上黒田村(読み)かみくろだむら

日本歴史地名大系 「上黒田村」の解説

上黒田村
かみくろだむら

[現在地名]京北町大字上黒田

黒田六ヵ村の一。大堰おおい川上流に位置し、川を東にさかのぼると鎌倉かまくら大布施おぶせ(現京都市左京区)に達し、西に下れば黒田宮くろだみや村・下黒田村に至る。通称上村。

古代は「和名抄」に記す山国やまぐに郷に属し、中世は山国庄枝郷黒田村に含まれる。南北朝期に均等名荘園になり、黒田三ヵ村(上黒田・下黒田・黒田宮)には四名半の名田があったが当地には吉野よしの名があって、初期の名主は吉野氏であった。一説に永正年間(一五〇四―二一)吉野氏と黒田村民の間に争乱が起こり、吉野氏は夜討をかけられて屋敷は全焼、滅亡したと伝える(元禄年間「西家永代書留」西家文書)。しかし南北朝から室町中期にかけての史料に吉野氏の名前がまったくみられないことなどから、吉野氏はもっと早い時期に没落したと思われる。

当村の荘園関係の史料のうち最古の文書は康永四年(一三四五)大江重任田地宛行状(吹上家文書)である。

<資料は省略されています>

中世の名主には吉野氏のほかに吹上(二家)・大江・中西・米田・吹野・畠の諸氏がある(吹上家文書)。天文一九年(一五五〇)五月付の郷中名主之事(同文書)には、上黒田村に吹上治部太郎国光(本家)・吹上掃部允光国(分家)・畠掃部允信連の三家が記される。


上黒田村
かみくろだむら

[現在地名]上郷町上黒田

現上郷町の北西部山麓にあり、下黒田村との間を伊那往還(現県道飯島―飯田線)が通じている。村高は正保四年(一六四七)に三四二石余(信濃国絵図高辻)、天保五年(一八三四)に三六二石余(信濃国郷帳)で江戸時代を通じて大きな変化はなかった。

野底のそこ川から引水して上黒田と下黒田・飯沼いいぬまの三ヵ村の大部分を灌漑する大井おおい(三ツ井)の取入口がある。この用水の開削は平安時代末期から室町時代に至る間と推定される(上郷史)が、文献的には明らかでない。野底川の一番井として、芝による堰切りの権限をもっていた。取入口から約四五〇メートル下った所で南井・中井・北井の三つの井筋に分れ、渇水時には北井七分、中井・南井三分に分水するのが慣行であった。


上黒田村
かみくろだむら

[現在地名]高岡市上黒田

千保せんぼ川と庄川に挟まれ、下黒田村の南方に位置。後醍醐天皇の皇子宗良親王に随従した富田一族ゆかりの地とされる。かつて肥後天草あまくさの黒田某・秦某がこの地を開いて村立てし、黒田村・黒田開と称していたが、のち黒田開が上黒田村と改称したという。正保郷帳では高二一六石余、田方一二町三反余・畑方二町一反、新田高三二石余。寛文六年(一六六六)川崩れにより二一石が検地引高となり、同一〇年の村御印の草高二三七石・免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。宝永三年(一七〇六)黒田開として二一石余の畑直し、三七石余・三三石ほどの新開が行われた(「高免等書上帳」折橋家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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