三輔(読み)さんぽ

精選版 日本国語大辞典 「三輔」の意味・読み・例文・類語

さん‐ぽ【三輔】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 三人の補佐
    1. [初出の実例]「大臣若有問。即三輔随状辨答」(出典延喜式(927)一九)
  3. 中国、前漢武帝の時、長安を中心とする周辺の地を三分して置かれた行政区画京兆尹(長安以東)・左馮翊(長陵以北)・右扶風(渭城以西)の総称。また、その長官をもいう。
    1. [初出の実例]「禀貴種而仕羽林、遙嘲東漢三輔(ホ)之良家」(出典:詩序集(1133頃)月明貴賤家詩序〈藤原茂明〉)
    2. [その他の文献]〔史記‐大宛伝〕

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普及版 字通 「三輔」の読み・字形・画数・意味

【三輔】さんぽ

漢の長安以東を京兆尹、長陵以北を左馮翊(さひようよく)、渭城以西を右扶風、合わせて三輔という。〔塩鉄論園池〕三輔は山河し、地狹く人衆(おほ)く、四方竝び臻(いた)る。粟米、相ひ贍(た)すこと能はず。田轉假し、桑楡果殖せず。

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改訂新版 世界大百科事典 「三輔」の意味・わかりやすい解説

三輔 (さんぽ)
Sān fǔ

中国の前漢時代,都の長安を中心に設けられた3行政区画の総称。武帝の前104年に制定され,長安を含んだ東部を京兆尹(けいちよういん),北部を左馮翊(さひようよく),西部を右扶風(ゆうふふう)と称し,長官はみな長安城中に駐在した。これと並んで京輔・左輔・右輔都尉をおき,三輔都尉と称して警察事務を分担させた。後漢では都が洛陽に移ってからも,京兆尹以下の名称は存続したが,実質は一般の行政区画と変わらなかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三輔」の意味・わかりやすい解説

三輔
さんぽ
San-fu

中国,漢代の首都長安周辺の行政区画。長安およびその東部地区を京兆尹 (いん) ,北部地区を左馮翊 (さひょうよく) ,西部地区を右扶風という。この地は秦までは内史と呼ばれ,文帝時代に左内史,右内史となり,武帝時代に三輔の制がしかれた。三輔の長官は郡の大守と同秩であったが,その地位九卿に比されて,しばしば朝政に参画した。

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世界大百科事典(旧版)内の三輔の言及

【三輔黄図】より

…中国,長安(現,西安)を中心にその近郊に位置する三輔(京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう))の地域の,主として漢代の古跡を記述した地理書。宮殿,苑囿(えんゆう),陵墓などの来歴を述べ,ときにそうした場所にまつわる伝説も引用される。…

【陝西[省]】より

…秦に代わった漢(前漢)は秦の都咸陽(かんよう)の南,渭河の南岸に新都を築いて長安と称し,天下の政治・経済・文化の中心としたが,経済の中心はしだいに東に移動し,1世紀の初め漢王朝がいったん中断して後漢が成立すると都は洛陽に定められた。秦は本省の地域を三分し,関中を内史といって中央の直轄,北部を上郡,南部を漢中郡とし,漢では秦の内史を京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう)(合わせて三輔(さんぽ)という)に分けて司隷校尉(しれいこうい)の所轄とし,北部は上郡・西河・朔方の3郡として幷州(へいしゆう)に,南部を漢中と武都の2郡として梁州に所属させた。三国時代には関中は雍州に属し,南部の東半とともに魏の領土となり,西半は蜀の領土に入ったが,北部は匈奴(きようど)に占拠されて中国の支配から離れたのである。…

【長安】より

…3道の中央部分が馳道つまり皇帝の車馬の専用道路である。城内は里に区画され,《三輔黄図》によると160あったという。里もそれぞれ牆垣でかこまれ,その内部は巷で区切られていた。…

※「三輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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