上善寺
じようぜんじ
千松山遍照院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。貞観五年(八六三)円仁の草創と伝える。文明年間(一四六九―八七)に後土御門・後柏原両天皇の戒師を務めた春谷盛信が再興し、後柏原天皇の勅願寺として、不断念仏道場の綸旨を賜ったという(拾遺都名所図会・坊目誌)。もと天台宗で、文禄三年(一五九四)には千本今出川(現京都市上京区)にあったが、豊臣秀吉による天正の町づくりで現在地に移った(坊目誌)。
上善寺
じようぜんじ
[現在地名]泉佐野市栄町
浄土宗。白道山西岸院と号し、本尊は阿弥陀如来。開山は和泉地方への浄土宗発展に尽力した燈誉。燈誉は光念といい、知恩院第二七代で浩蓮社徳誉と号した。伊勢国桑名の光徳寺の開山でもある。永正年中(一五〇四―二一)現在地の南西方上善寺山に一宇を創建したのに始まる。その後末寺も四八ヵ寺に及び、当寺は修学の檀林として栄えたという(蓮門精舎旧詞)。
上善寺
じようぜんじ
浄土宗、法幢山と号す。本尊阿弥陀如来。もと瀬木にあって定善寺と称する天台宗の寺で、元亀元年(一五七〇)の創立と伝える。のち浄土宗に改宗し、牧野越中守が大檀那となって牛久保に移した。天正三年(一五七五)の長篠の戦のとき徳川家康が当寺に宿陣して馬頭観音に三日間戦勝祈願をしたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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