七寺(読み)ななつでら

精選版 日本国語大辞典 「七寺」の意味・読み・例文・類語

ななつ‐でら【七寺】

  1. 名古屋市中区大須にある真言宗智山派の寺、長福寺別称山号、稲園山。天平七年(七三五行基開創と伝えられる。享保一五年(一七三〇)以後、尾張徳川家菩提所となった。

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日本歴史地名大系 「七寺」の解説

七寺
ななつでら

[現在地名]中区大須二丁目

稲園山と号し、真言宗智山派。本尊は木像阿弥陀如来坐像。昔は中島郡ななでら(現稲沢市)の地にあって正覚しようがく院と称していた。寺伝によれば、行基が天平七年(七三五)秋に開いたという。延暦六年(七八七)一二月、河内権守紀是広が七区の伽藍、一二の僧坊を再建し七ッ寺の俗称が生じた(尾張志)。その後、地震による倒壊や平将門の兵乱に遭って荒廃が続いたが、仁安二年(一一六七)九月、尾張権守安長が亡女のため女婿豊後守親実の協力をえて中興長福ちようふく寺と改称した(府志)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「七寺」の意味・わかりやすい解説

七寺
ななつでら

愛知県名古屋市中区大須(おおす)にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の寺。735年(天平7)行基(ぎょうき)の開創。稲園山正覚院長福寺(とうえんざんしょうがくいんちょうふくじ)と号した。787年(延暦6)河内権守(かわちごんのかみ)の紀是広(きのこれひろ)が7歳で死んだ愛児光麿(みつまろ)の菩提(ぼだい)のため、七区に仏閣と12の僧坊を建立した。以来、俗に「七つ寺」と称されるようになった。その後、たびたびの兵乱により伽藍(がらん)を焼失、寺基を中島郡七寺村(現、稲沢市)に、さらに清洲(きよす)(名古屋市北西)に移してのち、1611年(慶長16)現在地に移った。1730年(享保15)には伽藍ようやく調い徳川藩主の祈願所となり、1879年(明治12)智積院(ちしゃくいん)末寺となる。1945年(昭和20)3月戦災により本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)とともに堂宇を焼失したが、さいわい脇侍(わきじ)の観音・勢至菩薩坐像(せいしぼさつざぞう)は残り、現在、国の重要文化財に指定されている。また「紙本墨書一切経」4954巻(国重要文化財)は、尾張権守(おわりごんのかみ)大中臣朝臣(おおなかとみのあそん)安長(やすなが)が亡き娘の菩提のため、能筆の人を広く探し求めて1175年(安元1)より1178年(治承2)に至る4年間に書写させたもので、現存一切経では五番目に古いものとされる。

[野村全宏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「七寺」の意味・わかりやすい解説

七寺
ななつでら

名古屋市中区にある真言宗智山派の寺。奈良時代末頃,正覚院の知光が,秋田任地にある父紀是広を慕ってきて病没した光麿を念じて,薬師如来を安置して修法した結果,しばしの間よみがえらせて父に対面させることができたといわれる。是広は正覚院の地に7つの仏殿を建て光麿を弔い,そのため七寺といわれる。水害や火災,移転などののち豊臣秀吉,徳川氏の保護を得た。

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