下谷村(読み)しもやむら

日本歴史地名大系 「下谷村」の解説

下谷村
しもやむら

[現在地名]都留市下谷一―四丁目・中央ちゆうおう一―四丁目・つる一―五丁目・下谷

蛇行しながら流れる桂川中流右岸を中心とし、南西は上谷村。近世には谷村藩城下町として発展し、上谷村とともに富士道沿いの町屋を形成した。文禄三年(一五九四)の浅野氏重の検地によって谷村が上・下に分れた。谷村藩主秋元家三代の時期に城下町は整備され、町並はなか町・しも町・よこ町に分れ、城下外に枝郷深田ふかた羽根子はねこ新井あらい姥沢うばざわがある(以上「甲斐国志」)。元禄郷帳には当村の枝郷として新井・瀬中せなか・祖母沢の三ヵ村が記され、天保郷帳では「古は下谷村・瀬中村・新井村・祖母沢村四ケ村」と注記される。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名がみえ高四七三石余、寛文九年(一六六九)の郡内領高辻帳では高八七〇石余。石高の増加は谷村藩主秋元泰朝が寛永一六年(一六三九)十日市場大とおかいちばおお堰を完成させ、同時にその分流家中かちゆう川を開削して谷村城下の上水とし、その末流が当村の耕地を水田化したことによる。天保一五年(一八四四)の下谷村屋敷割絵図(都留市蔵)によると、上谷村しん町から北東に続く富士道に中町とみえ、街道は下町を経て東漸とうぜん寺門前で北西に折れ、さらに横町を抜けて北東に折れ、枝郷瀬中に至る。町屋部分の地番は上谷村に接する谷村陣屋(跡地は現在の中央二丁目の都留簡易裁判所敷地)隣の街道西側を一番とし、前記北東に折れるまでの同街道沿いを屋敷七三番まで続く。次いで街道反対側に移り、街道沿いを屋敷一番の反対側の屋敷一二三番まで逆戻りしている。そして地番の順はさらに街道両側周辺に拡大している。上谷村の地番と比較するとその付方の順序に違いがみられ、町屋の形成過程の相違を示すものとも考えられる。


下谷村
くだたにむら

[現在地名]下松市大字下谷

末武すえたけ川流域の谷とその北側の山地を村域とする。北東は中須なかず(現徳山市)、北西は須々万本郷すすまほんごう(現徳山市)で、瀬戸せと村の北にあたる。萩藩領で都濃宰判に所属。

慶長期(一五九六―一六一五)検地帳には村名はないが、毛利輝元が次男就隆に元和三年(一六一七)分知した領知目録(毛利家文書)に、下谷村四二二石六斗一升二合とみえる。


下谷村
しもやむら

[現在地名]伊勢原市下谷

西南を渋田しぶた川が流れ、北は小稲葉こいなば村・上谷かみや村、西は沼目ぬまめ村、東は大島おおしま(現平塚市)に接する。大山道・伝馬てんま往来が通る。小田原衆所領役帳には笠原美作守「九拾八貫九百五十文 中郡谷郷」とある。正保国絵図に「下谷」とみえる。

寛永一〇年(一六三三)旗本近藤・石川・渡辺領の三給、享保一三年(一七二八)渡辺領が下野烏山藩領となる。元禄一一年(一六九八)六月の大助郷諸村困窮理由書上(県史九)によれば、大磯宿・平塚宿の大助郷村を勤める当村をはじめ九ヵ村が両宿付近はとくに通行が多くて農繁期にも勤めなければならず、そのうえ朱印人足も勤めさせられているとして困窮を訴えている。


下谷村
しもやむら

[現在地名]加須市下谷

南は不動岡ふどうおか村と岡古井おかふるい村、東は三俣みつまた村。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿では田高九一三石余・畑高二一四石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳によると旗本谷口領。「風土記稿」成立時は同領と岩槻藩・下野足利藩領の相給。岩槻藩領は宝暦六年(一七五六)、足利藩領は享保一七年(一七三二)からで(宝暦一〇年「大岡忠光領知村寄目録写」中村家文書など)、幕末まで三給とみられる(改革組合取調書など)


下谷村
しもだにむら

[現在地名]金沢市下谷町

西市瀬にしいちのせ村の南東、浅野川上流西岸に位置する。正保郷帳では南東の白見しろみ村と併記され、二村合せて高二九二石余、田方八町六反余・畑方一〇町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二一九石・免は四ツ八歩で、ほかに山役四八六匁・炭役六匁・蝋役五匁・漆役一匁・綿役一匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数六・百姓数一三(高免付給人帳)。なお貞享元年(一六八四)の高目録(加越能文庫)には白見村枝郷とみえることから、同村から分村した新田村であると考えられるが、分村の経緯などは不明。


下谷村
しもだにむら

[現在地名]柵原町下谷

柵原村の北西、吉井川左岸に立地、北は連石れんじやく村。正保郷帳に村名がみえ、田四一石余・畑二三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて八石余、村位は下。「東作誌」によれば毛付高四八石余、家数一〇、男二六・女一五。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年甲斐甲府藩主徳川綱豊領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛延元年(一七四八)播磨三日月藩預、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政一一年(一七九九)播磨龍野藩預、明治元年(一八六八)鶴田藩領(美作国郷村支配記)


下谷村
しもだにむら

[現在地名]三朝町下谷

吉尾よしお村の南、尾根を隔てた南側の谷を中心に位置する。拝領高一二三石余。本免六ツ二分。和田氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一四九石余、竈数一三。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高二〇八石余、高二一九石余、うち畑高七石余、倉吉御蔵納。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一六九石余、竈数三〇。


下谷村
しもたにむら

[現在地名]山中町下谷町

大聖寺だいしようじ川上流右岸、山中村の南にあり、蟋蟀こおろぎ橋を渡ると対岸は山中温泉。大部分は山地で、西の川沿いにわずかに平地がある。正保郷帳によると高一一三石余、田方八反余・畑方八町一反余、物成高四九石余。「江沼志稿」でも村高はあまり変化なく、小物成は山役一三匁、家数二一・人数八一。同書によると当村より上流の山間部の村々ではムツシ畑とよばれる焼畑が行われた。山林を伐採して二百十日の前に焼き耕し、初年は蕎麦・油菜、二年目は粟、三年目は大豆・小豆・芋など、四年目は粟・芋、五年目は小豆・芋を作り、六年目から一五年間休耕してまたこれを繰返すというものであった。


下谷村
しもたにむら

[現在地名]舞鶴市字吉野よしの

朝来あせく谷のほぼ中央に位置し、志楽谷への通路口にあたる。南方に山を負い、北方に朝来川が西流する。裏山に銀を産した休鉱山がある。

中世志楽庄朝来村の地。慶長検地郷村帳に高二三九・三八石「下谷村」とみえ、土目録では総高二四〇石、うち田方二二五石余、畑方一四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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