三光政策(読み)さんこうせいさく(その他表記)Sān guāng zhèng cè

改訂新版 世界大百科事典 「三光政策」の意味・わかりやすい解説

三光政策 (さんこうせいさく)
Sān guāng zhèng cè

日中戦争後半期に日本軍がとった燼滅(じんめつ)作戦に対する中国側の呼名三光とは中国語の焼光(焼きつくす),殺光(殺しつくす),搶光(奪いつくす)の三つを指す。1940年後半,中国の八路軍百団大戦と呼ばれる作戦を展開,日本軍に大きな打撃を与えた。新任岡村寧次北支方面軍司令官(中将)は,日本軍の作戦重点を国民党軍から共産党軍に移す方針を打ち出し,共産党の指導するすべての根拠地の周辺に対し,徹底した掃討戦を行った。〈燼滅とは,敵性ありと判断される村落をことごとく--家屋,畜類はもとより住民までも殺戮し,焼き払ってしまい,敵地区との間に無人地帯を設定するのが作戦の主目的であった〉といわれる。岡村寧次は1931-34年の国民党軍の共産党軍に対する瑞金掃討作戦に観戦武官として参加し,それを華北・東北に適用したといわれる。日本側でその一部が明らかになったのは,神吉晴夫編《三光--日本人の中国における戦争犯罪の告白》(カッパ・ブックス,1957年刊,後に右翼妨害にあって絶版)が初めてである。その後も何点か発表されたが,中国取材をもとにした本多勝一《中国の旅》(1971)は,中国側のなまなましい証言を紹介している。三光政策は極東国際軍事裁判ではとりあげられなかったが,それが共産党支配地区でおこった事件だったからとみられている。
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百科事典マイペディア 「三光政策」の意味・わかりやすい解説

三光政策【さんこうせいさく】

三光作戦とも。日中戦争後半期に日本軍が華北の解放区を根絶しようとしてとった作戦に対する中国側の呼称。三光とは中国語の焼光(焼きつくす),殺光(殺しつくす),搶光(奪いつくす)をいう。1940年の後半八路軍が華北で展開した大攻勢で打撃を受けた日本軍は岡村寧次(やすじ)北支方面軍司令官の指揮下,作戦重点を対国民党軍から対共産党軍に移し,民衆と八路軍との結びつきを絶つべく採用した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三光政策」の解説

三光政策
さんこうせいさく

三光作戦とも。日中戦争での日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称。三光とは,殺しつくす,焼きつくす,略奪しつくすの意味。とくに,華北地方の中国共産軍の百団大戦とよばれる大攻勢に対抗するため,共産軍に協力していると思われる農村・抗日根拠地を日本軍が急襲して徹底的に掃討したことからそのように呼ばれたとみられる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「三光政策」の解説

三光政策
さんこうせいさく

日中戦争の後半に日本軍が中国で行った残虐な殲滅作戦に対する中国側の呼称
1940年以降,共産党の八路軍に苦しんだ日本軍の方針とされ,一般住民までを殺害の対象とした。三光とは焼光(焼きつくす),殺光(殺しつくす),搶光(奪いつくす)のことをいう。

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世界大百科事典(旧版)内の三光政策の言及

【太平洋戦争】より

…しかし日本軍の支配は,中国民衆とりわけ中国共産軍の根強い抵抗に脅かされた。日本軍は1941年からとくに華北の中国共産党支配地区に対する〈粛正作戦〉を強化し,中国民衆に対して〈奪いつくし,殺しつくし,焼きつくす〉という〈三光政策〉を繰り返し,中国民衆の憤激と憎しみを買った。また日本軍は,1939年から抗日勢力を分断・壊滅させる目的で,山海関西側の九門口から察哈爾(チャハル)省東部の赤城県独石口東側の老丈まで約850kmに及ぶ万里の長城沿いに,現地住民を強制追放し居住を禁じた広大な〈無住地帯〉と耕作をも禁じた〈無住禁作地帯〉を設ける〈無人区〉作戦を実施し,その幅はもっとも広いところで南北約250km,範囲は25県,総面積は約5万km2に及んだ。…

※「三光政策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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