
し、地狹く人衆(おほ)く、四方竝び臻(いた)る。粟米
、相ひ贍(た)すこと能はず。
田轉假し、桑楡
果殖せず。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中国,長安(現,西安)を中心にその近郊に位置する三輔(京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう))の地域の,主として漢代の古跡を記述した地理書。宮殿,苑囿(えんゆう),陵墓などの来歴を述べ,ときにそうした場所にまつわる伝説も引用される。…
…秦に代わった漢(前漢)は秦の都咸陽(かんよう)の南,渭河の南岸に新都を築いて長安と称し,天下の政治・経済・文化の中心としたが,経済の中心はしだいに東に移動し,1世紀の初め漢王朝がいったん中断して後漢が成立すると都は洛陽に定められた。秦は本省の地域を三分し,関中を内史といって中央の直轄,北部を上郡,南部を漢中郡とし,漢では秦の内史を京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう)(合わせて三輔(さんぽ)という)に分けて司隷校尉(しれいこうい)の所轄とし,北部は上郡・西河・朔方の3郡として幷州(へいしゆう)に,南部を漢中と武都の2郡として梁州に所属させた。三国時代には関中は雍州に属し,南部の東半とともに魏の領土となり,西半は蜀の領土に入ったが,北部は匈奴(きようど)に占拠されて中国の支配から離れたのである。…
…3道の中央部分が馳道つまり皇帝の車馬の専用道路である。城内は里に区画され,《三輔黄図》によると160あったという。里もそれぞれ牆垣でかこまれ,その内部は巷で区切られていた。…
※「三輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[名](スル)二つ以上のものが並び立つこと。「立候補者が―する」「―政権」[類語]両立・併存・同居・共存・並立・鼎立ていりつ...