築地村(読み)ついじむら

日本歴史地名大系 「築地村」の解説

築地村
ついじむら

[現在地名]中条町築地

日本海に沿う砂丘の内陸東側にあり、東方をほり川が流れる。北は高田たかだ村、南は築地新ついじしん村に接する。出羽街道が南北に通る。近世中期に紫雲寺しうんじ潟が開発される以前は潟端の集落であった。建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)奥山おくやま庄内「ついち」とみえ、一一月五日付の同譲状(山形大学所蔵中条家文書)でも左衛門三郎義頼(よりもち・茂連)に譲られている。弘安元年(一二七八)五月一八日、義頼は一一月五日付の譲状によって相続を承認された(「鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文」同文書)。永仁二年(一二九四)六月一二日の和田茂連譲状案(同文書)では、当地などが子息八郎茂泰に譲られている。しかし同四年一一月二四日の関東下知状案(同文書)では、幕府はこの譲状を偽文書と断定して茂泰の相続権を否定し、同二年三月一〇日付の知行分の三分の一を茂貞へ譲るとする地名の明記のない茂連の譲状(同文書)が有効とされた。


築地村
ついじむら

[現在地名]玉名市築地

小岱しようだい山の南麓にあり、東は山田やまだ村、西は開田ひらきだ村・庄山しようやま(現玉名郡岱明町)、南は前原まえばる(同上)に接する。南を三池みいけ往還が東西に通り、七里の里数木がある。永仁六年(一二九八)七月一四日の官宣旨(佐賀県妙光寺文書)によると、鎌倉後期に恵光によって真言律宗の浄光寺が建てられ、明徳二年(一三九一)の西大寺諸国末寺帳(鎌倉極楽寺文書)にも「築地浄光寺」とある。寺域は八町と伝えられ、寺域跡(現蓮華院誕生寺)からは青銅製の仏頭などが出土している。

元亨四年(一三二四)六月二六日の紀しけたか・しやうれん連署譲状(詫摩文書)に「ひこのくについちのむら」がみえ、田一町・屋敷一を弥陀女に譲っている。また建武五年(一三三八)三月七日の少弐頼尚知行預ケ状案(同文書)にも「上築地」がみえ、兵粮料所として詫磨宗直の一族へ預けられている。


築地村
ついじむら

[現在地名]藤枝市築地・築地上ついじかみ東町ひがしちよう小石川町こいしがわちよう三―四丁目・高柳たかやなぎ一丁目

大井川扇状地の北縁に位置し、西は稲川いながわ村、北も東流する瀬戸せと川を挟んで同村。志太しだ郡に属する。永禄一一年(一五六八)三月一〇日の今川氏真判物(円良寺文書)に築地郷とみえ、同郷内の漆畠うるしばたには今川氏親の息子彦五郎(定源寺殿)の菩提所円隆寺(現曹洞宗円良寺)があり、今川氏真は同寺に竜雲寺殿(寿桂尼)寄進の寺領を安堵し、増善ぞうぜん(現静岡市)の末寺としている。翌一二年九月二五日には氏真により築地内にあった増善寺領四二俵などが安堵され、荒地・不作・当損免を蔵納並に引くこととされた(「今川氏真朱印状」増善寺文書)


築地村
ついじむら

[現在地名]上田市大字築地

さん川と浦野うらの川が合流する辺り一帯の村。集落は東西に通じる松本道沿いにある。東は上田原うえだはら村・下之条しものじよう村、西は小泉こいずみ村、南は福田ふくた村、北は下之条村と境をなす。

嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「四番五月会分、左頭、小泉庄半分内上田原・津井地、穂屋薩摩守知行分」とあり、中世の津井地ついじ(築地)は小泉庄に含まれた。小字堀ノ内(現東築地)は小泉庄にかかわりをもつ土豪(小泉氏か)の館跡と推定される。

戦国期には村上氏の勢力下にあったが、天文一七年(一五四八)の上田原合戦のあと、しばらくして武田氏の勢力下におかれ、天正一〇年(一五八二)武田氏の滅亡後は真田氏の領有となる。


築地村
ついじむら

[現在地名]昭島市玉川町たまがわちよう一―五丁目・築地町・朝日町あさひちよう一丁目・同四―五丁目・昭和町しようわちよう三丁目・中神町なかがみちよう一―三丁目・宮沢町みやざわちよう一―三丁目・福島町ふくじまちよう二―三丁目

中神村の南、多摩川北岸にあり、対岸は粟之須あわのす(現八王子市)。村名は一村だけとくに離れて多摩川岸にあり、全く新たに造成(築立)されたような地形にみえることに由来するという(風土記稿)。筑地村とも記される(天保郷帳など)。田園簿に築地村とあり、田五〇石余・畑四九石余。うち六〇石が幕府領、三九石余が旗本岡部領。寛文八年(一六六八)には検地が行われた(「検地帳」並木家文書)。享保年間(一七一六―三六)には北部の武蔵野新田のうちに新田が開かれ、元文元年(一七三六)に検地を受けた(同文書)


築地村
ついじむら

[現在地名]潮来町築地

台地上にあり、東は延方のぶかた古高ふつたか両村、南はつじ村。村域内に貝塚かいづかの地名があり、広大な貝塚や境塚さかいづか古墳群が存在し、また辻村の元村と伝えられることなどからみて、古くから開かれた地域と思われる。

中世は島崎しまざき郷に属し、正応三年(一二九〇)には隣村の水原みずはら村から本圀山妙光みようこう寺が移建され、以来日蓮宗布教の中心地となった。当地を支配した島崎氏滅亡後は佐竹氏の支配地となり、慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田移封後、水戸藩領となった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村名があり、村高四四九石余のほか、新田二〇石余が記される。


築地村
ついじむら

[現在地名]豊後高田市築地

荒尾あらお村の東、かつら川の支流都甲とごう川中流北側に位置する。天正八年(一五八〇)と推定される一〇月二六日の大友義統書状(大友家文書録)に「築地村」とみえ、義統は飯田麟清の同村切寄勤番の辛労を賞している。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高三〇七石余、家数七〇(うち百姓一七、隠居・名子・牛や・庭や五三)・人数一三七(うち百姓一七・名子四)、牛二〇・馬五。正保郷帳では都甲庄に属し、田方一六〇石余・畑方六七石余、半分日損所で茅山・柴山・新田がある。文政一一年(一八二八)の免定写(元山文庫)によると高二三一石余(田方一四七石余・畑方八四石余)で、八五石余の引高があり毛付高一四六石余、免九ツ九歩。


築地村
ついじむら

[現在地名]菊池市わたる

片角かたかく村の北方、城山しろやま台地の東側が菊池川に接するところに立地する。「菊池風土記」によると、当村南西の西寺にしでら諏訪原すわのはるから北東の平野ひらの村へ通じる古の大道があって、山奥の村人はこの道を通り隈府わいふ表に往還したという。隈府町高札辻より約一八町。天正一七年(一五八九)検地帳に田二町五反六畝余・畠一町一反五畝余・山畠七反三畝余、分米四一石八斗余とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳でもほぼ同高。同一一年一一月八日、加藤清正は当村と藤田ふじた村の計二七〇余石の所領を窪田竹蔵に宛行った(「加藤清正黒印状」男成文書)


築地村
ついじむら

[現在地名]磯部町築地

池田いけだ川の最上流の河谷にあり、東北には恵利原えりはら村がある。天保郷帳には「筑地」と記される。「宮司家旧記」(「志摩国旧地考」所引)建仁元年(一二〇一)一〇月二四日の内宮庁宣に「築地御薗磯部貞永、右人為当神戸加刀禰職」とある。近世を通じて鳥羽藩領で答志とうし郡に属した。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高四九〇・〇八二石のうち山年貢高二石、夫米高二八・九五石が寛文四年(一六六四)より定引とあって、ほかに反畝不明の無地一二・〇八六石があった。


築地村
ついじむら

[現在地名]明野町築地

台地上にあり、南は鷺島さぎしま村。江戸時代は天領・旗本領で、明治二年(一八六九)の村鑑帳(広瀬家文書)によれば、天和三年(一六八三)に浅野采女から斎藤佐渡守に高一四九・一七一石が引渡され、元禄年間(一六八八―一七〇四)に代官永田作太夫から中沢惣右衛門に高二一九・六〇七石、田五町七反六畝八歩・畑三三町六反一七歩が引渡されている。


築地村
ついじむら

[現在地名]刈谷市築地町

北は逢妻あいづま川をもって泉田いずみだ村と境し、東はひと村。洪積台地の西縁に発生した集落よりなる。縄文後期中葉に属する築地貝塚がある。築地古墳は古墳時代後期に属するが、今は壊滅した。逢妻川の谷はかつて入江であり、近くに寄神の伝説を伝える御舟おふな塚がある。


築地村
ついじむら

[現在地名]城南町築地

吉野よしの山の東山麓、緑川を望む台地に集落があり、南北に水田が広がる。西は坂本さかもと村と耕地および山林を分ち合っている。慶長国絵図に高一千八四三石一斗余とあるが、「国誌」ではわずか三〇二石余にすぎない。これは絵図には築地村が周辺村落の代表として記載されているためである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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