若狭国(読み)ワカサノクニ

デジタル大辞泉 「若狭国」の意味・読み・例文・類語

わかさ‐の‐くに【若狭国】

若狭

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日本歴史地名大系 「若狭国」の解説

若狭国
わかさのくに

古代

〔国勢〕

国名は「和名抄」東急本が「若狭和加佐」とするように「わかさ」である。田数は「和名抄」(同本)は三千七七町、「伊呂波字類抄」は三千一四九町と記し、北陸道七ヵ国中最も少ない。律令制下では、当初遠敷おにゆう三方みかたの二郡を管するのみであったが、天長二年(八二五)七月遠敷郡を分轄し大飯おおい郡が置かれた(日本紀略)。国府は「和名抄」に「国府在遠敷郡、行程上三日、下二日」とあり、遠敷郡にあったことが知られ、現小浜市府中ふちゆうに比定されるが、その範囲は未確定。国分寺(跡地は現小浜市国分)、一宮若狭比古わかさひこ神社(現小浜市竜前)も遠敷郡にあった。

「延喜式」では北陸道の第一国で、国の等級は中国。駅馬として「弥美、濃飯、各五疋」とある(「延喜式」兵部省)弥美みみは現三方郡美浜みはま郷市ごいち、濃飯は現遠敷郡上中かみなか玉置たまきに比定される。古代の交通路としては、若狭は西近江路を穴多あのう(現滋賀県大津市)和爾わに(同滋賀郡志賀町)三尾みお(同高島郡安曇川町)鞆結ともゆい(同高島郡マキノ町)と続く北陸道から越前松原まつばら(跡地は現敦賀市)で分岐した道として位置付けられるが、「延喜式」(主税上)に「陸路駄別稲十束五把、海路自勝野津至大津船賃、米石別一升、挟杪功四斗、水手三斗、但挟杪一人、水手四人漕米五十石」とあるように、正税などの租税は九里半くりはん越を通って勝野津かつのつ(現滋賀県高島郡高島町)へと運ばれ、湖上を大津おおつ(現滋賀県大津市)へと回漕されている。

郷名は「和名抄」高山寺本では

<資料は省略されています>

を記し、刊本では遠敷郡に余戸・神戸・丹生(重出)・佐文・木津・阿桑の六郷、三方郡に余戸・駅家の二郷が加わるが、遠敷郡の佐文・木津・阿桑の三郷は大飯郡の同名郷との重複である。なお、藤原宮・平城宮出土の木簡には、遠敷郡で三家里、三方郡で竹田郷がみえる。「延喜式」神名帳にみえる神社は、若狭国全体で四二座、うち遠敷郡一六座、大飯郡七座、三方郡一九座である。

税は調として、絹・薄鰒・烏賊・熬海鼠・雑・鰒甘鮨・胎貝保夜交鮨・甲・凝菜・塩が、中男作物として、紙・蜀椒子・海藻・鯛楚割・雑鮨・雑があげられ、庸は米を納めた(「延喜式」主計上)。正税は「延喜式」(主税上)に「若狭国正税、公廨各九万束、国分寺料一万束、京法華寺料一万束、文殊会料一千束、修理池溝料一万束、救急料三万束」とあり、佐渡国を除けば北陸道諸国では最も少ない。このほか、年料舂米として大炊寮二〇〇石、年料租舂米として八〇〇石、年料別貢雑物として零羊角一〇具・紙麻一〇〇斤・蘇八壺(同書民部下)、年料雑薬として人参・黄菊花・茯苓など二四種(同書典薬寮)、例貢御贄として毛都久・於期・稚海藻・生鮭(同書宮内省)、内膳司への旬料・節料・年料として雑魚・生鮭・山薑・毛都久・稚海藻・於己(同書内膳司)などさまざまの賦課を負った。

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改訂新版 世界大百科事典 「若狭国」の意味・わかりやすい解説

若狭国 (わかさのくに)

旧国名。若州。現在の福井県南西部。

北陸道に属する中国(《延喜式》)。北陸道のうち,もっとも畿内に近い国。遠敷(おにゆう),三方(みかた),大飯(おおい)の3郡からなる。このうち大飯郡は825年(天長2)遠敷郡から分立して成立した。国司は守1人,掾1人,目(さかん)1人,史生3人からなる。国府の推定地は遠敷郡(現,小浜市内)。《延喜式》では,調としてアワビ,イカ,イリコ,スシ,イカイ,ホヤマゼズシ,カセ,ノリ,シオなどをおさめることになっていた。また贄(にえ)(天皇への供御物)を恒常的におさめる国として指定されており,海産物の豊かな国として当時の政府からも認識されていたことがわかる。さらに若狭湾の沿岸には多数の製塩遺跡が残っており,8世紀ごろの製塩土器は他の地域のそれにくらべて大きく,塩の大量生産が行われていたことが知られる。これも若狭国が大量の調塩を貢進したことと関連があるといわれている。このように若狭は大和の中央政府からは海産物を中心とする食料供給地域と考えられ,その起源は古く律令制以前にまでさかのぼるものとされている。
執筆者:

1184年(元暦1)木曾義仲が滅び,彼の勢力下にあった若狭国にも鎌倉幕府の支配がおよんだ。初め比企朝宗が守護に補任されていたらしいが,その間の事情は明白でない。当時の若狭には33名の国御家人(くにごけにん)がおり(三方,大飯両郡各7名,遠敷郡19名),彼らはそれぞれ国衙領(こくがりよう),荘園の下司(げし),公文職(くもんしき)あるいは名主職(みようしゆしき)などを有したが,また約半数は何らかの形で国衙とのかかわりがあった。うち最大の権勢を誇ったのは,国衙の税所(さいしよ)職を掌握する〈有勢之在庁〉であり,少なくとも25ヵ所の所領を有した稲庭(いなば)時定であった。国御家人の間にはおそらく彼を頂点とする統属関係が存在したと推測される。しかし時定は96年(建久7)頼朝によって所領を没収された。幕府の全国支配強化の過程で,時定が若狭国内に有した絶大な勢威は,政策的に排除されるべきものであったからであろう。

 時定没落のあとは,頼朝の乳母子(めのとご)という津々見(若狭)忠季が若狭守護,遠敷・三方両郡惣地頭に任ぜられて東国から入部し,時定跡の所領を継承した。忠季は比企能員の乱に縁坐し1203年(建仁3)所領(おそらく守護職も)を没収されたが,やがて旧に復し,承久の乱の宇治橋合戦に戦功を立てて討死した。守護職は子の忠時が継承した。しかし28年(安貞2)ごろ彼は罪科により守護職,税所職等を失い,かわって北条時氏が守護となる。税所職や旧忠時所領の今富名地頭職なども北条氏得宗(とくそう)(嫡流)の手に握られ,以来幕府の滅亡まで守護職は得宗および北条一門の掌握下にあり,その支配は若狭全体に強くおよんだ。65年(文永2)の若狭国惣田数帳案の朱注によれば,鎌倉末期ごろ得宗が地頭職を有した所領は20ヵ所を下らず,その田数は国全体の4分の1以上にも達し,ほかに税所職やその支配に属する国衙領の名(みよう)などをも加えると,得宗の勢威はきわめて強大であった。惣田数帳では,鎌倉中期の若狭の総田積が2217町6反余と記され,うち国衙領1181町1反余,残りが荘園である。

 当時の荘園には,三方郡に織田荘(おりたのしよう)(山門領),佐古荘,前河荘(日吉社領),倉見荘(新日吉社領),向笠荘(大神宮領),永富保(法勝寺領),藤井保(尊勝寺領),田井保(大炊寮領)など,遠敷郡に賀茂荘(宮河荘,賀茂別雷社領),瓜生荘(円満院門跡領),鳥羽荘(山門領),名田荘(なたのしよう)(蓮華王院領),安賀荘(山門領),三宅荘(長講堂領),吉田荘(同),国富荘(くにとみのしよう)(太政官厨家領),恒枝保,西津荘(神護寺領),太良荘(たらのしよう)(東寺領)など,大飯郡に加斗荘(円満院門跡領),立石荘(九条家領),和田荘などがあった。これらのうち成立が摂関政権期ないしそれ以前と見られるのは,惣田数帳に〈本荘〉として記される織田,佐古,賀茂,加斗,立石の5荘などごく少数であり,他は白河院政期以後に急速に荘園化したものと考えられる。

 この時代にはまた若狭湾岸の数多い浦が,国衙・荘園領下の独自の単位をなすものとして成立していた。大飯郡では恒貞,友次,鞍道の諸浦,遠敷郡では今富名の小浜(おばま)をはじめ阿納,志積(しつみ),多烏(たがらす),矢代などの浦々,三方郡では気山津(きやまのつ)のほか馬背竹波(まじようたけなみ),丹生(にゆう),菅浜,日向(ひるが),早瀬,賀尾(かお),三方,常神(つねかみ)などの各浦である。刀禰(とね)を中心とする浦々の住人らは,塩や魚介類の生産・貢納に従事するとともに,廻船業に従い幅広い活動を行っていた。1272年多烏浦の船徳勝に与えられた著名な鎌倉幕府免許旗章に,〈国々津泊関々不可有其煩之状如件〉と記され(秦文書),また鎌倉後期と推定される三方寺内志積浦廻船人等申状案に〈只偏以廻船之業継身命而勤仕御公事者也〉と見える(安倍文書)ことなど,いずれも当時の若狭の廻船業の発達を物語る。

1333年(元弘3)5月幕府が滅び,北条氏得宗の権力が消えると,この国の政治情勢は混沌たる様相を呈する。国衙にはまず山徒多門房が入ったが,ほどなく新守護布志井三郎左衛門尉の代官が入部し,新国司洞院公賢の目代も続いて下向,多門房が対抗して今富名に討ち入る。若狭氏の後裔直阿(忠兼)の勢力挽回を策しての活動も見られた。翌34年(建武1)には東寺領太良荘の名主百姓らが,負担が得宗時代よりかえって新増し,農業最中に苛責されるため愁吟にたえないとして,59名が一揆して地頭代脇袋彦太郎排斥に起ち上がる事件も起こった。遠敷市(おにゆうのいち)(遠敷)に出かけた百姓らが守護代配下の〈悪党人〉らに襲われ,銭貨資財を奪われたのも同じころのことである。

 建武政府の崩壊後も内乱の波動はやまず,足利政権が任命した斯波時家からあと,約30年の間に十数名の守護が交替している。尊氏・直義(ただよし)兄弟が対立抗争した観応の擾乱(じようらん)に際しては,51年(正平6・観応2)直義方についた時の守護山名時氏が若狭に落ち,尊氏は奉公衆本郷貞泰(大飯郡の国人(こくじん))に国中の軍勢を催して時氏を追討せよと命じた。代わって大高(だいこう)重成が3度守護に補任されたが,若狭の国人の多くは直義方に立って,本郷貞泰や下向した守護代官大崎八郎左衛門入道らと戦い,ついに大崎を追放する。53年(正平8・文和2)には前守護時氏が将軍義詮に叛旗をひるがえし,南朝によって守護に還補されたものの,代官らが本郷氏などとしばしば合戦したあげく敗れて追い落とされた。54年以来の守護細川清氏の任期は比較的長く数年におよんだが,61年(正平16・康安1),義詮に謀叛の疑いをかけられて若狭に下り,新守護石橋和義の軍に攻められて和泉堺に没落した。この間守護勢力は,あるいは荘園の年貢を半済(はんぜい)し,あるいは一国平均に軍役を課し,荘園諸職を闕所とするなど,随所でその圧力を強めつつあった。66年(正平21・貞治5)守護となった一色範光の支配の初め,守護の圧力に抵抗する国人勢力はしばしば反乱して守護軍と戦ったが,71年(建徳2・応安4)5月,宮河,鳥羽,木崎,和久里ら遠敷郡の国人を主力とする国一揆軍は,玉置河原で範光の子詮範の率いる守護代や守護方国人勢力(おもに大飯郡勢)と激戦の末大敗,鎌倉以来の国人の多くは討死し,所職を得替された。この合戦はいわば若狭における南北朝内乱の終結を意味するものであり,以後一色氏の支配が一国に進展する。詮範守護の時期には,将軍義満が丹後九世戸の文珠(智恩寺)参詣のついでにたびたび小浜を訪れたが,それは幕府盛時の将軍の示威であるとともに,若狭における一色氏の領国支配の安定をも示す事実であった。

 内乱の時代にも若狭国の流通経済は着実に発展を見せた。遠敷の市場は建武のころには定期市となっており,さらに1407年(応永14)には〈日市〉すなわち常設市となった。小浜の市も南北朝期にはかなりの繁栄を見せていたし,小浜港の発展も顕著で,08年,12年には南蛮船が日本国王への進物などを舶載して着岸している。このとき使臣の宿をつとめた〈問丸本阿弥〉がいたように,問丸の発達もいちじるしかった。

1440年(永享12)将軍義教の命をうけた安芸国守護武田信栄が,大和で一色義貫を討ち,若狭の守護を兼ねて以来,信賢,国信,元信,元光,信豊,義統,元明と,約140年間の武田氏による若狭支配が行われた。この時期の大半が戦国時代である。武田氏は41年(嘉吉1)信賢が初めて小浜に入って以来,歴代領国の支配強化につとめるとともに,朝廷・幕府の伝統的権威との結びつきをはかり,応仁の乱をはじめとする軍陣にしばしば上洛して転戦し,その武威を発揮した。しかし元信時代の1502年(文亀2)には国衆・百姓らが苛政に反対して守護方を攻撃し,元信の子元度らを討死させる事件も起こり,元光の時代の27年(大永7)将軍義晴,管領細川高国側に属して柳本賢治,三好政長らと戦った西七条専勝寺の合戦に惨敗したころから,その勢威はかげりを見せはじめ,彼の晩年には家督争いにからんだ重臣粟屋元隆の反乱も起こった。子の信豊が42年(天文11)畠山政国にくみして出兵し,河内国太平寺の戦で大敗北を喫してのちは,再び勢力を挽回しえず,次の義統の時代にかけて牢人の侵入や家臣らの反抗に悩まされた。元明に至っては当初から譜代の家臣らに背かれ,68年(永禄11)若狭に侵攻した朝倉義景によって越前に拉致(らち)されるにおよんで,武田氏の若狭支配は消滅した。

 武田氏歴代の当主はみずから伝統的な王朝文化の吸収につとめ,加えて一族の出で建仁寺や南禅寺の住持となった高僧月甫清光,潤甫周玉あるいは英甫永雄らの京都や国許での文化的活動があった。また寺井賢仲,粟屋親栄,同元隆,久村宗家,内藤国高ら家臣層による意欲的な京都文化の摂取などを通じて,この時代には城下小浜を中心とする一つの文化圏が形成されていたと見られる。彼らの中には京都の文壇のリーダー三条西実隆など著名な文化人と交渉があったものが多数存在し,宋学の権威清原宣賢や連歌師の周桂,宗養,紹巴らのように,小浜を訪れて足跡を残した都の人士も乏しくない。
執筆者:

1570年(元亀1),織田信長の第1次朝倉攻めのとき,若狭は信長の勢力圏に入るが,この攻撃の失敗後,一時,朝倉義景の支配下に入った。73年(天正1)の朝倉氏滅亡後は,丹羽長秀が若狭半国を領した。87年豊臣氏五奉行の一人である浅野長吉(長政)が若狭一国を与えられ小浜に入部。93年(文禄2)浅野氏が甲斐へ転じたあとへ,秀吉の一族である木下勝俊が入部。1600年(慶長5)木下氏は関ヶ原の戦で西軍についたため除封され,そのあとに京極高次が8万5000石で入った。京極高次,忠高2代にわたって小浜城が建設され,城下町が整備された。1634年(寛永11)ときの老中酒井忠勝が11万3500石(若狭一国,越前敦賀郡,近江高嶋郡の内)を得て小浜に入部し,忠勝以降14代,238年にわたる酒井氏の支配が続いた。

 1588年(天正16)浅野長吉によって一国総検地が行われ,若狭一国の高は8万5000石となった(慶長三年検地目録)。その後の若狭の高は8万5099石(正保郷帳),8万8281石(元禄郷帳),9万1018石(天保郷帳)と推移するが,その増加はわずかに6000石であり,300年近くの増加としてはそれほど大きなものとはいえない。若狭の郡は,遠敷郡,三方郡,大飯郡の3郡であり,江戸時代を通じて国絵図などではこの名称,郡数が使用されたが,領内支配においては遠敷郡を上中郡と下中郡に二分し,三方,大飯両郡とあわせ若狭四郡と称された。1700年(元禄13)の郷帳によれば,若狭の村数は255ヵ村で,三方郡59ヵ村,2万5280石,上中郡39ヵ村,2万1302石,下中郡83ヵ村,2万1728石,大飯郡74ヵ村,1万9970石であった。若狭全体で1000石を越える村は10ヵ村にすぎず,100石以下の村が60ヵ村もあり,小村の多いのが目に付く。
小浜藩
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「若狭国」の意味・わかりやすい解説

若狭国
わかさのくに

福井県の南西部にあたる旧国名。小浜(おばま)市と三方(みかた)・三方上中(かみなか)・大飯(おおい)の3郡からなる地域。文化財に恵まれ、貝塚、古墳、製塩遺跡、寺社や彫刻類、古文書、民俗芸能にみるべきものが多い。北陸道の一つで中国。国府は小浜市府中に比定。国名の初見は『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇3年3月。古代以来塩業と漁業が盛んで、調(ちょう)として塩や諸種の海産物を納め、これらは、ともに中世を通じて発達した。鎌倉時代に津々見忠季(つつみただすえ)が守護になったあと、守護職(しき)は北条氏の得宗領として相伝され、さらに山名、細川、斯波(しば)、一色(いっしき)氏と交代し、1440年(永享12)武田氏にかわり、1570年(元亀1)まで9代続いた。なお、古代・中世には東寺(とうじ)領太良荘(たらのしょう)など著名な荘園が多く置かれた。1573年(天正1)丹羽長秀(にわながひで)が小浜に入り、87年には浅野長政(ながまさ)が若狭一国を与えられた。長政は農民支配の基本原則を示す7か条の条々を発布し、翌年領内の総検地を行った。このときの検地高は8万5000石余で、以後小浜藩の村高の基準とされた。その後木下氏、京極氏とかわり、1634年(寛永11)酒井忠勝(ただかつ)が11万3500石で入封して定着した。領知高には越前(えちぜん)国敦賀(つるが)郡(福井県敦賀市)と近江(おうみ)国高島郡(滋賀県高島市)を含むが、以後若干の変動がみられる。1640年、遠敷(おにゅう)郡新道(しんどう)村(三方上中郡若狭町新道)庄屋(しょうや)松木長操(ちょうそう)が総代となり年貢減免を要求する一揆(いっき)を起こした。長操は52年(承応1)磔刑(たっけい)に処せられたと伝えるが、確たる史料に乏しくなお不明な点が多い。のち1783年(天明3)と1833年(天保4)に大規模な打毀(うちこわし)が起こった。産業は前代からの漁業が盛んで、海産物は熊川宿を通って近江に至る九里半(くりはん)街道で京に運ばれた。そのほか「ころび」とよばれた桐油(きりあぶら)、若狭筆、若狭塗、めのう細工などが著名。藩校は順造館といい1774年(安永3)創立。学者も多く杉田玄白(げんぱく)、中川淳庵(じゅんあん)、伴信友(ばんのぶとも)などは小浜藩士だった。維新後、小浜、敦賀、滋賀県を経て1881年(明治14)越前と合併して福井県となる。地誌に『拾椎(しゅうすい)雑話』『稚狭(わかさ)考』、信友の『若狭旧事考』などがある。

[隼田嘉彦]

『『福井県史』全3巻(旧版・1920~21・福井県)』『福井県郷土誌懇談会編『若狭漁村史料』(1963・福井県立図書館)』『『小浜市史』13巻・付録(1987~98・小浜市)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「若狭国」の意味・わかりやすい解説

若狭国
わかさのくに

現在の福井県南西部。北陸道の一国。中国。『旧事本紀』によれば,允恭 (いんぎょう) 天皇の御代に膳 (かしわで) 臣のアレシノミコトが若狭国造として支配したとある。国府は小浜市府中。国分寺は小浜市国分。『延喜式』神名帳には 42座 (41社) を載せているが,このうち若狭比古神社2座は名神大社に列せられ,のち当国の一宮として崇敬された。『延喜式』には遠敷 (おにふ) ,大飯 (おほひ) ,三方の3郡を,『和名抄』には郷 18,田 3077町を載せている。鎌倉時代には守護として比企,津々見,島津氏が任じられたが,後期には北条氏の支配下におかれた。南北朝時代の守護は斯波,佐々木,桃井,大高その他の諸氏の間を転々とし,後期に一色範光が就任してから同氏の世襲するところとなった。しかし永享 12 (1440) 年一色氏討伐の功により源義光の後裔と称する武田氏が守護となり,小浜付近に城を構えて代々当国を支配した。戦国時代には丹羽長秀が,次いで浅野長政が当国に封じられ,さらに木下勝俊の支配下となった。関ヶ原の戦い後,近江の古来の名族であった京極高次が大津から移って小浜城に入った。高次の妻は将軍秀忠の妻の姉で徳川家とも深い縁故があったが,のち出雲に移った。寛永 11 (1634) 年には酒井忠勝が入国して越前国敦賀郡,近江国高島郡とともに 11万石を領し幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,小浜県となり,同年 11月に敦賀県,1881年に福井県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「若狭国」の解説

わかさのくに【若狭国】

現在の福井県南西部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府小浜(おばま)市府中(ふちゅう)、国分寺は同市国分(こくぶ)におかれていた。古代、中世を通じて公家(くげ)および興福寺東寺荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代は稲庭(いなば)氏、津々見(つつみ)氏、北条氏守護となり、南北朝時代には新田(にった)氏と足利(あしかが)氏が争った。室町時代には一色(いっしき)氏、武田氏、戦国時代朝倉氏の支配下におかれた。江戸時代京極氏の支配から酒井氏に代わって定着、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により小浜県、のち敦賀(つるが)県、さらに1876年(明治9)の滋賀県編入を経て、1881年(明治14)に福井県に編入された。◇若州(じゃくしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「若狭国」の意味・わかりやすい解説

若狭国【わかさのくに】

旧国名。若州とも。北陸道の一国。現在の福井県西部。《延喜式》に中国,3郡。中世以後,京都と北陸・山陰を結ぶ要路であった。鎌倉時代は若狭氏,北条一門,室町時代は足利一族,次いで武田氏が守護。江戸時代は小浜(おばま)藩に酒井氏。
→関連項目朽木荘太良荘中部地方福井[県]保内商人

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「若狭国」の解説

若狭国
わかさのくに

北陸道の国。現在の福井県西部。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では遠敷(おにう)・大飯(おおいた)・三方(みかた)の3郡からなる。国府・国分寺は遠敷郡(現,小浜市)におかれた。一宮は若狭彦神社(現,小浜市)。「和名抄」所載田数は3077町余。「延喜式」では調は塩と海産物のみで,庸は米。平安末期には平氏の知行国となり,ついで木曾(源)義仲の勢力下に入る。鎌倉時代の守護はほぼ北条氏とその一門。南北朝期は一色氏,室町時代は武田氏が支配した。江戸時代は酒井氏の小浜藩が一国支配。1871年(明治4)の廃藩置県により小浜県となる。同年鯖江(さばえ)県と合併して敦賀県となる。76年敦賀県が廃され,旧若狭国は滋賀県に編入。81年石川県から分離した旧越前国7郡とともに福井県となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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