日本歴史地名大系 「石橋町」の解説
石橋町
いしばしちよう
石橋町
いしばしちよう
石橋町
いしばしちよう
知恩院総門の正面、
宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「石橋町 此町、北へ行ば高畠町也。(中略)此西の辻、南へ行所を切通と云。又中ばしとも云。新門前へ出る」とみえる。町名は白川に架かる石橋にちなむが、この石橋は知恩院門前の代名詞のように地誌類で言及されることが多い。石橋町の称は正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名并家数改帳(荻野家文書)以後で、当時の家数は二六軒を数えた。
江戸時代には町の南側に肥前平戸松平家、肥後熊本細川家の藩邸が置かれたが、明治三年(一八七〇)官に接収され、のち民有に帰した。
石橋町
いしばしちよう
石橋町
いしばしまち
石橋町
いしばしまち
石橋町
いしばしちよう
石橋町
いしばしまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報