日本歴史地名大系 「伊雑宮」の解説
伊雑宮
いぞうぐう
神亀六年(七二九)の志摩国輸庸帳(正倉院文書)によれば、伊勢大神宮の神戸が置かれ、正丁一一五、次丁一五、計一三〇人の庸が課せられているが、そのほかに粟島神と伊雑神に寄せられた神戸があり、「伊雑神戸課丁陸正丁五次丁一 輸庸塩捌斗弐升伍合 弐籠弐斗弐升伍合」とあり、六人の庸が課せられている。「新抄格勅符抄」によれば、大同元年(八〇六)の牒に「粟島神二戸、伊雑神二戸」とあり、神戸が二戸あった。「太神宮諸雑事記」の延長五年(九二七)九月の条に「伊雑宮御祭料、志摩国例進之幣帛、并御調種々御贄等、依例為令調備」とある。志摩守氏胤が妻の産穢を理由に調進を免れようとしたが、上祓を科せられ御贄を調進するよう命ぜられるとともに国司の釐務停止の宣旨を下されている。贄調進が志摩国司の重要な任務であることが知れ、わずかの神戸が置かれた志摩において伊雑宮が重視されたのは御食つ国である志摩国の唯一の大社であったためである。また伊雑ノ浦が大神宮神戸の一中心をなしていたと思われ、すでに平安の後期、伊雑宮古文書(神宮文庫蔵)によれば大治元年(一一二六)頃にはこの地域一帯を「伊雑神戸」とよび
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報