半蔵はんぞう御門外堀端通より田安たやす御門外元飯田もといいだ町辺りまで幕府の用地となり、八八軒の屋敷が召上げられたが、その後南北に走る御堀端一番町通、麹町三丁目谷通・新道二番町通・新道一番町通が開通し、一帯は再び屋敷地となり、宝永七年(一七一〇)には上野伊勢崎藩酒井家・近江膳所藩分家本多家が上屋敷を構えている。


一番町
いちばんちよう

上京区仁和寺街道七本松東入

町のやや東寄りを南北に七本松しちほんまつ通が通り、南は仁和寺にんなじ街道、西はしももり通。平安京大内裏の「兵庫寮」から「大蔵庁」にかけての跡地(「拾芥抄」宮城指図)

天正一五年(一五八七)内野うちのの東北に聚楽第じゆらくだいを造営した豊臣秀吉は、内野大名でない武士たちを集住させ、六軒町ろつけんちよう通仁和寺街道を中心に七ブロックに区分し、一番から七番までの番号を付した。これが一番町から七番町までの町名の起源である。


一番町
いちばんちよう

[現在地名]弘前市一番町

城の南東に位置し、東は土手どて町、西は下白銀しもしろがね町、北は鉄砲てつぽう町、南は親方おやかた町に接し、土手町から元寺もとてら町に至る坂の途中の町並。

寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)に、土手町から本(元)寺町へ通じる道路のうち、百石ひやつこく町と本寺町の間の白銀しろがね町一丁目として町割されているのが、現在の町域である。土手町木戸からの軒数は一四で、いずれも町屋。宝暦六年(一七五六)の弘前町惣屋鋪改大帳(同館蔵)には東長ひがしなが町支配の一町として町名があり、町屋は一八軒。


一番町
いちばんちよう

[現在地名]松山市一番町三―四丁目

松山城下町のほぼ中央部、かつ(城山)の南麓近くを東西に通ずる町筋。東は御宝みたから町、西は城堀、南は二番にばん町、北は勝山に接する。古くはこの地域を広く代官だいかん町と総称したようで、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)と推定される松山秘図(伊予史談会蔵)に代官町一番町と記入されているのを初見とする。また同図により山根やまね町ともよばれていたことがわかる。家老職の菅氏・奥平氏をはじめ、高禄の武士の居住地であった。


壱番町
いちばんまち

[現在地名]富山市一番町いちばんまち

越前えちぜん町の東に続き、北陸街道(巡見使道)に沿う両側町。本町のうち。富山城の大手先から東に壱番・弐番・三番と順番につけられた。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば、延宝三年(一六七五)の細野焼けとよばれる大火後、富山城の大手先にあたる要地ゆえ、その品格を保つため、棟高く家作りするよう藩から命じられ、御救銀などの補助が与えられたという。安永八年(一七七九)の本家数三一・貸家数二四、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


一番町
いちばんちよう

[現在地名]福江市大荒町おおあらちよう 一番町

福江城の西、福江城下の外縁を守衛する位置にある。正保四年(一六四七)に町割された三ヵ町の一つで(五島編年史)、弓衆が集住した。延宝六年(一六七八)の諸役付万定書(青方文書)では「壱番町」番役として小頭二・組子一五が勤めた。文化一一年(一八一四)一番町で出火、三軒が焼失(増補継志系図)。当町のほか二番町・三番町・角屋(角屋町、御料理人)小人こぶと町を合せて五町と称したという(五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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