改訂新版 世界大百科事典 「丁若鏞」の意味・わかりやすい解説
丁若鏞 (ていじゃくよう)
Chǒng Yag-yong
生没年:1762-1836
朝鮮,李朝後期の実学思想の集大成者。字は美鏞,号は茶山,俟菴,与猶堂。全羅道羅州の人。京畿道広州の馬峴で生まれた。1789年科挙試の文科に及第,官職は副承旨,刑曹参議に至り,正祖の信任が厚かった。南人派の学者だが,老論派の朴斉家とも交わり,その北学論に共鳴した(〈党争〉の項を参照)。文章,経史に卓越したばかりでなく西学(洋学)の造詣も深く,正祖に城制改革案を上疏,スイス人テレンツP.J.Terrenzの《奇器図説》を参照して作成した《起重架図説》を国王に献呈し,水原城の築造工事には,これによって製作した滑車や鼓輪を利用した。彼は西洋の科学技術面だけでなく,思想的にも天主教(カトリック)に傾倒し,1801年の天主教弾圧事件(辛酉教獄)では長兄丁若鍾は杖殺され,次兄の丁若銓は黒山島,彼は全羅道康津に流配された。500余巻にのぼる彼の著作は,康津での18年間の流配期と,その後の晩年に完成したものである。文集《与猶堂全書》は,〈修己〉のための六経四書の注釈と,〈経世〉のための一表二書(《経世遺表》《牧民心書》《欽々新書》)とからなる。〈自撰墓誌銘〉のなかで前者を〈本〉とし,後者を〈末〉として,本末を備えたと書いている。彼の現実改革をめざす経世思想は,その哲学的な経学研究の基礎のうえに構築されたものである。
執筆者:姜 在 彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報