日本歴史地名大系 「上台村」の解説 上台村かみだいむら 栃木県:下都賀郡石橋町上台村[現在地名]石橋町上台細谷(ほそや)村の北、姿(すがた)川右岸に立地し、対岸は上石橋(かみいしばし)村。文禄年間(一五九二―九六)宇都宮氏家臣の高山大学以下四人が当地に潜居し、のち帰農して開発したという。宇都宮氏旧臣姓名書に高山姓四人・小平姓二人の名がみえる。文化四年(一八〇七)の上台村始之事(小平昇文書)によれば草分の高山氏と古谷氏が名主役を勤め、ほかに年寄として小平氏・増田氏がいた。慶安郷帳に村名がみえ、田二一六石余・畑三六石余で壬生藩領。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録に村名が記される。元禄郷帳では高四三三石余で旗本竹本・向山領の二給。改革組合村では幕府領と旗本竹本・向山領の三給で家数一九。 上台村うわだいむら 山形県:最上郡金山町上台村[現在地名]金山町上台下野明(しものみよう)村の西、金山川支流上台川の最下流域に位置し、本郷は羽州街道に沿う。新田本村鑑によれば枝郷として西方を南流する金山川の対岸に位置する大又(おおまた)・荒屋(あらや)など三ヵ村をあげるが、荒屋は金山七日町(かねやまなのかまち)村と入会との注記がある。元和八年(一六二二)の御前帳写では金山上台村とみえ、高三九八石余、寛文四年(一六六四)には高四六二石余、うち新田六四石余(新田本村鑑)、文化元年(一八〇四)には高九二三石余、うち田方七三四石余、反別一〇三町二反余、うち田方七三町九反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)の新庄領総高控では竈数六一(うち借屋四)、人数三四三、駄馬三七・駒三。 上台村うわだいむら 福島県:東白川郡棚倉町上台村[現在地名]棚倉町上台檜木(ひのき)村の東、阿武隈高地西端部と八溝(やみぞ)山地北端部との境をなす丘陵地に立地。江戸時代の領主の変遷は伊野上(いのかみ)村と同じ。慶長五年(一六〇〇)二月の赤館城領覚(秋田藩家蔵松野家文書)に「上台」とみえ、高一六五石余。正保郷帳では高一四一石余、うち田二石余・畑一三八石余。 上台村うわだいむら 秋田県:鹿角市上台村[現在地名]鹿角市花輪(はなわ) 上台西流して米代川に注ぐ間瀬川(ませがわ)上流山麓に位置。須恵器坏などを出土する遺跡がある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「上台地」とあり、村高一八石二斗余はすべて蔵分、民戸二〇軒、馬三七匹。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by