下平村
しもだいらむら
[現在地名]佐久市大字伴野 下平
蓼科山の東北麓最先端、千曲川の沖積平野に面し、東は下桜井村、西は竹田村、南は熊久保村、北は今岡村に接する。
慶長五年(一六〇〇)小宮山村より分村したと伝えている(南佐久郡誌)。元和八―九年(一六二二―二三)頃「駿河大納言様御代片貝川ヨリ堰堀渡シ、堰口ヨリ堰末迄九百六拾三間」(重田祐一氏蔵文書)とあるように下平用水を開いてから開拓が進んだ。寛永一三年(一六三六)信州佐久郡子ノ年御改付御帳(文部省史料館蔵)には「高二百九拾八石四斗六升壱合 取米九拾七石三升 下平村」とある。
下平村
しもだいらむら
[現在地名]片品村下平
摺淵村の北東、片品川左岸に位置。南方伊香原(現利根村)からきた会津街道が通る。天正七年(一五七九)一二月二六日の武田家朱印状(北条文書)で、小中彦兵衛尉に「下平之内」が戦功の賞として宛行われている。寛文郷帳によると田方三石余・畑方一一六石余。寛文二年(一六六二)の検地帳(「片品村史」所収)によると高五三八石余、反別は田一町余・畑二七町二反余・屋敷一町六反余。
下平村
しもだいらむら
[現在地名]足助町下平
標高六八三・五メートルの炮烙山と、五七一・八メートルの十明山から流れ出る谷川が合流するところに位置する。東は四ッ松村、南は大沼村・柵之沢村(現下山村)、西は日明村(現豊田市)・平折村、北は岩谷村に接する。集落は谷川に沿う谷地形の山麓に点在。
下平村
しもびらむら
[現在地名]北勢町下平
西貝野村の西、員弁川支流田切川の東に位置する。村名の由来は、向平村に対して田切川の南にあったからだという(五鈴遺響)。江戸時代は桑名藩領。文政七年(一八二四)の村明細帳(徳川林政史蔵)には、戸数五八、人数二七四(男一四〇・女一三四)、牛三四、馬二。神祠に八幡宮・山ノ神とある。同一〇年の桑名領郷村案内帳に、本道医師一人と、「古城跡 田切左兵衛ト申伝候由」とある。
下平村
しもだいらむら
[現在地名]鳳来町睦平
真立川の下流にある。北は大野村、東は六郎貝津村と接する。下吉田村阿寺から当村の峰野を通り、真立川を渡って大野村に出る道は、江戸時代から利用され、峰野には床屋もあったと伝える。
下平村
しもだいらむら
[現在地名]鳳来町富栄
浅畑村の東、三輪川右岸の段丘上にある。浅畑村の西長篠村との間にある富貴集落は当村の飛地である。村域東の端にあるおくわ山の断層崖は、三輪川に迫り東方を遮っている。村内にある元禄二年(一六八九)と寛延元年(一七四八)の石仏は浅畑村との共同建立で、浅畑村の元禄二年・宝暦九年(一七五九)・天保八年(一八三七)の三石仏も両村の共同建立であり、両村は古くから一村のようであったことを示す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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