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村垣範正 むらがき のりまさ

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美術人名辞典の解説

村垣範正

淡叟、幕末外交家、函館奉行、神奈川奉行、万延元年開国以来初めて国使として米国ワシントンに赴き条約交換。明治13年(1880)歿、68才。

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デジタル大辞泉の解説

むらがき‐のりまさ【村垣範正】

[1813~1880]江戸末期の幕臣。江戸の人。号、淡叟。安政元年(1854)ロシア使節プチャーチンと応対。のち、箱館奉行外国奉行神奈川奉行・遣米使節副使などを歴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

村垣範正 むらがき-のりまさ

1813-1880 幕末の武士。
文化10年9月24日生まれ。幕臣。安政元年勘定吟味役,3年箱館奉行となり,淡路守(あわじのかみ)を称した。5年外国奉行にすすみ,翌年勘定奉行,神奈川奉行もかねる。万延元年遣米使節の副使をつとめ,「遣米使日記」をのこした。明治13年3月15日死去。68歳。通称は与三郎。号は淡叟(たんそう)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

村垣範正

没年:明治13.3.15(1880)
生年:文化10.9.24(1813.10.17)
幕末の幕臣。範行の次男。村垣家は庭番の家筋。祖父定行の功により天保12(1831)年新規召出となり,小十人格庭番となる。その後細工頭,賄頭を経て安政1(1854)年勘定吟味役となり,海防掛ならびに松前蝦夷地掛となり北蝦夷地を視察。同年帰府後,ロシアのプチャーチン再来時に応接掛として筒井政憲らと共に下田で交渉。同3年箱館奉行に就任,淡路守を称し,機敏にして吏務に練達と評された。同5年外国奉行を兼任し,神奈川開港地決定のため米国と折衝,翌6年神奈川奉行,次いで勘定奉行も兼ねた。万延1(1860)年日米修好通商条約の批准書交換のため副使として正使新見正興らと渡米,世界を一周して帰国。文久1(1861)年露艦ポサドニックの対馬占領事件では退去を求め在箱館露国領事ゴシケヴィチと交渉。以後作事奉行,西ノ丸留守居,若年寄を歴任し,明治1(1868)年病のため隠居。晩年淡叟と号す。<参考文献>『維新史』2巻

(岩壁義光)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

むらがきのりまさ【村垣範正】

1813‐80(文化10‐明治13)
幕末期の幕臣。淡路守を称する。1854年(安政1)勘定吟味役となり,直ちに海防掛と蝦夷地御用取扱を命ぜられ,同年のロシア使節プチャーチンの下田来航にさいして応接した。56‐62年(安政3‐文久2)箱館奉行,58‐63年外国奉行を務め,59年には勘定奉行と神奈川奉行を兼帯した。60年(万延1)日米修好通商条約本書の批准交換のため遣米使節の副使として渡米。この間,詳細な航海日誌を記した。【小野 正雄】

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大辞林 第三版の解説

むらがきのりまさ【村垣範正】

1813~1880) 幕末の幕臣。江戸の人。淡路守。勘定吟味役。ロシア使節プチャーチンとの折衝にあたり、また箱館奉行・遣米使節副使などを務め、幕末期の外交に携わった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

村垣範正
むらがきのりまさ

[生]文化10(1813).9.24. 江戸
[没]1880.3.15. 東京
江戸時代末期の幕臣。淡路守。号,淡叟。勘定吟味役格で,蝦夷地御用として海防の検分を兼ねた。ロシア使節の下田来航に際しては応接に従事。安政2 (1855) 年5月江戸湾台場築造の御用に任じ,同3年7月箱館奉行となり,蝦夷地開拓に尽力。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

村垣範正
むらがきのりまさ
(1813―1880)

幕末期の旗本。外国奉行(ぶぎょう)を勤めるなど外交面で活躍した。『村垣淡路守(あわじのかみ)範正公務日記』などを残している。1831年(天保2)新規召し出されて小十人格(こじゅうにんかく)庭番となり、諸職(しょしき)を経て54年(安政1)勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)に進み、海岸防御のことなどにも関係し、同年10月には川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、下田(しもだ)に来航したロシア使節の応接係を命ぜられた。56年箱館(はこだて)奉行に進み、従(じゅ)五位下、淡路守に叙任された。在任中は蝦夷地(えぞち)の開拓に尽力した。58年外国奉行を兼ね、翌59年神奈川奉行も兼帯した。同年9月日米通商条約批准交換の副使を命ぜられ、60年(万延1)正月、正使新見正興(しんみまさおき)らとともにアメリカに赴き、その功で300石の加増を受けた(計500石)。『遣欧(けんおう)使節日記』がある。同年末プロシアとの通商条約交渉の全権に任ぜられるなどあったが、以後外交面から離れ、作事(さくじ)奉行、西の丸留守居(るすい)などを勤め、68年(明治1)病のため隠居した。[林 亮勝]

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世界大百科事典内の村垣範正の言及

【ロシア軍艦対馬占領事件】より

…幕府は5月外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣したが効果なく,6月藩は幕府に移封願を提出した。その間幕府は箱館奉行村垣範正を通じロシア領事ゴシケビチに退去交渉を行い,8月ビリリョフらは芋崎を退いた。一方,イギリスは前年対馬全島の測量をし,この事件に際しても公使オールコックが幕府に協力を申し出,7月には軍艦2隻を派遣してビリリョフに抗議するなど強く干渉した。…

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