コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

若狭国 わかさのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

若狭国
わかさのくに

現在の福井県南西部。北陸道の一国。中国。『旧事本紀』によれば,允恭 (いんぎょう) 天皇の御代に膳 (かしわで) 臣のアレシノミコトが若狭国造として支配したとある。国府は小浜市府中。国分寺は小浜市国分。『延喜式』神名帳には 42座 (41社) を載せているが,このうち若狭比古神社2座は名神大社に列せられ,のち当国の一宮として崇敬された。『延喜式』には遠敷 (おにふ) ,大飯 (おほひ) ,三方の3郡を,『和名抄』には郷 18,田 3077町を載せている。鎌倉時代には守護として比企,津々見,島津氏が任じられたが,後期には北条氏の支配下におかれた。南北朝時代の守護は斯波,佐々木,桃井,大高その他の諸氏の間を転々とし,後期に一色範光が就任してから同氏の世襲するところとなった。しかし永享 12 (1440) 年一色氏討伐の功により源義光の後裔と称する武田氏が守護となり,小浜付近に城を構えて代々当国を支配した。戦国時代には丹羽長秀が,次いで浅野長政が当国に封じられ,さらに木下勝俊の支配下となった。関ヶ原の戦い後,近江の古来の名族であった京極高次が大津から移って小浜城に入った。高次の妻は将軍秀忠の妻の姉で徳川家とも深い縁故があったが,のち出雲に移った。寛永 11 (1634) 年には酒井忠勝が入国して越前国敦賀郡,近江国高島郡とともに 11万石を領し幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,小浜県となり,同年 11月に敦賀県,1881年に福井県となった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

わかさ‐の‐くに【若狭国】

若狭

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

若狭国【わかさのくに】

旧国名。若州とも。北陸道の一国。現在の福井県西部。《延喜式》に中国,3郡。中世以後,京都と北陸・山陰を結ぶ要路であった。鎌倉時代は若狭氏,北条一門,室町時代は足利一族,次いで武田氏が守護。
→関連項目朽木荘太良荘中部地方福井[県]保内商人

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

わかさのくに【若狭国】

現在の福井県南西部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府小浜(おばま)市府中(ふちゅう)、国分寺は同市国分(こくぶ)におかれていた。古代、中世を通じて公家(くげ)および興福寺東寺荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代は稲庭(いなば)氏、津々見(つつみ)氏、北条氏守護となり、南北朝時代には新田(にった)氏と足利(あしかが)氏が争った。室町時代には一色(いっしき)氏、武田氏、戦国時代朝倉の支配下におかれた。江戸時代京極の支配から酒井氏に代わって定着、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により小浜県、のち敦賀(つるが)県、さらに1876年(明治9)の滋賀県編入を経て、1881年(明治14)に福井県に編入された。◇若州(じゃくしゅう)ともいう。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

わかさのくに【若狭国】

旧国名。若州。現在の福井県南西部。
【古代】
 北陸道に属する中国(《延喜式》)。北陸道のうち,もっとも畿内に近い国。遠敷(おにゆう),三方(みかた),大飯(おおい)の3郡からなる。このうち大飯郡は825年(天長2)遠敷郡から分立して成立した。国司は守1人,掾1人,目(さかん)1人,史生3人からなる。国府の推定地は遠敷郡(現,小浜市内)。《延喜式》では,調としてアワビ,イカ,イリコ,スシ,イカイ,ホヤマゼズシ,カセ,ノリ,シオなどをおさめることになっていた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

若狭国
わかさのくに

福井県の南西部にあたる旧国名。小浜(おばま)市と三方(みかた)・三方上中(かみなか)・大飯(おおい)の3郡からなる地域。文化財に恵まれ、貝塚、古墳、製塩遺跡、寺社や彫刻類、古文書、民俗芸能にみるべきものが多い。北陸道の一つで中国。国府は小浜市府中に比定。国名の初見は『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇3年3月。古代以来塩業と漁業が盛んで、調(ちょう)として塩や諸種の海産物を納め、これらは、ともに中世を通じて発達した。鎌倉時代に津々見忠季(つつみただすえ)が守護になったあと、守護職(しき)は北条氏の得宗領として相伝され、さらに山名、細川、斯波(しば)、一色(いっしき)氏と交代し、1440年(永享12)武田氏にかわり、1570年(元亀1)まで9代続いた。なお、古代・中世には東寺(とうじ)領太良荘(たらのしょう)など著名な荘園が多く置かれた。1573年(天正1)丹羽長秀(にわながひで)が小浜に入り、87年には浅野長政(ながまさ)が若狭一国を与えられた。長政は農民支配の基本原則を示す7か条の条々を発布し、翌年領内の総検地を行った。このときの検地高は8万5000石余で、以後小浜藩の村高の基準とされた。その後木下氏、京極氏とかわり、1634年(寛永11)酒井忠勝(ただかつ)が11万3500石で入封して定着した。領知高には越前(えちぜん)国敦賀(つるが)郡(福井県敦賀市)と近江(おうみ)国高島郡(滋賀県高島市)を含むが、以後若干の変動がみられる。1640年、遠敷(おにゅう)郡新道(しんどう)村(三方上中郡若狭町新道)庄屋(しょうや)松木長操(ちょうそう)が総代となり年貢減免を要求する一揆(いっき)を起こした。長操は52年(承応1)磔刑(たっけい)に処せられたと伝えるが、確たる史料に乏しくなお不明な点が多い。のち1783年(天明3)と1833年(天保4)に大規模な打毀(うちこわし)が起こった。産業は前代からの漁業が盛んで、海産物は熊川宿を通って近江に至る九里半(くりはん)街道で京に運ばれた。そのほか「ころび」とよばれた桐油(きりあぶら)、若狭筆、若狭塗、めのう細工などが著名。藩校は順造館といい1774年(安永3)創立。学者も多く杉田玄白(げんぱく)、中川淳庵(じゅんあん)、伴信友(ばんのぶとも)などは小浜藩士だった。維新後、小浜、敦賀、滋賀県を経て1881年(明治14)越前と合併して福井県となる。地誌に『拾椎(しゅうすい)雑話』『稚狭(わかさ)考』、信友の『若狭旧事考』などがある。[隼田嘉彦]
『『福井県史』全3巻(旧版・1920~21・福井県) ▽福井県郷土誌懇談会編『若狭漁村史料』(1963・福井県立図書館) ▽『小浜市史』13巻・付録(1987~98・小浜市)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

若狭国の関連キーワード若狭国守護職次第田万川[町]出羽房雲厳九里半街道西田 当百和田維四郎小浜[市]福井[県]池田 有蔵円性房の妻若狭姫神社若狭彦神社溝口秀勝梅田雲浜神社私考中原氏女酒井貞月京極忠高若狭昆布佐々里峠

今日のキーワード

歌舞伎町ブックセンター

東京都新宿区歌舞伎町にある、ホストやホステスが書店員として接客する書店。歌舞伎町でホストクラブを運営するスマッパグループの事務所1階にあるイベント・カフェスペース「jimushono1kai」に併設さ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

若狭国の関連情報