建川美次
建川美次 1880年新潟市生まれ。陸軍士官学校を経て日露戦争に従軍、偵察活動で功績を上げ、ベストセラー小説「敵中横断三百里」のモデルとされる。陸軍中将の後、1940~42年、駐ソ連大使。41年4月に日ソ中立条約署名。同年3月7日、松岡洋右外相から難民へのビザ発給を禁じる通達を受けるが、その後も渡航証明の形で書類を出した。数百人の難民がビザか渡航証明を受けたとみられる。(レークウッド共同)
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建川美次
たてかわよしつぐ
(1880―1945)
陸軍軍人。明治13年10月3日新潟県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。日露戦争に従軍し、建川挺身(ていしん)隊長(将校斥候)として活躍し、山中峯太郎(やまなかみねたろう)『敵中横断三百里』のモデルとなる。イギリス、インドに駐在し、1929年(昭和4)参謀本部第二部長となる。1931年の三月事件のクーデター謀議に参画し、満州事変の勃発(ぼっぱつ)直前、参謀本部第一部長として関東軍の独断行動を引き留める名目で奉天へ派遣されたが、関東軍の謀略を黙認した。1932年中将となり、以後、第一〇師団長、第四師団長を歴任、1936年、二・二六事件後の粛軍人事により予備役となった。1940年駐ソ大使となり、日ソ中立条約の下交渉にあたる。1944年には大政翼賛会総務、大日本翼賛壮年団長に就任した。昭和20年9月9日死去。
[粟屋憲太郎]
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建川 美次
タテカワ ヨシツグ
明治〜昭和期の陸軍中将 駐ソ大使。
- 生年
- 明治13(1880)年10月3日
- 没年
- 昭和20(1945)年9月9日
- 出生地
- 新潟県新潟市
- 旧姓(旧名)
- 野崎
- 学歴〔年〕
- 陸士(第13期)〔明治34年〕卒,陸大〔明治42年〕卒
- 経歴
- 明治34年騎兵第9連隊付となり、38年日露戦に出征。将校斥候の隊長としてロシヤ軍の背後に潜入、横断。山中峯太郎の「敵中横断三百里」(昭和5〜6年「少年倶楽部」連載)のモデルになった。陸大卒業後、イギリス駐在、インド駐在武官。昭和6年参謀本部第2部長時代、陸軍の桜会を中心とする三月事件を主謀、十月事件に連座。その後ジュネーブ軍縮会議に派遣され、7年中将、8年第10、10年第4師団長を歴任。11年2.26事件後の粛軍人事により、予備役。東亜建設国民連盟、大亜細亜協会の幹部となり「興亜運動」を指導。15年第2次近衛文麿内閣の駐ソ大使、19年翼賛政治会総務、大日本翼賛壮年団団長。
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建川美次 (たてかわよしつぐ)
生没年:1880-1945(明治13-昭和20)
陸軍中将。新潟県生れ。1901年陸軍士官学校卒(13期)で騎兵少尉となり,日露戦争出征。《敵中横断三百里》は建川挺身隊の行動を小説にしたものである。その後参謀本部員などを歴任,大正中期ころより宇垣一成に引き立てられ,桜会や三月事件に関わり,満州事変においては参謀本部第一部長として現地に派遣されたが,すでに参謀本部として目標についての一致があったので関東軍の行動を黙認した。40年駐ソ大使,44年大日本翼賛壮年団団長などを歴任した。
執筆者:雨宮 昭一
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建川美次【たてかわよしつぐ】
陸軍中将。新潟県生れ。1901年陸軍士官学校卒。日露戦争に出征,建川挺身隊として活躍する。のち参謀本部員などを歴任し,桜会や三月事件に関与。満州事変で現地に派遣されたが,関東軍の行動を黙認した。1940年駐ソ大使,44年大日本翼賛壮年団団長などを歴任した。
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建川美次
たてかわよしつぐ
[生]1880.10.3. 新潟
[没]1945.9.9. 東京
陸軍軍人。 1901年陸軍士官学校卒業。 04~05年日露戦争に騎兵として出征,建川挺進隊長として有名になった (『敵中横断三百里』のモデルとなる) 。 09年陸軍大学校卒業。第1次世界大戦では南部戦線に従軍。 32年中将。師団長などを経て 36年に予備役に編入され,40~42年駐ソ大使として松岡洋右外相の訪ソ準備などにあたった。
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建川美次 たてかわ-よしつぐ
1880-1945 明治-昭和時代前期の軍人。
明治13年10月3日生まれ。日露戦争で建川挺身隊隊長として活躍,山中峯太郎の「敵中横断三百里」のモデルとなる。満州事変の直前,参謀本部第一部長として現地に派遣されたが,関東軍の謀略を黙認。昭和15年駐ソ連大使となり,日ソ中立条約の交渉にあたった。陸軍中将。昭和20年9月9日死去。66歳。新潟県出身。陸軍大学校卒。
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建川 美次 (たてかわ よしつぐ)
生年月日:1880年10月3日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人
1945年没
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世界大百科事典(旧版)内の建川美次の言及
【三月事件】より
…前年10月[桜会]を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から20万円の資金をえた。…
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