床屋(読み)とこや

精選版 日本国語大辞典 「床屋」の意味・読み・例文・類語

とこ‐や【床屋】

〘名〙
① (江戸時代、男の髪を結う髪結職が床店(とこみせ)仕事をしていたところから) 髪結床(かみゆいどこ)
※俳諧・河鵆(1817)冬「はふり子は床や也けり里神楽〈求古〉」
理髪店。また、理髪師
文明開化(1873‐74)〈加藤祐一〉初「何某は狐に誑(ば)かされたさうなと、風呂屋でもいひ床屋(トコヤ)でもいふ」
③ (「床」は「鉄床(かなとこ)」の略) 鉄敷(かなしき)屋。
梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月二二日「今日も床屋より火事出候間、床屋を皆々ぬらせ候へと申付候」

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デジタル大辞泉 「床屋」の意味・読み・例文・類語

とこ‐や【床屋】

江戸時代、髪結い床店とこみせで仕事をしていたところから》髪結い床。また、理髪店
[類語]理容師髪結い床山美容師

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改訂新版 世界大百科事典 「床屋」の意味・わかりやすい解説

床屋 (とこや)

主として頭髪を刈ったり結うなどして整えたり,ひげをあたったりすることを生業とする職種およびその店,またそれに従事する人を指す語。前者理髪店(所),理容店(所),散髪屋などと,後者は理髪師,理容師などとも称される。英語ではbarber(barber's)shop,barberで,語源は〈ひげ〉を意味するラテン語barba。古くから世界の各地に存在し,その職掌は現在のものより広かったことが多い。

〈床屋〉の語は江戸時代に生まれたことばで,髪結の店,つまり,髪結床(かみゆいどこ)の俗称であった。簡単に取りたたむことのできる仮設の床店(とこみせ)が多かったための称で,橋詰め,川岸,道路ぎわなどの床店を出床(でどこ)と呼ぶのに対して,町内の家屋を使って営業する場合でも,内床(うちどこ)といった。男性客のみを対象としたもので,従業者も男子に限られており,1842年(天保13)には,下ぞりを妻に手伝わせる店のあることが問題になり,〈男女の差別も薄く,風俗にも拘(かかわ)る〉として禁止された。床屋は親方と呼ぶ店主のほかに,剃出(すりだし)と呼ぶ弟子を1~3人程度置くのが普通だった。剃出は客の頭に櫛(くし)を入れて月代(さかやき)や顔をそり,ふけをかいたあと客に頭を洗わせた。親方がそのあとを引きついで,まず清剃を行い,次にびんつけ油を塗ってすき櫛ですき,目の粗い櫛で髪を整えてくくり,また油を施して櫛を使い,元結(もとゆい)/(もつとい)で髻(もとどり)を結んでから客の好みの髷(まげ)を結ぶ,と寺門静軒の《江戸繁昌記》は記している。静軒はまた,当時の床屋は48組に分けられており,それに所属するものが全体で964戸,ほかに組に加入していないものが2000余もある,といっており,式亭三馬の《浮世床》同様に庶民の社交場であった床屋風景を活写している。なお,江戸の床屋は,首筋から耳孔まで細いかみそりでするなど万事に仕事がていねいで,〈上方の存在(ぞんざい)なる髪月代とは雲泥の相違〉と西沢一鳳は《皇都午睡》(1850)に記す。
髪結
執筆者: 1871年(明治4)のいわゆる断髪令は,一般には斬髪(ざんぱつ)は〈勝手たるべし〉という文字にもかかわらず半ば強制的な意味に受け取られていた。しかし斬髪の風はこれ以前に行われており,海外渡航者や横浜の太田陣屋に駐屯する福井藩士が洋式調練の際,いち早く斬髪していた。73年3月には天皇が斬髪して模範を示し,断髪令の推進をはかった。このころには斬髪する者も増え,〈じゃんぎり頭をたたいてみれば〉のはやり歌が広まった。斬髪風俗は横浜に端を発し,東京も従来の髪結床に代わって散切(ざんぎり)床が繁盛することになって,〈髪挟所〉〈西洋床〉〈西洋各国風散髪刈鋏所〉などの看板を掲げた。なかでも常盤橋御門外本町の川名床は宝珠のついた白地に赤・青のねじり巻きの彩色棒を軒先に立て,次いで〈西洋散髪司〉の看板を用いて人目を驚かせた。この彩色棒は日本に取り入れられたバーバー・ポールの第1号であり,以来理髪店のしるしとして今日に及んでいる。

 理髪店の名称が生まれるのは,1879年の理髪人鑑札交付に基づくもので,一般用語としては江戸時代の髪結床に根ざす〈床屋〉,あるいは〈床場〉の語が用いられた。1901年警視庁令で,〈理髪営業取締規則〉が公布されて,剪髪(せんぱつ)または結髪(女髪結業)をなすものは,店舗を構えると否とにかかわらず,所轄警察署に届け出ることとなった。同時にホルマリン液,石炭酸水,炭酸ソーダ水による液体消毒,蒸気消毒,煮沸消毒その他,営業上の遵守事項が定められた。10年には明治理髪学校が創立された。大正時代に入り,1915年京都に帝国理髪学校開校。以後大阪,名古屋,呉,横浜などに私立や組合立の理髪(美容)学校が相次いで開校した。18年大阪府条例で全国に先駆けて,請願による試験制度が採用された。昭和に入り,道府県令の本格的試験制度が立案され,1930年東京府で実施され,諸県に及ぶようになった。

 現在見られる〈理容〉の名称は,35年〈理容術営業取締規則〉が実施されてから,公称となったものである。この以前に警視庁令で美容術営業と称した期間もあった。45年の敗戦とともに,業界は再建の道を歩むことになり,翌年全国理容連盟を結成。47年公布〈理容師法〉によって理容師の免許制が定められた。社会的・文化的使命が明確に示され,従来の徒弟制度を脱皮して,理容師養成施設による教育制度に変わり,新しい時代にそったカリキュラムが行われるようになった。58年全国理容連盟は解散し,全国理容環境衛生同業組合連合会組織となって今日に及んでいる。
執筆者:

中国では理髪館,または剃剪(ていせん)人という。剃頭,薙工(ていこう)などの呼称もある。理髪,剃剪は髪をくしけずり,ひげもそるという意味で,古代から男女ともに結髪をした中国では,それらは重要な身だしなみの一つであった。職業としての床屋がいつごろから出現したかはつまびらかにしないが,北宋の時代,当時の首都であった汴京(べんけい)(開封)を描いた張択端の《清明上河図》の中に,よしず張りの露店の床屋が見える。また孟元老の《東京夢華録》にも汴京の盛場に剃剪が,薬売りや八卦見などにまじって商売をしていたことが記されている。南宋の文献である《夷堅志》などにも〈鑷工(じようこう)〉〈剃工〉の語が見え,理髪とともに,耳,鼻の掃除のサービスをしていたことがわかる。その後の時代も商業と都市の発達のようすからみて,床屋の商売も定着していったと推察される。

 時代が下った清代では,床屋は賤業視され,ツンフトに加入できなかったヨーロッパ中世の床屋と同じく名誉ある職業とみなされなかった。清末の哥老会(かろうかい)などの秘密結社も,輿夫(かごかき)などとならんで床屋の入会を拒んだという。清末から民国の時代の床屋は,諸都市において俳優や楽師などと同じく〈手芸人ギルド〉を結成し,仲間の互助・規制を行っていた。民国の北京では,床屋のギルドを理髪業公会といったが,会員は職人の引抜きを禁止し,顧客争奪を抑制しあった。そして流しの床屋はギルドから排除された。ギルド・ホールは整容行会館といい,守護神は羅祖(真人)であった。なお,清末の蘇州などでも剃頭公所という呼称のギルドの存在が知られる。
執筆者:

ヨーロッパ諸国において,床屋が独立した職業として発達してくるのは,古代ギリシアのアテナイの市民社会からであったといわれる。髪やひげの手入れのほかにも,マッサージ,応急手当などを行う店があり,そこは民衆が政治や学問について自由に論じあう楽しい場所であったと想像される。ローマの発展が最盛期を迎えたころ,髪やひげあるいはかつらの手入れは奴隷の理髪師によって入念になされるのが常であった。また豪壮な公衆浴場には,体育場や理髪・娯楽設備も付設され,保健衛生と慰安の場として利用された。

 ローマ帝国の衰退とゲルマン人の侵入に始まるいわゆる古代末期から初期中世にかけて,床屋はいったん姿を消す。やがてキリスト教が広まり中世も盛期になると,理髪師は修道士の助手として修道院や,教団の病院に協力して,刺絡など外科的手術を受け持つようになった。もともと髪やひげの手入れを職業とする床屋は,初歩的な衛生知識を心得ていたし,また刃物の使用にも慣れていたからである。そうした床屋は,しだいに民衆の要望に応じて,創傷,やけど,骨折,ねんざ,脱臼などの治療を施すようになった。とくに中世のヨーロッパでは,大学出身の医者は手の技を卑しい仕事と考え外科的治療に携わらなかったので,床屋が外科医を兼ねることが定着した。また当時の修道士は,教会の規則で定期的に剃髪と瀉血(しやけつ)のために床屋に行くことが決められていた。こうして中世の末ごろまでに床屋医者あるいは理髪外科医barber-surgeonといわれる職業が重要な存在となっていた。彼らはおもに瀉血,抜歯,下剤かけなどを行い,ギルドをつくっていた。13世紀末のイギリスでは,大学で修業した学識ある外科医にchirurgeonまたはsurgeonの称号を与えて,在来の徒弟修業の理髪外科医と区別した。衣服も長衣をまとい特別の帽子をかぶり,青と白に彩った棒に小さな赤旗と薬つぼをつけたものを招牌に用いた。理髪外科医は短衣に,青白の棒だけを許可された。このように理髪外科医は,正規の外科医に比べ長く劣ったものとみなされてきたのであり,その一端はbarber-surgeonが〈やぶ医者〉の意で使われることにもうかがえる。ドイツのように理髪外科医,湯屋外科医,外科医の相互の間に紛争がしばしば起きたところもある。イギリスでは1540年に理髪外科医の組合が国家で承認されて,これが外科学校の前身となり,フランスでもこのころ理髪外科医のマスター資格が公認のものとなった。

 今日,床屋の看板に残る赤・白または赤・白・青のだんだら塗りにした棒は,〈瀉血療法いたします〉の意味で,瀉血刺絡bleedingのとき,血に染まる握り棒と包帯に模し,理髪外科が実際に用いたもので,バーバー・ポールbarber poleとして久しい伝統をもっている。赤・白・青の彩色はそれぞれ動脈,包帯,静脈をあらわすという説は当たらない。動脈・静脈の学説はイギリスの王室侍医となったW.ハーベーが血液循環説を述べた名著《動物における心臓および血液の運動に関する解剖学的研究》を発表したことによるもので,1628年以後に属する。なお,理髪外科医出身の名高い外科医にA.パレがいる。彼は手腕,人格ともに優れて,フランス国王の外科医頭兼侍医に昇進した。〈われ包帯し神これを癒し給う〉は千古の名言である。1745年イギリスにおいては,床屋と外科医が法令で分離されることになった。床屋にとって衰微するか興隆するか岐路に立たされたのである。

 一方,18世紀には前世紀から引き続いて,各種かつらの着用は絶頂期を迎えて,かつら師の組合も生まれた。床屋とかつら師の両者を兼ねる者もおり,宮廷には男子結髪師の活躍も起こってきた。しかし18世紀末のフランス革命,産業革命の展開,アメリカ独立など欧米の情勢は大きく変わっていった。1887年ニューヨーク州バッファローで,バーバーズ・インターナショナル・ユニオン・オブ・アメリカBarbers International Union of Americaの結成大会があって,直ちに全米労働者連盟に入り,その組織は数的にもイデオロギーの面でも重きをなした。また,1897年ミネソタに近代理容最初の免許制度が施行されて,教育制度は新しい第一歩を踏み出し,カリキュラムは大衆の要求によって拡大されるようになった。理容器具にも発明改良が加えられて,その技能は第2次大戦を境に各国とも著しい進歩をみせている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「床屋」の意味・わかりやすい解説

床屋
とこや

髪結床(かみゆいどこ)の略称。室町時代から男子の調髪、髭(ひげ)、月代(さかやき)を剃(そ)った職業。現在は理容室、調髪所ともいう。元来、男の髪は総髪で、高貴の間では冠下髻(かんむりしたのもとどり)とし、庶民は簡単な束ね髪であった。武家社会となって、互いに勢力を競って戦いを挑み、その戦乱が長く続くと、武士は髪の蒸れるのを防ぐために月代をあけるようになり、その月代が大きくなるにつれて、職業としての床屋の需要が生じた。それまでは毛抜きを用いて抜いたので、血だらけになったことが南蛮人の記録にある。床屋としての最古の絵画は上杉(うえすぎ)本『洛中(らくちゅう)洛外図屏風(びょうぶ)』にみられるので、永禄(えいろく)~天正(てんしょう)(1558~92)のころには職業として成立していたといえる。当初の床屋の仕事は、月代の毛を抜くことにあった。それが髪を結うようになったのは天正年間も終わりごろからであり、当初は一銭剃(ぞり)、一銭職ともいわれた。江戸時代に入って江戸の町ごとに株仲間ができるようになり、滑稽本(こっけいぼん)『浮世床』にみられるように繁盛していき、文明開化とともに洋風の床屋に変わっていった。

[遠藤 武]


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百科事典マイペディア 「床屋」の意味・わかりやすい解説

床屋【とこや】

理髪店とも。1871年〈断髪脱刀勝手令〉が出て,丁髷(ちょんまげ)から散切頭へ移るとともに,従来の髪結(かみゆい)も西洋風の散髪床,西洋床に変わった。用具も,従来の和剃刀(かみそり)からレーザー(西洋剃刀)やバリカン,鋏(はさみ)となり,大正期には電気バリカンも出現した。西洋では中世には理髪師は外科医を兼ね,瀉血(しゃけつ)や抜歯などを行った。当時大学で修業した高級外科医は青と白に縁どった棒に赤旗と薬壺をつけて看板にしたが,理髪外科医は青と白の棒だけだった。1540年にはイギリスで理髪外科医の組合で国家から承認されている。今日床屋の看板となっている赤・白または赤・白・青に塗り分けた棒は,瀉血のときの血に染まった握り棒と包帯を模したもの。当時はまだ動脈・静脈という概念はなく,赤が動脈,青が静脈,白が包帯を表すという説は当たらない。→理容師

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世界大百科事典(旧版)内の床屋の言及

【髪結】より

…髪を結うことを職業とする者。なまって〈かみい〉ともいい,その店をかみいどこ,かみどこ,とこやなどとも呼ぶ。日本では古来髪は自分で結うか,家人が手伝って結髪した。しかし宮中や貴族,武家階級などでは,衣装の着付や結髪,化粧をする役目の者が置かれていた。平安・鎌倉時代までは,男は一般に烏帽子(えぼし)をかぶる風があり,結髪はしごく簡単であった。室町時代の応仁の乱は風俗,慣習にも大きく影響し,かぶりものを脱した露頭(ろとう)や月代(さかやき)が行われるようになった。…

【看板】より

…業種の看板はローマ時代から中世,現代へとひきつづき行われているが,とくに居酒屋のブッシュはよく知られている。中世の風俗画によると,床屋(腕木に盆をかけて突出した形),居酒屋(ブッシュのほか,ジョッキと大皿)などが多い。看板は,初めは業種のシンボルが多かったが,居酒屋では,領主の紋章とか,白鳥・ライオン・雄鹿などを店のシンボルとして看板に描くことが多くなった。…

【辻】より

…木戸門脇には髪結床があり,また塵芥箱が置かれていた。なお,床屋は町用人として町内の雑用を果たした。辻斬が横行した江戸では,辻行灯,辻番所が設置され,辻番人(町方では自身番)が警備にあたった。…

※「床屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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