〈はた〉とも読む。水田以外の耕地,すなわち水をたたえることなしに農作物を栽培する耕地をいう。水稲以外のほとんどの農作物は,水をたたえることなしに栽培するのが普通であるから,世界的にみて水稲作を行わない地域では,耕地はすなわち畑を意味する。水稲作を農業の根幹としてきた日本では,灌漑の可能な耕地のほとんどは,水田として造成されてきた経緯があり,土地登記上の地目としても,統計上の取扱いにしても,水田と畑は明確に区別されている。畑や畠の文字が国字として作り出されたことも,そのような背景に由来する。ただし,近年の米の生産調整などに際してみられるように,水田を畑作物の作付けに転用するような場合,地目と実際の利用形態とは異なってくるので注意を要する。
畑は作付けられる農作物の種類によって分類される。穀類,豆類,いも類,野菜類など一・二年生の農作物を栽培する畑は〈普通畑〉と呼ばれ,これら各種作物の作付順序によって,固有の輪作体系が成立する。これに対して多年生の木本作物を栽培する畑は,樹種によって果樹園,桑園,茶園などに区別され,一括して〈樹園〉と呼ばれ,畑の利用は比較的長期にわたって固定される。また数年ごとに播種(はしゆ)を行って更新する牧草畑や,近年発達の著しいビニルハウスやガラス温室の施設をそなえた耕地も畑に含められる。これら各種の畑は一般に相互に変換しうるものであり,それぞれの立地条件や社会経済の動きに対応して,いかなる用途で畑を運用していくかが,畑作農家の経営の主要なポイントになる。
水田と異なり,水をたたえることのない畑の土壌は,豊富な空気が送り込まれるため,酸化的状態が維持されている。好気性菌による有機物の分解は速やかに進行し,生成する栄養塩類は農作物に吸収される一方,雨水とともに流亡する。また耕起されてむき出しになった裸地の土壌は,強風や豪雨によって浸食されることも少なくない。したがって,特別の注意を払わずに,長年にわたって畑に農作物の栽培を続けると,収穫による持出しや有機物および栄養塩類の枯渇,さらには土壌の流亡などが重なって,地力が減退し不毛の地と化す危険性がある。古代文明の栄えた土地の多くが,今や見る影もないやせ地と化していることの少なくとも一因は,このような畑の性質を無視した略奪的な作物栽培を行ったためと考えられている。近世ヨーロッパの畑作地帯では,このような欠陥を克服するため,三圃制など各種の農法が発達してきている。その基本は畑に飼料作物を多く栽培して家畜の飼養を増やし,得られる堆厩肥(たいきゆうひ)を畑に還元すること,および窒素固定を行うマメ科作物の導入をはかることにある。いずれも多量の有機物の投入によって地力の維持を目的とするものであり,水田地帯にはみられない農法の発展といえる。詳細は〈農業〉〈農学〉などの項を参照されたい。
執筆者:山崎 耕宇
〈水田〉に対して〈白田〉とも記され,この2字から国字の〈畠〉がつくられた。中世には,このため〈畠〉を〈はく〉と読んだ。例えば,平仮名まじりの文書では〈田畠〉のことを〈てんはく〉と記し,〈畠地〉は〈はくち〉と書いている。〈畑〉も〈火田〉からつくられた国字である。中世までは常畠である〈畠〉の字と,焼畑をさす〈畑〉の字とはかなり厳密に使いわけられていたが,戦国末期から近世初頭にかけて〈畠〉と〈畑〉の混用が始まり,17世紀の半ばには検地帳類でもほとんど〈畑〉の字ばかりになっていった。
律令用語としては,水稲以外のものをつくるところは〈園地〉〈園(その)〉などであり,これと715年(霊亀1)に令外の制として定められた〈陸田〉とが,畠地の公式用語であった。しかし8世紀以降の古文書,絵図などには〈畠〉の字が広く用いられており,しかも国語の〈はたけ〉が〈園地〉〈陸田〉から〈畠〉に至るまでのすべての地目に通用する訓であったために,古代の畠制度の実態を探ることは著しく困難になっている。〈園地〉と〈陸田〉の区別と関連性を明らかにすることは容易ではない。けれども巨視的にみれば,日本古代の畠地は律令制上は〈園地〉と〈陸田〉に大別されて把握されており,その他に山野利用の一形態としての焼畑耕作が広く行われていたと考えられる。しかし律令国家の畠地支配はきわめて弱いものであり,その解体過程である10世紀後半から11世紀のころでも,〈畠に至りては国司の所知に非ず〉とされ,畠を公的な制度外のものとする法的慣習が根強かった。だがこの時期の畠作においては,畠地の開発が活発化し,冬作畠の麦と夏作畠の大豆を中心とした畠地二毛作も成立するなど,畠作生産力も発展していた。こうした畠の発展の成果をめぐって,10世紀末には国衙(こくが)によるさまざまな手段を用いての,畠地を収奪の対象に組み入れようとする動きが表面化してくる。そして11世紀前半には,国衙による畠に対する地子収取の行われる例が現れ,後半には延久の荘園整理令による畠地の検注がきっかけとなって,国衙による畠地の検注がしだいに確実に実施され,畠が〈公畠〉として把握されるに至った。やがて12世紀には検畠目録などの畠独自の支配文書も作られ,中世的な地目としての〈畠〉が成立した。その場合,収取される畠地子は,反別1斗ないし1.5斗程度が普通であった。
中世の畠は,史料上には実にさまざまな呼称で現れる。大ざっぱに分けると,(1)古代以来の〈園〉や〈御薗(みその)〉,(2)作物の種類による〈麦畠〉〈菜畠〉〈桑畠〉(上葉畠)などの畠名,(3)収穫期による〈夏畠〉と〈秋畠〉,(4)畠の安定性や立地条件によって,〈吉畠〉と〈野畠〉,〈里畠〉と〈山畠〉,そして不安定な畠としての〈片畠〉など,(5)屋敷畠ないし垣内(かいと)畠として〈居内〉〈住内〉などがみられる。畠地生産力の発展は,水田と無関係ではない。平安時代以来,水田の畠地化ないし畠の水田化したとみられる〈畠田〉〈田白(田畠)〉などの中間的,過渡的な畠が絶えず生み出されていた。また平安時代における冬作麦の普及と,安定的な畠地二毛作の発展の影響を受けるなどして,裏作に麦やベニバナなどを作る水田二毛作も平安末期には端緒的に始まったのである。そして中世後期には一部の地域で三毛作さえ行われたが,こうしたことも畠作の集約化と関連するであろう。しかし,やはり畠地の生産性は水田に比してきわめて低かったから,水田化の可能な畠については,水田に変えていく努力がなされたことはいうまでもない。
けれども畠と焼畑は,中世の民衆にとっては何よりもまず生活農業の場であった。また地形条件などによって,畠作や焼畑中心の村の比重も中世には大きかったはずである。さらにまた,さまざまな商品作物の栽培や手工業の原材料の供給源として,畠はかけがえのない耕地であった。
執筆者:黒田 日出男
江戸時代の畑には年貢賦課の見地から次のような名称がある。桑畑,楮(こうぞ)畑,漆畑,茶畑,麻畑,見付畑,砂畑,山畑,野畑,焼畑,切替畑,鹿野(かの)畑,苅生(かりおい)畑,薙(なぎ)畑,林畑,荻(おぎ)畑,萱(かや)畑などである。慶長年中(1596-1615)の美濃国検地帳には,桑畑,楮畑は上々畑なみの石盛(こくもり)13(反当り1石3斗)をつけ,麻畑,茶畑は上畑なみの12の石盛をつけたといわれるが,一般的には作付作物の種類にかかわらず,毎年作付けされる畑は地味に応じて,上,中,下,下々,山畑などに分けられる。土地利用の観点からは,普通畑と数年放棄してのち数年利用する焼畑,畑の名儀で石高を受けながら実際は林木を立て,あるいは萱,荻,蘆などを生育させる林畑その他とに分けられる。林畑は農業上からは畑ではない。江戸時代の畑の特色は,農民生活の維持のために,焼畑が広く各地の山村にみられたことである。その名称は地域によって異なるが,先に列挙した畑名のうち焼畑,切替畑,鹿野畑,苅生畑,薙畑などは焼畑の地方名である。畑も田と同様に検地によって石高をつけられ,石高の一定割合の年貢が納められるが,実際に米納するのは十分に田のある所であり,関東の幕府領,旗本領では銭納が多い。畿内には三分一麦銀納,十分一大豆銀納の制度があって,銀納も行われている。
百姓が自給自足の生活を続けている初期,中期のころは,畑作物は百姓の生活の資を生産する場所であり,裏作麦のほかは多様の作物を少量ずつ作付けている。下野国の山間部の農書《農家捷径抄》は田2反,畑2反の作物作付内容を次のように記している。畑には夏作として粟4畝,稗・大豆・綿各3畝,蕎麦1.5畝,小豆・煙草・ササゲ各1畝,茄子・秋大根・夏大根・里芋各半畝前後,その他いろいろ17歩を作っている。山間村で,多分湿田がちの土地だと思われるので,大麦1段5畝,小麦5畝も大部分畑の裏作であろう。年貢は田の収穫米2石3斗5升7合から田の分として5斗を支払い,残りは売って年貢金納分にあてる。麦,粟,稗,大豆,蕎麦などが主食となり,野菜類ももちろん自給用であろう。綿3畝の収穫,煙草1畝の収穫も販売用としての意味はきわめて少ない。畑の自給用としての性格は明白である。長州藩の村々の1840年代の調査によっても,田は年貢納入および販売用に米を作り,畑は自家生活用作物多種を作るが,唐芋や大根がやや多く作られて,主食の補充とされていることが目につく。
山間村では,この畑地にさらに焼畑が加わって農民生活を維持する。対馬の木庭(こば)では20年前後雑木を立てた林を伐採し,猪,鹿よけの垣を作り,枝や草を焼いて2~3年麦をはじめ多様な作物を作る。灌木状態の山を焼くには,数年放置したあと,刈り倒し,焼いて作物を作る。豆類や蕎麦,稗,粟が焼畑の代表作物となる。焼畑を毎年作付けする普通畑にするには,家畜を舎飼いにして大量の堆厩肥を作り,段畑にすることが条件となるが,これを藩の政策とした対馬の例では十分な成功は収めなかった。
桑,楮,漆,茶,麻を作る畑が,上々畑,上畑に扱われたことは先に記したが,これらが特殊加工原料作物であり,その加工品が領主層の需要を満たすことからくる。これらのなかには,長州藩の紙のように,蔵物として藩財政の基礎となるものもあった。これらのほか,畿内や瀬戸内沿岸の綿,田畑の裏作の菜種,三都・城下町周辺の野菜などは初期から農民の手によって商品として売り出され,江戸時代農業の発展面を担うものとなった。明治の地租改正で決められた地価が,綿作の畑について田に匹敵するもののあることは,江戸時代における綿作の重要性を示している。阿波のアイ,出羽のベニバナ,各地の桑,養蚕,茶なども,畑作から農業の発展が始まった江戸時代中期以後の姿を示している。
なお,田の用水を落とし耕起して麦類,菜種,野菜などを作る裏作時の耕地や,田に高畝を作って綿などを作るときは畑作とはいえるが,普通これを畑とは呼ばない。湛水(たんすい)灌漑のできる条件をもたない耕地を畑という。
→畑作
執筆者:古島 敏雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
作物を栽培する土地で湛水灌漑(たんすいかんがい)しないもの。水田あるいは田に対する語。古い時代には草原や山林に火を放って焼いた土地に作物を栽培したので火田といい、それから畑の字がつくられた。畠(はたけ)も水田に対する白田からつくられた合字で、畑とともに国字である。畑は作物を生産する経済的基盤条件であり、作物栽培にとっては環境条件である。この両条件の組合せによって、畑に栽培する作物の種類、品種、栽培方法が決められる。
[星川清親]
ムギ類・アワ・キビ・トウモロコシなどの穀類、マメ類、イモ類、ワタなどを栽培するものを普通畑、野菜類を植える野菜園、リンゴ・ミカン・ブドウなど果樹を栽培する果樹園(樹園地)、牧草をつくる牧草地などに分けられる。畑はまたその立地する地形によって平地畑(ひらちばた)、傾斜畑、段畑(だんばた)などとよび、耕土の質により沖積畑、洪積畑などに区別することもある。開墾してまもない畑は開墾畑、これに対し長年畑として耕土を培養し有機質含量が増えて生産力が高い畑を熟畑(じゅくばた)という。畑は毎年あるいは一年中を通して作物栽培に使うほか、年によって作物栽培を行わずに地力を養うこともある。前者を連作畑といい、作物の種類を次々にかえるものを輪作畑という。後者の状態にある畑は休閑畑といい、とくにヨーロッパで発達した三圃(さんぽ)式あるいは四圃式輪作農法の特色として有名だが、現在では肥料の普及や管理技術の発達によってほとんどみられなくなった。また水田を排水して畑にしたものを転換畑といい、数年ずつ水田としたり畑としたりして交替に使う方式で畑状態にあるものを輪換畑という。なお最近わが国では水田の作付けを制限する政策によって水田を畑化し、イネ以外の作物を植えさせているが、この畑は転作畑とよばれている。苗床も畑の一部であるが、この場合苗を定植する畑を本畑(ほんばた)とよぶ。なお古い時代には焼畑によって一ないし短年間作物を栽培しては、また他の土地を焼畑にして移る地力の略奪農法が行われた。焼畑はいまでも東南アジア山岳地帯で行われ、日本の一部でもこの遺風がみられる。現在の生産力の高度化した畑では、ダム、用水、スプリンクラーなどの灌漑施設や農道などが整備されている。
[星川清親]
畑は普通表面の作土とその下の心土とに分かれる。作土は鍬(くわ)や犂(すき)によって耕され、石などの障害物が除かれ、土壌は膨軟(ぼうなん)になり、作物の根の発達に適するように管理されている。有機物や肥料が混入され、作物の根は作土から養水分を供給される。作土の深さは普通20~50センチメートルであるが、ナガイモ、ゴボウなどを生産する畑では火山灰土堆積(たいせき)地や河川沿いの圷(あくつ)(土砂が河川の流れによって厚く堆積した土地)などを利用して作土が1メートルほどもある。日本の畑は火山灰性の酸性の強い土壌が多く、普通は石灰などの施用で水素イオン濃度(pH)を調整する必要がある。心土は耕されないが地下水によって作土へ水を供給し、また根の一部は心土へも侵入する。近年大型作業機械による耕作が行われるようになったので、重力によって心土の上部に堅い耕盤が形成される。そのためときどき心土耕をして耕盤を破砕し、根の侵入や透水性を改良する。地下水位の高い畑は排水が悪く、作物に湿害を与え、地下水位の低い畑では干魃(かんばつ)がおこりやすい。
[星川清親]
世界の耕地・永年作物地面積は1996年の15億1031万6000ヘクタールをピークに減少し、1999年現在は15億0145万2000ヘクタールあり、そのほか永年牧草地、森林、不毛の土地などが115億4906万4000ヘクタールある。世界人口の激増による食糧や農業生産物の需要増加にこたえて、近年は耕地・永久作物地面積が増加し続けてきた。しかし経済的に開拓可能な土地は残り少なくなり、いままでのように面積を増加させることは困難になってきた。アメリカ大陸やアフリカなどの一部では畑の砂漠化や荒廃も進んでいる。将来は既存の土地の改良によって生産力の増強を図ってゆかなければならない。日本の畑の面積は218万9000ヘクタール(2000)で、内訳は普通畑(野菜園も含む)118万8000ヘクタール、樹園地35万6400ヘクタール、牧草地64万4700ヘクタールである。日本の全耕地面積は483万ヘクタールであるが、うち264万1000ヘクタールが水田であり、畑面積は水田面積よりも少ない。これは、昔から日本の農業が水稲作を主体としたために、水田にできる立地条件の土地はほとんど水田にされ、それが困難な土地だけが畑とされたためである。このように日本では畑作はつねに水稲の副次的な位置に置かれ、生産力が劣り経済的生産性も弱かった。このため近年外国からの畑作物の輸入増加に対抗することができず、畑作は著しく衰退した。そして都市近郊の畑は工場、住宅などの用地にかわるものが多くなっている。畑作がもっとも大面積に発達しているのは北海道で、ついで関東地方、九州地方などが地形的に畑作地帯として発達している。
[星川清親]
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…水田以外の耕地,すなわち水をたたえることなしに農作物を栽培する耕地をいう。水稲以外のほとんどの農作物は,水をたたえることなしに栽培するのが普通であるから,世界的にみて水稲作を行わない地域では,耕地はすなわち畑を意味する。水稲作を農業の根幹としてきた日本では,灌漑の可能な耕地のほとんどは,水田として造成されてきた経緯があり,土地登記上の地目としても,統計上の取扱いにしても,水田と畑は明確に区別されている。…
…江戸時代,田地と畑地の区別は厳重で,かってに地目を変更することは許されなかったが,用水不足で稲作を行うことが望めなくなった田地を願い出によって畑地に変えることがあり,これを田畑成と称した。逆に,畑地を田地に変えることを畑田成という。田畑成の場合,通常,上田は上畑の石盛(こくもり)に,中田,下田はそれぞれ中畑・下畑の石盛に直して石高を算定する。畑は田よりも石盛が低いから,当然もとの石高よりも減高になるが,この分は田畑成石盛違引として高内引(たかうちびき)に加えられ,年貢を免除された。…
…農作物を畑に栽培することをいい,栽培されるものを畑作物という。世界の耕地は1994年で13億haをこえ,その9割で畑作が行われている。それぞれの土地の気象・土壌条件に適した各種の畑作物が栽培されているが,いずれの地域でも広い面積に比較的粗放に栽培されるのは,主食となる穀類,いも類,豆類などであり,野菜や果樹は限られた畑に集約的に栽培されることが多い。地域的にみると,南北両アメリカやオーストラリアの畑作は大規模に機械化されているのに対し,旧大陸の人口密度の高い地域では,人力に頼る小規模な畑作が多い。…
…畠のことであるが,日本古代の律令制下では,雑穀類を栽培する畠をとくに陸田と称し,他の畠とは区別し扱うようになる。まず715年(霊亀1)男夫1人に陸田2反の耕種が命じられたが,719年(養老3)に法令改正があり,天下の民戸に陸田1町以上20町以下が支給され,1反当りアワ3升の地子が徴収されるようになった。陸田の栽培植物として政府が推奨したのはアワや麦で,とくに麦を奨励し,国司が政府へ提出する公文の中には麦畠帳が含まれていた。…
※「畑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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