上之郷村(読み)かみのごうむら

日本歴史地名大系 「上之郷村」の解説

上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]泉佐野市上之郷

日根野ひねの村の西に位置する大村。村の北部は比較的平地帯が広がるが南部は山間地で、おおよそその境辺りを樫井かしい川が西流する。地名は古代の日根郡賀美かみ(和名抄)の中心地であったとの伝承から名付けられたといわれる。

天福二年(一二三四)六月二五日の、九条家領日根庄の庄域を確認した官宣旨(九条家文書)に「上郷」とみえ、日根庄四至内ではあるが同庄としては認められない地となっている。正和五年(一三一六)の日根野村絵図(同文書)には日根野村南部の樫井川を挟んだ地域に「上郷」とみえる。応永二〇年(一四一三)頃には当地は日根庄五ヵ村の一村として同庄に組込まれている(同年四月日「九条右大将満教家雑掌目安案」同文書)。延徳三年(一四九一)日根野村と当地の間で境争論が起こり、九条家の訴えによって同年七月一一日裁決が下されているが、その宛先が「大伝法院衆徒御中」となっており、当地は根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)の支配下にあったことが知られる(同年七月一一日「室町幕府奉行人連署奉書案」同文書)


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]海老名市上郷かみごう

相模川の東にあり、東は国分こくぶ村、南は河原口かわらぐち村、北は上今泉かみいまいずみ村・下今泉村、四谷よつや(現座間市)と接しており、西は相模川を隔てて愛甲あいこう金田かねだ村・下依知しもえち(現厚木市)と面している。また村を東西に矢倉沢やぐらさわ往還、南北に八王子道が通じている。中世は海老名郷五ヵ村の一つ。正保国絵図には「上海老名」、元禄国絵図には「海老名上之郷村」とあり、元禄郷帳には「海老名・古者上村上之郷村」とある。

近世は、寛永一七年(一六四〇)まで幕府直轄領、以後旗本秋元領との相給。幕府直轄領は万治二年(一六五九)から貞享元年(一六八四)の間、久世(のち下総関宿藩)領となり、元禄一〇年(一六九七)旗本三氏に分れる。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]磯部町上之郷

伊雑いぞうノ浦に流入する神路かみじ川と川にまたがり、東は洪積台地、西は両河川のつくった沖積低地である。北は山田やまだ村と接し、南は下之郷しものごう村に接する。内宮の別宮伊雑宮の所在地である。本来伊雑宮の宮域で人家はなかったところに、上村と称されていた沓掛くつかけ村・山田村の住民が進出して出郷をつくり、その南にある下之郷に対して上之郷と称したという説(考説大神宮本記帰正抄)と、中世に上之郷を割いて沓掛と山田を分置したとする説(志陽略誌)がある。前者の上村については「冖一山記」奥書(「鳥羽誌」所引)に「応永二十二年竜集乙未夏六月二十八日、於志州答志郡伊雑神戸上村鶏栖亭」とみえ、応永(一三九四―一四二八)の頃にはなお上村と記されている。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]浜松市上西町かみにしちよう

西塚にしづか村の北に位置。上ノ郷・上郷などとも記された。中世のかば御厨のうち上郷の遺称地。上郷に対して下郷もみえるが比定地は不詳。建久八年(一一九七)六月日の北条時政下文(蒲神明宮文書)に蒲上下両郷とみえ、源清成が両郷の地頭代職に補任されている。なお治承四年(一一八〇)一二月一三日の源某下文(同文書)に「蒲上下田畠在家」とみえ、安田義定が加徴米等を免除しているが、この文書は検討の余地がある。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)によれば、上郷の定麦三石一斗余・定豆三石四斗余、定役三貫四五八文。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]睦沢町上之郷

下之郷村の南西に位置し、埴生はぶ川支流の瑞沢みずさわ川が流れる。古くは埴生郡に属していたとされ、中世から上郷としてみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千二六一石。寛永二年(一六二五)知行宛行状長柄ながら郡上之郷三三石余とあり、旗本永見領。幕末まで同領。正保国絵図では神野とあり、高一千二六一石余。元禄郷帳では高一千二七九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二一二で、幕府領と旗本牧野・中川・杉田・永見氏の相給。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]出雲市上島町かみしまちよう

斐伊川中流左岸にあり、西の下流は船津ふなつ村、西は宇那手うなて村・稗原ひえばら村。村内に中島なかのしま村民が混住していた。「雲陽軍実記」によれば、元亀元年(一五七〇)吉川元春が兵二千を率いて「舟津上の江に陣取」ったという。正保国絵図に上郷村とみえる。明暦四年(一六五八)の上之江村御検地帳によれば田方四四町八反余・分米五〇二石余、畑方四六町五反余・分米二五四石余、屋敷数三八(うち役目屋敷二三)とある。元禄十年出雲国郷帳では高一千六二石余、寛文四年(一六六四)の本田高九四一石余・新田高六八石余。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]養老町上之郷

大野おおの村の北西、金草かなくさ川右岸の平坦地にある。北西は岩道いわみち村、南は下笠しもがさ村。慶長郷帳に村名がみえ、高六一六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば旗本日根野高継領。正保郷帳によると高須藩領で、田三四八石余・畑二六八石。元禄郷帳および延享五年(一七四八)の免定取米書上(近藤文書)では幕府領だが、宝暦一三年(一七六三)には大垣藩預所となる(岐阜県史)。同書上によれば享保三年(一七一八)から同一〇年の毛付は高辻六一六石に対し五六五石ほどで、免は田方が四ツ六分、畑方が三ツ七分ほどであった。天保一一年(一八四〇)当村内の掘抜井戸数は二七ヵ所あり、多くは二―五人一組で一井戸を有している(「掘抜井戸数小別覚」養老町蔵)


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]多度町上之郷

七郷ななごう輪中の東南端、東は揖斐いび川を隔てて、宝暦五年(一七五五)薩摩藩士の治水工事によって完成した油島千本松あぶらじませんぼんまつ締切堤(現岐阜県海津町)と相対し、南は多度川。堤防上を鉤形に屈曲して村が連なる。大井蓮実譲状案(大井文書「神奈川県史」資料篇所収)の弘安元年(一二七八)九月一七日に、子息彦次郎頼郷に譲渡す各所地頭職のなかに「伊勢国鹿取荘内上郷地頭」とみえ、続いて同七年八月一六日付の頼郷から嫡子への譲状案にも「一所 いせのくに かとりかみ郷 ちとう職」とある。


上之郷村
かみのごうむら

[現在地名]蒲郡市かみごう

清田せいだ村の西にあたる。「和名抄」所載の宝飯ほい赤孫あかひこ郷の上郷であろうとされる。慶長六年(一六〇一)までは池田輝政領、同年形原かたのはら松平氏領、同一七年深溝ふこうず形原藩領、元和五年(一六一九)松平清直領、慶安四年(一六五一)松平親明領、延宝元年(一六七三)から相給地となって、一部を幕府領に割かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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