万年山(読み)まんねんやま

日本歴史地名大系 「万年山」の解説

万年山
まんねんやま

山山頂から尾根を西へ五〇〇メートル、標高二七一メートルの稜線北側の斜面を山裾の南佐古みなみさこ四番町に至るまで、東は清林せいりん谷、西は巴蛇ともえじや谷の間で区画した、面積約一六ヘクタールの山林。明和三年(一七六六)一一月に徳島藩一〇代藩主蜂須賀重喜が一族の墓域と定めて造成した儒葬墓地で、名称は長寿を祝う万年も変わることなく永く続くの意から名付けたらしい。御墓山ともよばれた。中腹の標高一六五メートル地点に高さ約三メートル・幅約八メートル、厚さ約一・二メートルの結晶片岩が地表に露出した岩盤に造った自然石の碑がある。この銘文によれば、万年山は東西一七九歩(約三二二メートル)、南北四四九歩(約八〇八メートル)。蜂須賀家の菩提所は国元では興源こうげん寺、江戸では海禅かいぜん(現東京都台東区)という臨済宗京都妙心寺末の寺院で、墓所はそのいずれかに置かれるのが通例であったが、儒学に傾倒した重喜はここに新たな儒葬墓地を設け、埋葬墓を儒式で万年山へ、遺髪を従来の興源寺墓所に納めて拝み墓とする両墓制とした。

初めて万年山の標高五五メートルの西側台地に埋葬されたのは、明和三年一一月三日に生後三ヵ月で死去した重喜の五子で長女の簾(秋露)であった。藩主では隠居していた八代宗鎮が安永九年(一七八〇)八月二七日に没し、葬られたのが最初で、簾を埋葬した公子塚(通称姫塚)上部の標高九〇メートルの台地に葬られた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「万年山」の意味・わかりやすい解説

万年山 (はねやま)

大分県中西部,玖珠(くす)盆地の南にある山地で,標高1140m。山頂が平たんな典型的メーサ地形の山で,その形から軍艦山とも呼ばれる。上下2段になった二重メーサであることが特色。上段は上バネといい万年山溶岩からなり,下段は下バネといい筑紫溶岩からなる。ミヤマキリシマが咲く頂上は眺望がすばらしく,九重山,英彦(ひこ)山,鶴見岳,由布(ゆふ)岳がみえる。耶馬日田英彦山国定公園に属し,山頂近くまで自動車で行くことができる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「万年山」の意味・わかりやすい解説

万年山
はねやま

大分県西部、玖珠盆地(くすぼんち)の南西側を限る山。標高1140メートル。標高600~900メートルの含輝石安山岩の溶岩層(俗称下バネ)の上に、東西3キロメートル、南北500~600メートルの万年山溶岩層(上バネ)がのる二重式メサ。山頂にミヤマキリシマの群落があり、九重(くじゅう)・阿蘇(あそ)など四周の展望がよく、耶馬日田英彦山国定公園(やばひたひこさんこくていこうえん)に含まれている。山麓(さんろく)を巡るJR久大(きゅうだい)本線豊後森(ぶんごもり)・恵良(えら)・引治(ひきじ)各駅から徒歩3時間、自動車道もある。

[兼子俊一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万年山」の意味・わかりやすい解説

万年山
はねやま

大分県西部,玖珠町南部,九重町との境界付近にある山。標高 1140m。含輝石安山岩の溶岩層の上に,万年山溶岩層を載せた二重式メサ (溶岩台地浸食を受けて残った二重の台状の地形) である。山頂ではミヤマキリシマ,ドウダンツツジが美しく,九重連山,阿蘇連峰を一望におさめる眺望は雄大。耶馬日田英彦山国定公園に属する。

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世界大百科事典(旧版)内の万年山の言及

【等持院】より

…京都市北区にある臨済宗天竜寺派の寺。山号は万年山。本尊は釈迦如来。…

※「万年山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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