一般には実証性に裏づけられ,実際生活の役にたつ学問の意。その他,現実的な学問,道徳的実践の学,人間的真実の追求の学,政治的実践の学など多義にわたり,時代により異なる。
日本で実学という概念が思想史にはじめて登場するのは,彼岸の生活を実在とするのではなく現実生活を重んずるようになった17世紀,江戸期からとみてよい。江戸前期では,仏教を虚学とし,儒教とくに朱子学を実学と考えた林羅山,中江藤樹らによれば道徳的実践,人間的真実の追求こそ実学と考えられた。古学派があらわれるに及び,山鹿素行は日常生活における道徳的実践と結びついた学問を実学とし,荻生徂徠によると歴史学にみられる事実に即した学問のなかに実学は成立すると考え,価値判断から自由な事実認識の上にたつ実証的な学問こそ真の学問であるとして,従来の道徳的実践を中心におく学の大変革を行った。
徂徠以後,実学思想は一変した。中期になると,山片蟠桃などは天文地理と医術のようなものを実学と考え,海保青陵は学問を経世済民という目的に奉仕すべきもの,今の世に役だつ学問こそ実学とした。本多利明にいたると,蘭学の影響を受け,西洋流の航海術,天文・地理,算数などの海外交易に役だつ学を実学と考えた。
幕末・維新期における実学は,政治と経済を統合する学と目された。在野の洋学者たちは国防の危機や国内の社会不安の解決のため洋学こそ有用急務の実学とみなした。佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。
明治以降となると,江戸期の学問はすべて空理を論ずる虚学とみなし,江戸末期の和魂洋才論的な発想の実学者たちが,あくまで儒学の優位性を主張したのに対して,西洋の政治,経済,哲学,軍事学をそれに代わるものとした。いわゆる倫理を中核とした実学から,科学を中核とした実学への転回が行われたのである。この考え方は1872年(明治5)の〈学制〉の指導理念となった。代表的な実学者としては,西周(あまね),津田真道(まみち),加藤弘之,神田孝平,福沢諭吉,箕作麟祥(りんしよう)らが数えられる。西周は健康,知識,富有の三つを人生の宝とし,市民社会的倫理を基盤とする実学を主張,津田真道は朱子学的なリゴリズムからの人間性の解放を唱え,情欲を人間性の基本とするが,知識と慣習による情欲こそ開化人特有の情欲であり,天理と人欲は相反するものでないと考えた。福沢諭吉は《学問のすゝめ》等の初期代表作において,独立自尊にもえた平等な人間関係に基づく実学を主張した。
執筆者:塚谷 晃弘
中国で実学という場合,まず儒学が本来備えている経世致用の学を念頭におかねばならない。したがって道家思想は玄虚無用を主旨とするために実学に反するものであり,仏教もまた,一切空を根本とするかぎり,やはり実学に反するものである。しかし,儒家に実学としての反省がおこるのは,道・仏2教の思想的圧倒をはねかえそうとする動きの始まる時代,すなわち北宋時代以後である。それは程顥(ていこう),程頤(ていい)にはじまり朱子に受けつがれ,彼の対立者である陸九淵(象山)さえも,仏教の空理に対して実用の学を強調した。明代にいたって,王守仁(陽明)も実学を天理にかなうものと説いた。下って明末・清初の顧炎武の学問は実学と評され,顔元は明らかに実学を標榜した。しかし清代,乾隆帝が四庫全書館を開いて学術を奨励して以後,実学は,宋・明の性理学を空虚なものとして排する訓詁考証の学の意に変わり,戴震,章学誠らは実学の典型として尊敬された。このような考証学にも,やがて清代後半期,内外の危機が深刻になるにともない,かえって非実用的との批判が高まり,再び経世致用の学の回復が求められるようになった。そこで朱子学的色彩をおびた公羊学(くようがく)が,経世致用の学として台頭するのである。
執筆者:坂出 祥伸
朝鮮の伝統儒教である朱子学が李朝中期ごろからしだいに現実ばなれして虚学化したのに対し,儒学内部からの内在的批判を通じて登場した〈実事求是〉の思想および学問を実学といい,その学派を実学派と呼ぶ。本来儒教における実学とは,道徳的実践の学問のことであるが,ここにいう実学とは,実証性と合理性に裏づけられた現実有用の学問という意味である。宋学=程朱の学が伝わったのは高麗末期の13世紀末であるが,それは高麗王朝の建国理念としての仏教の退廃と,僧侶の無為徒食に鋭い批判の矢を向け,鄭道伝らをはじめとする改革派の儒者たちは,武人李成桂を推戴して李朝を創建し,崇儒排仏をもって建国理念とした。李朝初に朱子学は,新しい国づくりのための現実有用の学として機能を発揮したが,16世紀ごろからは〈理〉と〈気〉,〈四端〉と〈七情〉など,あまりに現実ばなれした形而上的な思索と論議にふけり,そのような見解によって分かれた学派は,17世紀に入ると執権の座をめぐる党派争い(党争)と結合し,その弊害は座視できなくなった。本来の李朝の政治は士=儒者による文治主義がとられたため,儒者間の分裂と対立は,民生問題を置きざりにした政治的混乱の原因となった。
17世紀半ばに柳馨遠(りゆうけいえん)は,《磻渓(ばんけい)随録》において社会制度の歴史的考察とその改革案を展開して実学思想の体系化をはかり,それは18世紀前半期に李瀷(りよく)に受けつがれて,その門から輩出した安鼎福,尹東奎(いんとうけい),李家煥,丁若鏞(ていじやくよう)らによる経世致用学派=星湖学派(星湖は李瀷の号)を形成した。当時,士大夫たちは老論,少論,南人,北人の四色党派に分かれていたなかで,星湖学派は南人派に属する。他方,老論派のなかからも虚学化した伝統儒教を内在的に批判して,〈利用厚生〉による生産力の発展と民生問題の解決を主張した利用厚生学派=北学派が形成され,洪大容,朴趾源(ぼくしげん),朴斉家らがこれに属する。彼らは朝鮮儒教の〈尊明排清〉の風潮を批判して,〈利用厚生〉のためには北=清の長所から学ぶばかりでなく,入清したイエズス会士を通じて西洋の科学技術からも学ぶべきだと主張した。これらの実学思想が全盛をきわめたのは英祖(在位1725-76)から正祖(在位1777-1800)の治世期で,とりわけ李家煥,丁若鏞,朴斉家らは正祖の信任厚く要職に就いた。
ところが星湖学派の少壮派のなかには西洋の学術ばかりでなく,天主教(カトリック)に傾倒して入信する者が続出し,1800年の正祖の死とともに登場した老論派政権によって,01年の天主教弾圧(辛酉教獄)が行われ,星湖学派は再起不能の打撃をうけた。西学=洋学に対する禁圧は天主教に限らず,科学技術を含めた西学一般に拡大解釈され,老論派の北学派も自然消滅した。1870年代までの朝鮮思想界は〈正学〉としての朱子学を固守し,〈邪学〉としての西学を退ける〈衛正斥邪〉思想が支配的風潮となり,実学思想は李圭景,金正喜,姜瑋(かんい)など一部の学者によってからくもその命脈をつないだが,70年代に朴趾源の孫朴珪寿(ぼくけいじゆ)の門からそれを継承した開化派が形成されるにいたった。
→開化派
執筆者:姜 在 彦
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実用的な学問。江戸時代、思弁性の強い仏教や形而上(けいじじょう)的な朱子学に対して、道義を重んじ活動主義を唱える伊藤仁斎(じんさい)や、「経世済民の学」を主張する荻生徂徠(おぎゅうそらい)らは、実学を重視し、学問の実用性や日常的・社会的実践性を強調した。また農工商などの産業経済の発達は実業的な知識、技術を必要とするようになったため、「読み書きそろばん」をはじめ、農学、本草(ほんぞう)学、天文学、暦学、医学などの経験的・実証的な学問がおこってきた。さらに享保(きょうほう)期(1716~36)以降、西洋の自然科学の導入が始まり、技術中心ではあったが蘭学(らんがく)もおこった。
幕末維新以降は、欧米近代文明の摂取が本格化し、洋学が、文明開化、近代化の推進に必須(ひっす)なものとして奨励され、実学の中心となっていった。福沢諭吉は、『学問のすゝめ』(初篇(へん)1872)のなかで、従来の和学・儒学を「学問の実に遠くして日用の間に合はぬ」と排斥し、「人間普通日用に近き実学」こそ新しい学問だと主張、学問を庶民一般に開放するとともに、実学の性格を明確にした。以後、近代の学問は、資本主義の発達と結び付いて、法律・経済などの政策科学や数理工医などの実験科学の発達にみられるように実学が主流となり、理想主義的なまた非実用的な学問は「虚学」として軽視されるようになった。しかし学問の分化、専門化は著しく、徂徠や福沢が目的とした、学問をいかに人間生活に結合させるか、との実践的態度に支えられた実学は、逆に廃れていったともいえよう。
[松永昌三]
字通「実」の項目を見る。
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社会に役立つ学問の意味で,虚学との対。明末に経世致用の学が重んじられるなかで,実証主義的な考証学が成立するとともに,農業や各種産業に関係する実用的技術書が盛んに刊行された。徐光啓(じょこうけい)の『農政全書』や宋応星(そうおうせい)の『天工開物』などがある。背景には,明代後半期の手工業の発展やイエズス会の宣教師の影響などがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…国家は《三綱行実図》をつくって孝子,忠臣,烈女の顕頌を行い,ハングル訳を付して庶民の教化に努めた。 しかし朝鮮儒教にも以上の性理学(道学),党争,礼学中心の儒教とはちがう新しい学風としての実学が18世紀に開花する。それは儒教本来の経世済民にたち返った学問ともいえる。…
…藩校時習館に学び,居寮長に進んだのち江戸に遊学したが,酒で失敗して帰国させられた。1843年(天保14)ごろ同志と実践的朱子学のグループを結成して学問と政治の一致を目ざし,〈実学〉を唱えた。また同じころ私塾を開いた。…
…朱子学的倫理は家父長制,孝悌や家への忠節,男尊女卑,血族(親族・宗族)重視などの規範を民衆を含む朝鮮人社会に根深く定着させ,幾多の弊害も残したが,他方では名分論,徳義論に基づき礼を重んじ,覇道より王道,政治権力より思想的正統性を尊重し思想に殉ずることを尊しとする気風,それこそが士=知識人であるとする気風,白か黒かをはっきりさせ,あくまでも道理を通そうとする人間タイプを尊重する気風を強めた。そうした正統主義は一面では士禍や李朝後期の党争を生んだが,他面では吉再,金宗直,趙光祖,李退渓,徐敬徳,李栗谷らの士林派や李朝後期の実学,末期の衛正斥邪論(侵略に対する民族的抵抗)を生み出した。また朱子学のみを正当とする意識は漢字・漢文学を正式なもの,ハングルは〈諺文〉(地方的なもの),ハングル文学は男性の文学ではなく女性の文学とする傾向を生み,朝鮮文字・朝鮮文学の発展・普及をさまたげた。…
※「実学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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