三方郷(読み)みかたごう

日本歴史地名大系 「三方郷」の解説

三方郷
みかたごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本の訓は「美太」。「播磨国風土記」に御方(みかた)里がみえる。葦原志許乎命と天日槍命が神崎(かんざき)郡黒土の志爾(くろつちのしに)嵩(現生野町)で各々「三条の黒葛(みかたのつづら)」を足につけて投げたところ、天日槍命の葛はすべて但馬国に落ちた。一方、葦原志許乎命の葛は一つは但馬国気多(けた)郡に、一つは夜夫(やぶ)(養父)郡に、残る一条は当地に落ちた。それゆえ三条と名付けたという。これは渡来系の神である天日槍命と土地の神である葦原志許乎命との国争いを示す。また別説に、伊和大神が「形見(かたみ)」すなわち土地を占拠したことを示す標示としての杖をこの村に植えたという。


三方郷
みかたごう

古代の養父郡三方郷(和名抄)の系譜を引いた中世の郷で、円山(まるやま)川支流大屋川の中流域に比定される。徳治元年(一三〇六)一一月二八日付で源沙弥能蓮が注した三方郷東西山河堺注文(三方文書)には「東者、中うとお堺ニ」「南者、ひる谷之中尾お堺ニ」「西者、すゝ谷お堺ニ」「北者、大峯お堺ニ」と記される。下って永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(同文書)では、東は新津(しんづ)村(現養父町)の東端で軽部(かるべ)庄(現同上)と接し、その境の「東ハ中うと」と記され、西は夏梅(なつめ)村の西端で大屋庄と接し、その境の「北ハすゝ谷なり」と記される。


三方郷
みかたごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本に「三加太」の訓がある。円山(まるやま)川支流の大屋(おおや)川中流域に比定され、「但馬考」は新津(しんづ)(現養父町北西端)、宮垣(みやがき)・樽見(たるみ)・上山(うやま)・夏梅(なつめ)(現大屋町北東部)の五村をあげる。「播磨国風土記」の宍禾(しさわ)郡御方(みかた)里の条に「葦原志許乎命、天日槍命と、黒土の志爾嵩(しにだけ)に到りまし、各、黒葛三条(みかた)を以ちて、足に着けて投げたまひき。


三方郷
みかたごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本に「三加太」の訓がある。円山(まるやま)川の支流稲葉(いなんば)川の中流域およびさらにその支流の観音寺(かんのんじ)川の流域、現日高(ひだか)町の中西部(森山・観音寺・栗山・猪子垣・芝など)に比定される。養父(やぶ)郡にも同名の郷がある。「播磨国風土記」宍禾(しさわ)郡御方(みかた)里の条に、葦原志許乎命と天日槍命が土地争いをし、播但国境の黒土の志爾嵩(しにだけ)に登り、それぞれが黒葛三本を足につけて投げたところ、葦原志許乎命の黒葛は一本は養父郡、一本は気多郡に、一本は御方里に落ちたが、天日槍命の黒葛は三本とも但馬に落ちたので、日槍は但馬国出石(いずし)の地を占めたという地名起源説話を載せている。


三方郷
みかたごう

「和名抄」諸本とも訓を欠くが、東急本郡部に「美加太」とある。中世にも三方郷があり、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「国領」という朱書を付して「三方郷五十町九反百四十歩」とみえ、定田七町一反余、除田四三町八反余。除田の内訳は「□(五カ)社宮」九町余、犬丸名一一町四反余、佐古(さこ)出作四町二反余、能登(のと)浦(近世の世久見浦)三町四反余、三方浦七町五反余、今富(いまとみ)名三町三反余、松永(まつなが)保一反、清貞名二反など。


三方郷
みかたごう

「和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を欠く。同書若狭国三方郡を「美加太」(刊本)と訓ずるのに従う。郷域は由良川が山家(やまが)・綾部(あやべ)の境界付近で北方に蛇行する辺りの右岸、沖積地が帯状に広がる現綾部市味方(みかた)町付近か。


三方郷
みかたごう

「和名抄」高山寺本にみえ、東急本・元和古活字本に「三刀」とあり、ともに訓を欠く。当郷の遺称を伝えていると思われる地名も残存せず、どちらを称していたのかは不明である。「大日本地名辞書」には「三刀(みと)郷」とあり、水刀すなわち水門と考え、木曾川の河口地域とするが不詳という。「日本地理志料」も「三刀」とし、「神鳳鈔」の尾張国条にみられる三人部(みとべ)御園を当郷中に求める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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