改訂新版 世界大百科事典 「三圃制」の意味・わかりやすい解説
三圃制 (さんぽせい)
three-field system
Dreifeldersystem[ドイツ]
assolement triennal[フランス]
ヨーロッパ中世で典型的に発達した農法で,穀物畑における3年単位の輪作を根幹とする。三圃農法とも呼ばれる。開放耕地制度と結びついて,農村社会の基礎を構成する制度となった。輪作方法としての三圃制は,耕地を三つの耕圃field(ドイツ語ではFeld,フランス語ではsole)に分割し,一つの耕圃では,第1年度に冬穀物,第2年度に夏穀物を栽培した後,第3年度を休閑するという順序を繰り返し,かつこの順序を耕圃ごとに,1年ずつずらせて,同一年度については,耕地を冬畑,夏畑,休閑地にほぼ均分することを内容とする。比較的広い土地があり,肥料の供給が少ない状況の下で,穀物を主たる作物とする農業を行うために,3分の1に及ぶ耕地をつねに休息させておくことが特徴である。秋に播き,夏の末に収穫する冬穀物は,それぞれ白パンと黒パンの材料である小麦とライ麦で,これを地力の最も回復した休閑後の耕圃に栽培して,当時の主食であったパンのための穀物を確保することを主眼とする。同時に,馬の飼料やビールの原料として使われることの多い大麦とエンバク(燕麦)とを,春の初めに播きやはり夏の終りに刈り取る夏穀物として栽培して,家畜飼養や食生活の多様化をも目ざしている。
この輪作制度では,穀物の播種に先立って,畑をなるべく深く耕起する必要があり,ことに休閑地を数回犂耕して雑草や穀物の刈り株を土中にすき込んで,冬穀物の播種の準備をすることが重要であった。そのために用いられたのが,数頭の牛か馬で牽引する重量犂であったが,これに犂夫も加えると,全体としてかなり長い犂隊となるので,その回転回数をなるたけ少なくするために,一筆耕地も細長い形となることが多かった。また役畜のほかにも,多数の家畜が備えられ,小舎飼養による厩肥を耕地の一部--例えば,播種目前の冬畑--に重点的に施すだけでなく,穀物刈取後の畑や休閑地に放牧することによっても,地力の回復を図っていた。通常家畜の放牧は,穀物が生育中の畑から仕切られたまとまった面積の土地を必要とする。したがって経営面積が限られている農民にとっては,穀物刈取後の耕地を共同に使用することが有利である。このように,3年輪作制度は,共同体的な開放耕地制度と適合関係にあり,村落共同体の成熟とともに,村域全体の組織化と結びついて,厳密な意味での三圃制度となった。
しかし個々の農民に経営上の自由がまったくなかったわけではない。三圃制は穀物畑を主たる場としていたから,庭畑地では多様な作物を栽培することが可能である。穀物畑の一部を手耕農具によって集約的に耕作して,土地生産性を重点的に高めることも行われた。夏畑での豆類の栽培もしばしば行われた。また,領主直接経営を先頭とする大経営が三圃制から免れて,独自の輪作を行っている場合も多い。それだけではなく,一定期間三圃制が中断されて,耕地が草地に戻されたり,三圃制と二圃制が交代したりする場合や,土壌や気候の好条件のもとで,穀物以外の作物が大幅に導入されていた事例も,多数報告されている。こうして現在では三圃制の普及の度合をあまりに高く考えることが戒められており,村落共同体と領主制が発達した地域で通例的であったという意味で,西欧の中世農村に典型的な農業制度,というように考えるべきであろう。
三圃制度は中世初期に成立した。これに先行するのは,ローマ帝国で普及していた冬穀物栽培と休閑を組み合わせた二圃制と,短期間穀物を栽培した後,土地を草地に戻しておく穀草農法とであった。いずれに対しても,三圃制は穀物栽培面積の増加を意味するが,通例,冬穀物は面積当りの収穫量が夏穀物を大きく上回るため,土地生産性においては二圃制への優位は明白ではない。むしろ三圃制は,冬穀物にとっての農閑期に,夏穀物のための犂耕と播種とを導入して,年間の労働配分を合理化し,それによって,働き手1人当りの生産性を高めたのであり,当時普及しはじめた重量犂の使用とあいまって,農業生産力を上昇させたのである。しかし10世紀までの史料では,3年輪作は主として領主直接経営について言及されており,農民経営でもそれが行われていたことは確実だが,厳密な意味での三圃制が普及してくるのは,村落共同体が確立する中世盛期である。
11世紀から13世紀にかけては,領主直接経営が衰退し,農民によって広く三圃制が実行されるようになる。開放耕地制度によって,村域の組織化が進み,冬畑と夏畑をなるべく1ヵ所に集中する努力もかなりの成果をあげた。休閑地の犂耕回数もこの時期に増加して,最低3回となった。こうした三圃制の普及と改良によって,農業生産性は著しく高まったといわれ,播種量に対する収穫量の比が,中世初期の2倍前後から,中世盛期には,4倍前後となったといわれている。
中世末期以降,農業技術の改良が進むが,その中には牧草など地力回復力の強い作物の普及があり,これらと穀物を適宜組み合わせると,必ずしも休閑地を必要としない新しい輪作方法が可能となる。同時に,村落共同体の弱化に伴って,市場で有利な作物に専門化する大経営や,小さな面積を集約的に耕作する零細経営が増加すると,三圃制はしだいに後退していき,最終的には農業革命によって,廃棄されることになる。
三圃制が行われた地域を確定することはきわめて難しい。地中海地方では,夏の暑さのため夏穀物の栽培が困難なので,古代以来二圃制度が続いていた。しかしヨーロッパ北部でも,三圃制が行われていなかった場所が広狭さまざまな範囲で,あちこちに存在している。三圃制は,広大な穀物適地がありながら,肥料が乏しい場所に適しており,また穀物の連作を含むために,完全な休閑を必要としていた。これに対して二圃制は,そもそもパン用穀物の収穫量が三圃制より多い上に,休閑地での穀物以外の栽培が比較的容易で,労働力が十分で肥料が豊富な場合には,零細経営による集約化によって,土地生産性を高めることを可能にしていた。したがって,こうした条件のある環境では,二圃制が選ばれることが多かったのである。総じて三圃制は,12世紀から13世紀のドイツ人の東方定住によって東欧方面に広がった例が典型的に示すように,ヨーロッパ北部の平原地帯で発達した中世の封建的な社会とともに拡延したということができる。
→村
執筆者:森本 芳樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報